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とらっくばっく

2007-12-01みんな仲良くすればいいと思う

法律の人達は神様でも裁いてればいいんだと思う ― レジデント初期研修用資料」 

について少し箇条書きっぽく書いてみます。


社会構造は道徳に基づいて構築され、道徳は人々の(何が善いと感じるかという)感情によって規定され、人々の感情は当人の生活する社会構造によって影響される。

これらは相互に影響し合いながら変化していく。

感情の変化に比べ、構造の変化には時間と労力がかかるため、社会構造はいつも人々の感情とは「ずれて」いる。

しかしそこに構造がある以上、その構造を肯定する感情が少なくとも過去にはあった。

「老親は、家で診るのが一番幸せです」という道徳を肯定する感情があった。

道徳は人々の感情が決めるので、「道徳のありかた」を議論して定義しても、絶対に不満は出る。

「ほとんどどんな条件のもとでも、一意的な均衡に誘導するメカニズム存在する」が、どのような意図に沿った均衡に誘導すればよいのかに関する人々の感情はばらばら。

もちろん現在の、国会議員国民投票で選ぶという方法以上に、人々の感情を欠損や遅滞が少ない形で吸い上げる機構の構築は可能。(ネット投票を駆使した国民による直接政治等)

しかしそれによって人々の感情と社会構造のずれが少なくなったとしても、不満は残る。最大多数が納得する正義を考えたとき、そういった新機構があれば最大多数である度合いが大きく増えるのかは疑問。

「急性期の大病院を一番高価にして、老健施設、在宅介護サービスの順番に、経済的な負担が少ない」構造がすぐに作れる状態であったとして、そういう社会構造に「すぐに」変化することを「善い」と「感じる」人がどれほど多数であるのか。多くの人にとって「急な変化」は恐ろしいものではないのか。

感情の重要性は延命治療を考えると分かりやすい。そもそも無理な延命を悪いと「感じ」ず、死を嫌だと「感じ」るからこそ、不経済な延命治療は行われている。


ではこれらの問題の根本の原因は何であるのか。

それは「理解の不足」ではないか。とりわけ人々の「相互理解の不足」ではないか。

1.法律家は「国民はなぜ、どのような感情を抱いているのか」を理解しようと努め、その感情が要求する社会構造を構築するために必要な経済学的制約を理解しようと努めた後に、仕様書を作成する。

2.経済学者は「法律家はなぜそのような仕様書を作成したのか」を理解しようと努め、その仕様書に沿った社会構造を考え出した後に、その意義を国民に広く伝えようと努める。

3.国民は「なぜこのような社会構造が作られたのか」を理解しようと努め、自分の感情を正確に法律家に伝えようと努める。

このように分業ではない、感情の相互理解に基づく協業こそが、真に問題を解決するのではないか。

国という組織の各細胞は、有機的に関連しあいながら全体を構成している。

プログラミングとは経営判断の集積である ― 分裂勘違い君劇場 」  

という記事はプログラミング経営判断は不可分な作業であることを示しているが、仕様書の作成作業と社会構造の構築作業も同様に不可分な領域を持っているだろう。

ネットの発達は技術進歩を加速させるが、同時に人々の相互理解をも加速させる。

学習の道具としてblog はあんまり役に立たない」のかもしれないが、基本的な相互理解の不足を埋めていくのには、大いに役立ってくれるのではないだろうか。

そうして、「法律家」「経済学者」などとカテゴライズして人間を分断せずに、みんなでみんなの社会を考えていくという見方はどうだろうか。(もちろん各人の適性を活かして、それぞれが最も深く考える分野は異なって当然だが)

多くの人がそのような意識を持っていくと、仮に社会構造が変わらずとも最大多数の幸福は実現に近付き、それに付随して社会構造も最適な状態に変化していくのだと思う。

付 言葉の定義の問題ですが、今回の場合なら、「法律の人・法律家とは、法律について考えている人の事である」とでも定義するとしっくりくるかもしれませんね。より厳密には、「ある人が法律について深く考えている程度に応じて、その人がどの程度法律家であるかが規定される」とでも表現するとよいかもしれません。記事のテーマとは関係のないことですが、言語というものの不完全さを文脈からの読解で補おうとするのが好きではない人もいますからね。(笑)

ゲスト



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