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とらっくばっく

2008-11-19

[]幻想時間を使いすぎると人生が消費される。人生根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書5冊を紹介



人間は、好きなことを思い描き、夢を見、信じることが出来る。


わたしは心地よく眠っている人を無理に起こそうとは思わない。目が覚めた後の彼の、今日という一日がどんなに素晴らしいものになるか分かっているとしても、彼は今すぐに起きる必要はないのだ。遅くに起きようと、今日の活動時間たっぷりとある。実際の所、時間無限にある。


この世には様々な思想、思考、情報が溢れている。それらは無数の多様性と複雑さを以てあなたの思考を刺激し、楽しませる。しかしそれらの殆ど全ては、どれほどの時間と労力をかけてそれらを理解し、組み合わせ、発展させていったところで

存在の究極の原因・意義は何か、私とは何か」

という問いに対する完全な回答には至らないものばかりである。


わたしはこの記事やこの記事で紹介する本を、多くの人が読むべきだとは思わない。人はその時が来れば自然に目覚めるのであるし、無理に起こそうとしたところで、頑なに今見ている夢にしがみついて目覚めるのを拒むだけだ。

多くの人にとってこれらの本の内容を理解することより、現在自分が信じている事、見ている夢を守ることのほうが大切だ。だからそういった人が仮にこれらの本を読むことになったとしても、その際に取るべき態度は無関心と否定である。具体的には、これらの本の内容を自分が理解出来ない理由、理解しなくてよい理由、理解すべきでない理由、そしてこれらの内容が間違いである理由を無数に準備して、自分に説いて聞かせながら読むのである。さらにまた、自分自身の理解力を意図的に低下させつつ読むのである。なぜならば、感情によって既に結論は出ているからである。すなわち

「これらの内容は間違いである。少なくとも今自分が理解する必要はない」

と。

なぜそのような結論が出ているのかといえば、これらの本の内容を理解してしまうと

自分存在を信じている世界は実際は存在しない。そればかりか、当然に存在しているはずであった自分自身さえも、実際は存在していない。」

ということを理解してしまうからである。

これらのことをただのアイデア、考えとして眺めている分には何の問題もない。しかし、実際にそれらが事実であるということを自分が本当に理解してしまうとなると話は別である。これは自我にとっての恐怖である。鏡を見たら自分だけが映っていなかったという場合の恐怖を、何倍にもしたような恐怖である。何しろ自己存在していないのだ。


自我が嫌うものは変化である。多くの人にとって、自分が信じていたものが誤りであったことを知ることは、死ぬ事以上の苦痛であり、恐怖である。従って自我は、あらゆる力を動員して、その状況を避けようとする。顕在意識に悟られぬよう、それでいて顕在意識自分の判断は誠実である」という自負を崩さぬよう。そのためにまずは

「これらの内容は間違いである。少なくとも今自分が理解する必要はない」

という感情的結論を準備し、その結論が導き出されるあらゆる正当な論理的理由を、その都度記憶の中の情報を組み合わせて構築してゆくのだ。

このようにして、

「私は誠実に慎重にこれらの本の内容を吟味し、その結果としてこれらの本の内容は誤りであるか、少なくとも今の自分にとっては無価値であるという結論を得た。」

という自覚を顕在意識に与えることに成功する。自我の恐怖は無自覚のまま潜在化しつつも、これまでの自己思想を守ることができ、又、先に結論を準備し、そのフィルターを通して内容を捉えたという自己の欺瞞にも顕在意識が気付かないでいることができる。この欺瞞とはつまり、まずAという理論採用し、次にBという理論を見た際に、それがAと矛盾するからという理由で否定することである。「先に見たから」という理由でAを真とし「後から見た」Bを偽とするのは、利便性には優れるが、真実への判断の態度としては不誠実である。しかしこの不誠実さの上に、感情によって先行した判断を補強する論理的理由は築かれていく。これが自我による自己防衛機構である。そしてまた、不安を永続させる機構である。


ではこのような防衛機構を乗り越えてまで、これらの本の内容を理解すると何が得られるのであろうか。それは

真理の理解、神の平安、完全な愛」

である。この一文を見た瞬間にあなたの自我はもう、

「これらの内容は間違いである。少なくとも今自分が理解する必要はない」

という感情的結論を出したのではないだろうか。そしてこの先の文章を読むこともなくブラウザを閉じるなり、他のページを見るなりするだろう。それを正当化するために後付けされた論理的理由の一つは、「時間無駄だから」である。そしてその根拠は「過去経験という記憶」を組み合わせて作られた、「先に見ていた理論」を通して導き出されたものだ。こうして自我は自らの夢と幻想を守ることに成功する。

このように自我自己防衛機構が働いていることは別に悪いことではない。そして、先ほど私が指摘したそこに潜む自己の欺瞞を恐れ、無理にこれから紹介する本を読んだところで、やはりその防衛機構が働き、本の内容を意図的に理解しないということになりかねない。それこそ時間無駄であろう。また、詐欺師に騙されないためにも、防衛機構は有用だ。新しいものは全て拒絶することにしておけば、今より良くなることは無いけれど、今より悪くなることもない。迂闊に検討するだけでも何か間違いが起きるかもしれないし、検討するにも時間はかかる。なにより、今より良いものなどそうそう無いのだ。現状に充分満足しているのなら、無駄にリスクを取る必要は無い。さあ、これであなたがこれ以降の記事や、紹介する本を読まなくて良い十分な合理的理由が出来た。安心してブラウザを閉じて頂こう。先ほど言った様に、まだ寝ていても大丈夫だ。




それでも私が紹介する本を読もうという人は、多くのものを得るかもしれない。先ほど紹介した

真理の理解、神の平安、完全な愛」

という報酬は絶大である。まさしく報酬として最大である。人生根底から豊かで納得のいくものにしてくれることは疑うべくもない。ただしこの報酬は、「本を読む」ことによってではなく、「本の内容を理解する」ことによって得られるものである。本には文字が印刷されており、文字は言葉を表している。しかし、言葉それ自体は何の意味も持ってはいない。従って、ただ文字を読んだだけでは何も得るものはなく、その言葉が表現しようとした内容を把握して始めて、何かを得ることができる。

言葉に込められる内容の密度は、ゼロから無限にまで変化する。そこで、文章の密度に応じて、それに適した読み方は異なってくる。殆ど意味の無い文章を読むにはただ目線を走らせればよいが、深遠な意味を持つ文章を理解するためには、相応の読み方をしなければならない。ここにそのような文章の読み方に関する、一冊目に紹介する本の中の一節を紹介しよう。


スリ・ユクテスワは、聖典の教え方に関する彼自身の体験談を語ってくれた。所は東ベンガルの森の中の僧院で、彼はそこで著名な教師ダブル・バラヴの教授法を見学した。それは一見単純ではあるがむずかしい方法で、古代インドではふつうに行われていた教授法である。

ダブル・バラヴは、生徒たちを森の静かな場所に集めてすわっていた。彼らの前には、聖典バガヴァッド・ギーターが開かれていた。彼らは三十分間、一つのページにじっと目を注いでいた。それから目を閉じた。こうしてまた三十分が過ぎた。すると先生は短い注釈をほどこした。彼らは身動きもせずに、また一時間瞑想した。そして最後に先生が言った。

「どうだ、この一節の意味がわかったかね?」

「はい、わかりました、先生」生徒の一人が答えた。

「いやいや、まだ十分にはわかっていない。これらの言葉の中には、幾世紀にもわたってインドをたえず若返らせてきた霊的活力が秘められている。それを探しなさい」

沈黙のうちにまた一時間が過ぎた。ダブル・バラヴは生徒たちを解散させると、スリ・ユクテスワに向かって尋ねた。

「あなたはバガヴァット・ギーターをご存知ですか?」

「いいえ、まだほんとうには・・・。目と心では何度も読んだことがありますが」

「この問いに対して、わたしは十人十色の答えを聞きました」

偉大な賢者は、スリ・ユクテスワを祝福しながらほほえんだ。

聖典の表面的な言葉をただ数多く覚え込むことにのみ熱中していると、内なる真の宝を瞑想静寂の中に探り出す余裕がなくなってしまいます」

密度が濃い文章を読む際の参考にしてほしい。


さて、まず紹介するこの一冊目は

あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝


である。

この本は読み物として書かれたあるインド人の自伝であり、写真と解説付きで著者の体験と出来事が書かれているだけであるので、先ほどの聖典の例のように手の込んだ読み方をする必要はまったくない。気軽にすらすら読んでいくことができる。内容の真偽などさほど気にせず、楽しい物語として読めばいい。それでも、2冊目以降を読んでいく際の助けとなる知識的心理的土壌が準備されるのではないだろうか。もちろん、この本自体からも多くを得られるだろうし、また、この後に2冊目を読まず、ここから関連する他の本を読んでいってもいい。これは、様々な意味での導入となる本である。


2冊目と3冊目は一続きの本で、

解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え

解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え

である。

これらの本の内容の半分は著者の体験談であり、もう半分が自我を理解するための説明となっている。すなわち、自我の正体は過去記憶とその反射応答であることを理解し、それを超えて永遠なる現在に至ることがこの本の目的である。これらの言葉には何の意味もないが、その内容を理解することには無限価値に繋がる。尚、こういった内容はどうしても翻訳による誤差が大きくなるため、原文を読めるに越したことはない。幸い原文は公開されているので合わせて紹介する。

BEYOND THE HIMALAYAS

解脱真理の原文

The Yoga of the Christ

解脱真理完結編の原文である。

尚、これらの本はアマゾンでは何故か頻繁に販売が中止になるが、出版自体は続いている。

セブンアンドワイでは取り扱っているなどという場合があるので、他の本も無い場合は確認してほしい。


4冊目は、いわゆる聖典のような内容の本である。

心身の神癒―主、再び語り給う

心身の神癒―主、再び語り給う

前書きの部分を除き、文章の内容密度は極大である。しかしそれだけに、普通に読んでもその内容を殆ど把握できない可能性もある。これもできれば原文で読むことを薦める。

Divine Healing of Mind & Body

Divine Healing of Mind & Body

もちろん日本語訳でも多くのものが得られるだろうが。

一旦通読してからも、音読する、一文読む毎に瞑想する、100回繰り返して読む、写本する、などあらゆる手段を使ってその深い内容を理解しようと努める価値がある。

私がこの本を読む場合も、その際の自分意識の状態によって得られるものが全く違ってくる。例えば普通の本を読む時のような意識でこの本を読むと

「ふーんなかなかいいこと書いてあるなー。確かにそうだよなー。へーそうなんだー。」

というような軽い感想を持つくらいである。しかし、非常に静かな集中力と、鋭敏な感受性を備えた状態で読むと、

「なんだこれは!」

と、一行読んだだけでそのあまりの内容に圧倒され、感動の涙と嗚咽で1ページを読み進めることも出来なくなることがある。しかし翌日落ち着いて同じ箇所を普通に読んでみると、

「昨日感動したこの文章の凄さをぜんぜん感じられないぞ?」

と、あっさり読み進んでしまったりする。

結局、聖典の文にせよ、日々昇り行く太陽にしても、今自分が生きているという奇跡についても、その深い意義や意味について常に把握できる意識状態でいることは難しいということだ。そこで内容をより深く理解するためには、そうしようと努めることが必要になってくる。この前に紹介した3冊を読むことは、その助けとなるだろう。そのようにして読んでいっても、1年後にまた読み返せば、そこに以前はまったく気付かなかった多くの内容があることに気付くだろう。これはそういう内容の本である。



最後に紹介する本は、3つの独立した部分に分かれている。その構成は本文、生徒用演習、教師用マニュアル、となっており、自学自習できるようにと意図されている。特に演習部は、易しい課題から順番にこなしていけば内容の理解が深まるように構成されている。英語に抵抗がなければ、これまで紹介した4冊を読まなくても、ひたすらこの一冊を理解しようと努めれば目的は達成できるだろう。日本語訳は現在のところ本文部分のみ刊行されている。

A Course in Miracles: Combined Volume

A Course in Miracles: Combined Volume

これは私が現在知る中で、最大の本である。

尚、この本の初版の著作権は開放されており、原文も公開されているので紹介する。

A Course In Miracles Online ~ Searchable Urtext Version

また、幸いこの本に関連する幾つかの本は日本語でも出ている。それも合わせて、下の紹介記事を参考にされてはどうだろうか。

ACIMという不思議なテキストについて アンカテ


幻想継続させる書籍」と「幻想を終了させる書籍」の落差は、一般的な書籍間の落差では表すことはできない。通常の本をたとえ100万冊読んだところで、A Course in Miracles: Combined Volume 一冊を理解することには遠く及ばない。何事についても、その本質を把握しないことを前提とした議論と、その本質を把握するための議論は、比較のしようがない。

究極の問いとしての

あなたはどこからきたのか?

に対して、人は論考によらず、直接に回答を把握しなければならない。なぜならそれは、論理も、言語も、思考をも超えたものだからである。


とはいえ、幻想探検もまた大変楽しいものである。また、一度目が覚めた後、それが夢だと分かっている安心感と共に再度夢を見るのも大変楽しいものである。今すぐ起きる必要もないのであるし、どうせ夢を見るのであれば、なるべく楽しく豊かな夢になるようにしていこうではなか。


ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる25冊を紹介 分裂勘違い君劇場

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2008-05-30空とは何か - 色即是空と般若心経

[]空とは何か - 色即是空般若心経


※ 例によって、これは私個人の勝手な解釈の紹介であり、一般的な解釈とは何の関係もないという点にご留意下さい。


般若心経と空

色即是空 空即是色」


これは、般若心経の中の有名な一節です。般若心経とは、仏教経典の一つです。詳しくはこちらのページを御参照下さい。

般若心経の内容を要約すると、

「すべての物事の本質が『空(くう)』であることを理解すると、あらゆる苦悩が無くなって完全な平安が得られます。だから皆さん『空』を理解しましょう。」

と、なっています。

ではこの『空』とは何でしょうか?


色とは何か

では先ほどの一節です。


色即是空 空即是色」

色すなわちこれ空なり 空すなわちこれ色なり


色は空で、空は色です。ということですね。さて、ここでいう『色』とは何かといいますと、一般的な物事全てです。石ころもそうですし、人間もそうですし、暑いという感覚もそうですし、資本主義という概念もそうですし、「私は今生きている」という思考もそうです。全部が『色』です。『色』とは色づけのことであり、色づけとは意味づけのことです。つまり、意識勝手意味づけている(色づけている)事柄を、『色』と表現している訳です。勝手意味づけているとは、例えば石ころについて説明しますと、あなたが「石」だと考えたそのある事柄は、絶対的な原理で「石」であるわけではありません。それを原子の集合と見てもいいですし、素粒子の波と見てもいいですし、道路の一部と見てもいいですし、地球細胞と見ても構いません。しかし実のところそれは、あなたが「石」という名前で表現されるある特定の見方で意味づけるまでは、何物でもなかったのです。そして、それが「何か」であるという風に考えてそれを見た瞬間に、その見られたものはあなたの意識によって特定の意味づけ(色づけ、名づけ)がなされたものになります。このようにあなたが認識する全ては何であれ、あなたによって特定の意味づけがなされているために、それらは『色』と呼ばれることになります。


空とは虚空であり、虚空は無限である

色即是空

とは、全ての物事の本質は『空』である、ということになります。『空』というのが空っぽで何も無い、という意味であるなら、この世の全ては無であり、何も存在しないということになります。しかしそういったことはありません。『空』とは何も無いことではないのです。

『空』とは虚空を意味します。虚空とは、一見何も無いように見えながら、実際は全ての事柄、無限の事柄を内包している状態を指します。全てを内包していながら何も無いように見えるのはなぜかといいますと、全てを全てのまま何の色づけもなしに眺めているためです。無色の光というものが、何の色もついていないように見えながら、その実あらゆる色相のスペクトルを内包しているのに似ています。無色の光からはどんな色でも取り出せますが、全ての光を含んだ光全体を見ると無色に見えますね。

そうしますと、

色即是空 空即是色」

という一節は、

「すべての物事の本質は虚空であって、虚空を特定の見方で眺めることによってあらゆる物事を見ることができる」

という意味であることが分かります。


空を見る

これまでの説明から、皆様は空すなわち虚空というものについて漠然としたイメージを持たれたかもしれません。しかし、そのイメージはまた意味づけであり、色であるのです。そして、ある特定の色と、別の特定の色が似ているかどうかについて、比較して考えるという色を眺めることになります。しかし虚空はイメージでもなく、思考でもなく、概念でもありません。もしかすると皆様の中には、虚空というものもまた物事の特定の見方に過ぎず、色の一つに過ぎないだろうとお考えになる方がいらっしゃるかもしれません。しかしそうではありません。もちろん「虚空」という言葉は色ですが、その言葉で表現しようとしているものは、色ではないのです。もちろん、虚空もまた見方の一つに過ぎないということは可能でしょう。しかし、その見方だけは、他の見方と決定的に異なっているのです。端的に言えば、見方には空と色の2種類しかないのです。そして、空でないならば、どれも色でしかありません。言い換えれば、空とはただひとつの、色づけられていない見方なのです。

さて、ではその唯一の見方であるところの、思考でも概念でもない空という見方をするにはどのようにすればよいのか、ということになります。実際の所これについての方法論は無数にあり、宗教なり集団なり個人なり、各人各様好みの方法を探して用いればよいのではないかと思います。例えば般若心経では、真言(マントラ)を唱えつつ瞑想することが推奨されています。いずれの方法にせよ、自我を含め色が色であることを理解することを通して色でないものを理解するということになるのではないでしょうか。

例えば覚醒の炎などではとても明瞭簡潔な説明がなされていますし、A Course in Miracles(これの解説書としては神の使者など)では少し異なる形のアプローチながら、段階的な学習が期待できます。


完全な平安をお望みの方は、よろしければお試し下さい。

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2007-10-21 ニーチェとイエスの主張の類似性

[] ニーチェイエスの主張の類似性

「神は死んだ」と言うニーチェと「私と父なる神とは一つである」と言うイエス*1両者の主張は正反対であり、さぞかし大きく異なっているだろうと思われるかもしれない。しかし両者の主張をよく見てみると、多くの点で類似していることに気付く。そこで、いくつかの問題について、両者はどのように主張しているのかをここで順次比較検討し、その類似性を示していく。


0.目次


 1.価値ある物をどのように与えればよいかという問題について

 2.どのような考えに従って生きるべきかという問題について

 3.自分の思考が作った神という観念を崇拝し、自分の肉体を軽視するという態度について

 4.どのように書き、どのように読むのがよいかという問題について

 5.神を知るのは喜びを通してか悲しみを通してかという問題について

 6.高みを目指す者は内外からの妨害にさらされるという問題について

 7.自分の敵をどのように捉えるかという問題について

 8.細々とした妨害にはどのように接するべきかという問題について

 9.性欲をどのように捉えるべきかという問題について

10.隣人を愛するとはどういうことかという問題について

11.どのように自己の価値を評価すべきかという問題について

12.自分自身の飛躍的な進歩には何が必要かという問題について

13.人間の犯した罪をどのように裁けばよいかという問題について

14.偶像、信条、その他観念上の神を崇拝する人々について

15.柔和であることについて

16.過去現在未来、時間、永遠について

17.愛という動機


1.価値ある物をどのように与えればよいかという問題について


ニーチェ


かれらはわたしを理解しない。わたしはこれらの耳に説くべき口ではない。

かれらはわたしが冷ややかであり、すさまじい諧謔を弄する嘲笑者であると思っている。

そしていまかれらはわたしに目を向けて、笑っている。そのうえ、笑いながら、わたしを憎んでいる。かれらの笑いのなかには氷がある。

「1-序説-5」

ツァラトゥストラは民衆に語るのではなく、伴侶たちに語るのだ。

わたしは民衆を相手にけっしてふたたび語るまい。死者に語ったのは、これが最後だ。

創造する者、刈り入れる者、ことほぐ者と私は結ぼう。

「1-序説-9」

君が手をさしのべてはならぬ人間が多くいるのだ。かれらにはただ前足を与えればいい。そしてその前足にはまた猛獣の爪がそなえられてあるように!

「1-創造者の道」

そこでおまえは学んだのだ。

よく贈るということは、一つの技術であり、善意の究極の離れ業、狡知をきわめる巨匠の芸であることを。

「4-進んでなった乞食


と言い、イエスは、


聖なるものを犬たちに与えたり、あなた方の真珠を豚たちに与えたりしてはいけない。彼らがそれらを足の下で踏みつけ、向き直ってあなた方を引き裂くことのないためだ。

マタイ-7-6」


と言う。


この問題については両者共に、

「価値のある贈り物はその価値を理解する者にだけ与えるべきだ。理解しない者に与えても相手の役に立たないばかりか、逆に害となる場合もあり、恨まれることにもなりかねないのだから。」

と主張している。


2.どのような考えに従って生きるべきかという問題について


ニーチェ


どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。

しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神獅子となる。精神は自由をわがものとしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。

「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。

しかし獅子精神は言う、「我は欲す」と。

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができることがある。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

「1-三様の変化」

ほとんど揺藍のなかにいるときから、われわれは数々の重いことばと重い価値とを持ち物として授けられる。「善」と「悪」――これがその持ち物の名である。この持ち物をたずさえているのを見とどけて、人々はわれわれにこの世に生きることを許すのである。

そしてわれわれは――人々から持たされたものを、忠実に運んで歩く。こわばった肩にのせ、険しい山々を越えて。われわれが汗をかくと、人々はわれわれに言う、「そうだ、正は担うのに重いものだ」と。

だが、重いのは、人間がみずからを担うのが重いだけの話である。そうなるのは、人間があまりに多くの他者の物をおのれの肩にのせて運ぶからである。そのとき人間は、駱駝のようにひざまずいて、したたかに荷を積まれるままになっている。

ことに、畏敬の念のあつい、重荷に堪える、強力な人間がそうである。かれはあまりに多くの他者の重いことばと重い価値の数々を身に負う。――そのとき生はかれには砂漠のように思われるのだ。

人間は、その真相を見つけだすことがむずかしい。ことに、自分が自分を見つけだすことが、最もむずかしい。しばしば精神が魂について嘘をつく。

しかし、次のような言を発する者は、自分自身を見つけだした者である、「これはわたしの善であり、悪である」と。

「3-重さの霊-2」


と言い、イエスは、


種々様々な意見が外部から来る――しかし自分自身以外から出てくる意見によっては真理を把握することはできないのである。

「1-7」

これまでのあなたたちの心は外からの誤った考えを詰め込まれ、かくて聖なる内奥、即ち、唯一の実在を閉ざしていたのである。

「9-46」

あなたたちが他人の云うことを闇雲に信じたり、他人の信じていることを丸呑みすれば、模倣者にはなっても考える人にはなれない、従ってあなたたちは束縛されているのである。

「9-47」

立ち返って幼子たちのようにならなければ、あなた方は決して天の王国に入ることはないだろう。

マタイ-18-3」

外を観るな、内を観よ、そして自分が実在であることを知るがよい。

「3-65」

天とは何かの場所ではなくて神の意識である。あなたたちは何を意識しているか。暫く考えてみるがよい。ただ自分自身のことだけを意識しているのか、外部のことを意識しているのか、目に見え耳で聞こえるものを意識しているのか。それとも内なる声を意識しているのか。この内なる声は自分自身の存在を啓示しようとして、かつ又その強大なる力をあなたたちの生活の中で啓示しようとして、待機している。

「2-3」


と言う。


この問題については両者共に、

「外からの考えに盲従するのではなく、子供のように自由な心で自分の内からの考えに従って行動できるようになることが望ましい。」

と主張している。


3.自分の思考が作った神という観念を崇拝し、自分の肉体を軽視するという態度について


ニーチェ


わたしもわたしの妄想人間彼岸に馳せた、すべての背面世界論者のように。だが、人間彼岸に思いを馳せて、真理にはいることができたであろうか。

ああ、兄弟たちよ、わたしのつくったこの神は、人間の製作品、人間の妄念であったのだ。あらゆる神々がそうであるのと同じように。

その神は人間であったのだ。しかも人間とその「我」のあわれなひとかけらにすぎなかったのだ。

詩作し、神への渇望に駆られた者たちのなかには、多くの病的なやからがいた。

かれらは常に過去の蒙昧な時代を回顧する。

理性の狂いが神との類似であり、それを疑うことが罪だった。

現代における神の類似者たちのことを、わたしはあまりによく知っている。かれらは、自分がひとから信じられること、それへの疑いが罪になることを望んでいるのである。

わたしの兄弟たちよ、むしろ健康な肉体の声を聞け。これは、より誠実な、より純潔な声だ。

健康な肉体、完全な、ゆがまぬ肉体は、より誠実に、より純潔に語る。そしてそれは大地の意義について語るのだ。

「1-背面世界論者」

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、――その名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、彼が住んでいる。

君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。

「1-肉体の軽侮者」

まず大胆に自分自身を信ずるがよい――おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに嘘になる。

「2-無垢な認識


と言い、イエスは、


意識の中に保特されているさまざまの考えや観念は現象我を通して現れつつあるが、それは実在ではない。

「11-11」

多くの人々がその凝り固まった信仰のために妨げられている。彼らは他の者から与えられた観念以上のものは何も受け取ることはできない。かくて彼らは自分自身以外の或る権威に自分自身を引き渡し、とどのつまりが、制約され、束縛され、もはや自由ではなくなるのである。

「12-8」

人類を内から観れば、あなたたちのさまざまな信仰により、又あなたたちが掴んで離さない観念のために、どんなに多くの力が閉じ込められているかが分かる。

「12-26」

神は人の手によっては造られていない神殿である肉体を営繕し、神御自身を表現しつつある。

「1-84」

恐怖を放ち去った時、神である本性が肉体の正常な状態即ち調和を取り戻すことをあなたたちは知るであろう。

「1-85」

聖なる神殿を毎日キリストの生命の力強い、かつ断定的な波動で満たし、周囲の雰囲気を、肉の感官を超えて、昇華させよ。

「6-18」

ハートの清き者はあらゆる人々の中に神を見る。さまざまな信仰、観念、心象など、これらは心の産物に過ぎないのであって、実在そのものは久遠であり、「今」の中において実在自身を絶えず表現しつつある。

「10-47」


と言う。


この問題については両者共に、

「自分で神という観念を作り出しそれを崇拝することは、無意味であり有害でもある。それよりはむしろ、自分の本質が表現されているところの自分の肉体を大切にし、常に健やかたらしめるよう努めよ。」

と主張している。


4.どのように書き、どのように読むのがよいかという問題について


ニーチェ


いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血は精神であることを。

ひとの血を理解するのは、たやすくできることではない。わたしは読書する怠け者を憎む。

血と寸鉄の言で書く者は、読まれることを欲しない。そらんじられることを欲する。

「1-読むことと書くこと」


と言い、イエスは、


書物や言葉や文字など、すべてそれ自身としての価値は無い。み霊が思念を不可視のものに繋ぎ、かくて五官の世界を貫き通す手段として言葉を用いた時始めてそれらのものに価値が生ずるのである。

「7-11」

かくして言葉は大いなる値の真珠を内に秘めている外側の殻に過ぎない。あなたたちが或る言葉を自分の心の中に取り入れて、例えば『キリスト』、『わたしは生命である』という言葉を口に出して云うならば、その言葉は一応肉体の器官を通して出るのではあるが、それを久遠常在の霊的状態に高めることができるのである。

「7-12」

あなたたちが聖書その他何であれ天啓を受けた書、特にあなたたちの瞑想に資するためにわたしが与えてきたこれまでの法語を読む時、言葉の背後にみ霊を求めるがよい。求めなければならないのは文字や言葉ではなく、眼光紙背に徹することである。そうすればわたしはあなたたちにインスピレーションを与え、文字や言葉の真理をあなたたちの中に現す。

「7-59」

静かなる時心を静めてそれを読むがよい。そうすれば、わたしの言葉はあなたたちに留まるであろう。

「5-46」


と言う。


この問題については両者共に、

「文字や言葉自体ではなく、その背後に込められているものこそ大切であり、それを意識して読み、又書くべきである。」

と主張している。


5.神を知るのは喜びを通してか悲しみを通してかという問題について


ニーチェ


人間存在しはじめてからこのかた、人間は楽しむことがあまりに少なかった。そのことだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ。

「1-同情者たち」

わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。

わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。――この霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる。

これを殺すのは、怒りによってではなく、笑いによってだ。さあ、この重さの霊を殺そうではないか。

いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている。

「1-読むことと書くこと」


と言い、イエスは、


たいていの人々の心は罪の力という重荷をかつがされている。彼らには世の無智と世の罪だけしか見えない。しかし無智と罪を通してはキリストを見ることはできない。神の愛を通してのみキリストを見ることができるのである。

「1-71」

歓べ、恐れるな。恐れとは明確に視ることを妨げる視力の曇りである。それはあなたたちのヴィジョンを曇らす。

「13-35」

神の赦しは自然に発露するものである。従って一切のあやまちはその久遠の愛の流れによって直ちに消え去る。故に、失望、悲嘆、自責によってこの神の賜物を妨げてはならぬ。

「14-41」

このことを悟ると、ハートは開かれ、神の愛はその中へ流れ入り、やがてそれが肉体に現象化する。自分を責めて怨嗟に暮れ失望すれば、心は影に満たされる。しかし神の愛が満てば影の余地はなく、影は融け去る。

「14-42」


と言う。


この問題については両者共に、

「神は喜びの中にこそ見出しうる。」

と主張している。


6.高みを目指す者は内外からの妨害にさらされるという問題について


ニーチェ


自由な高みを君は目ざしている。星の世界を君の魂は渇望している。しかし君の低い衝動も自由を渇望している。

君の内部の凶暴な犬どもが、自由の身になろうとしている。

わたしから見れば、君はまだ捕われびとで、ただ自由を思い描いているだけだ。ああ、このような捕われびとの魂は賢く機敏になる。しかし同時に、狡猾になり、粗悪になる。

精神の自由をかちえた者も、さらにおのれを浄化しなければならぬ。かれの内部には、なお多くの牢獄と腐敗物が残っている。かれの目はいっそう清らかにならねばならぬ。

そうだ、わたしは君の危険を知っている。しかしわたしの愛と希望にかけて、わたしは君に切願する、君の愛と希望とを投げ捨てるな。

君は自分が高貴なことを今も感じでいる。そして君を不快に感じ、君に悪意のまなざしを投げる他の者たちも、やはりまだ君を高貴だと感じているのだ。高貴な者は万人にとって、妨害物であることを知るがいい。

だが、高貴な者にとっての危険は、かれが善い人の一人になるということではない。それよりも、かれが鉄面皮な者、冷笑する者、否定者になるということなのだ。

ああ、わたしはおのれの最高の希望を失った高貴な人たちを知っている。そのとき、かれらはあらゆる高い希望への誹謗者になった。

かつては、かれらは英雄になろうと志した。いま、かれらは蕩児となった。英雄はかれらにとって、恨みと恐れの的である。

しかし、わたしはわたしの愛と希望にかけて君に切願する。君の魂のなかの英雄を投げ捨てるな。君の最高の希望を神聖視せよ。

「1-山上の木」

わたしの兄弟よ、君は「軽蔑」という言葉を身にしみて知っているか。そして、君を軽蔑する者たちにたいしても公正をまもろうとする君の公正の苦悩を知っているか。

君は、多数者をして、いやいやながらも君にたいするかれらの判断と認識を改めざるをえないようにした。そのことをかれらは深く君にたいして恨みとしているのだ。君はかれらのそばに来たのに、そののちそこを通り過ぎて前へ高みへ進んでしまった。そのことを、かれらはけっして君に許すことはないのだ。

君はかれらを超えてゆく。しかし君が高みへのぼればのぼるほど、妬みの目は君を小さい者として見る。そして飛翔する者は、最も憎まれる者なのだ。

不公正と汚物を、かれらは孤独者にむかって投げかける。しかし、わたしの兄弟よ、君が一つの星であろうとするなら、かれらがそうするからといって、君がかれらを照らすことを少なくしてはならぬ。

「1-創造者の道」


と言い、イエスは、


この世にはわたしを知らないために、あなたたちを嫌い、あなたたちの悪口を云う人々がいる。わたしも又嫌われ、あなたたちの前で軽蔑されたことをよく知って欲しい。俗世の無知は今尚俗世の中に存続している。この無知を愛によって超克するのがキリストである。そのキリストはあなたたちの中に生きてい給う。キリスト吾が内に生く、とあなたたちが云えば、云うたが故に世の無知はあなたたちを嫌い、あなたたちを軽蔑するであろう。しかし誠にあなたたちに告げるが、恐れてはならない。なぜならば無知には何らの力もなく、魂とみ霊とを破壊することは出来ないからである。

「4-23」

わたしを信じ、神の愛がわたしを通じて発現すること、わたしはすべての人々、わたしを軽蔑した人々でさえも愛することを知るがよい。

「4-72」

あなたたちの仕事ははじめから自分で引き受けたものであり、あなたたちの進む一歩々々は正しい。その終末は恐らくあなたたちには見えないであろう。そのために疑惑がおこる。しかしあなたたちが疑惑しているからといって、それが創造計画を止めさせ、変更させることはできない。

「5-82」

決して見掛けに落胆してはならない。常に善なるものを見ることである。すべてはついには善なるものに到達するのである。久遠の計画は果たされなければならぬことを知るがよい、なぜならそれが神の御意志だからである。その背後に存する栄光と目的とはすべての人々に対する愛と平和と調和と善意とである。

「5-83」


と言う。


この問題については両者共に、

「内部の疑念や周囲からの軽蔑に負けず、なおかつ彼らに愛を惜しみなく贈り続け、あくまで最高の理想に向かって進め。」

と主張している。


7.自分の敵をどのように捉えるかという問題について


ニーチェ


戦いにおけるわたしの相手よ。わたしは君たちを心の底から愛する。

「1-戦争と戦士」

わたしの敵たちもわたしの至福の一部なのだ。

敵にむかって投げつけるこの槍。わたしがそれをついに投げつけていい時が来たことを、わたしはどんなにかわたしの敵に感謝することだろう。

「2-鏡をもった小児」


と言い、イエスは、


『あなたは隣人を愛し、敵を憎まなければならない』と言われたのをあなたたちは聞いた。 だが、あなたたちに告げるが、敵を愛し、のろう者を祝福し、虐待迫害する者たちのために祈りなさい。あなたたちが、天におられるあなたたちの父の子となるために。その方は、悪い者の上にも善い者の上にもご自分の太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからだ。自分を愛してくれる者たちを愛したからといって、あなたたちに何の報いがあるだろうか。徴税人たちも同じことをしているではないか。自分の友人たちだけにあいさつしたからといって、あなたたちは何の優れたことをしているのか。徴税人たちも同じことをしているではないか。だから、あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全でありなさい。

マタイ-5-43」

悲しみや困難に遭っても、喜んでそれに挨拶するがよい。それらを通じ、それらを克服することによって、あなたたちはわたしの中で生長するからである。

「12-95」

あなたたちが自分を愛する者のみを愛したところで、得るところは殆どない。しかし自分を嫌う者をも愛して始めてその酬いは大きいのである。

「14-63」


と言う。


この問題については両者共に、

「自己の成長の好機である敵を愛せよ。」

と主張している。


8.細々とした妨害にはどのように接するべきかという問題について


ニーチェ


のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの引き起こす喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。

君の隣人たちは、常に毒ある蝿であるだろう。君の偉大さ――それが、かれらをいよいよ有毒にし、いよいよ蝿にせずにはおかぬのだ。

のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。蝿たたきになることは君の運命ではない。

「1-市場の蝿」

ささいなことに刺を逆立てるのは、はりねずみ用の知恵だと思われる。

「3-卑小化する徳-2」


と言い、イエスは、


成就の秘訣は一切の物事を云い争わず疑わずに為すことである。これが成就する創造力を発動する

「4-84」


と言う。


この問題については両者共に、

「小さな妨害は相手にするな。」

と主張している。


9.性欲をどのように捉えるべきかという問題について


ニーチェ


淫蕩な女の夢の中に落ちこむよりは、殺人者の手に落ちこむほうが、ましではないか。

わたしは君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。わたしが勧めるのは、官能の無邪気さだ。

わたしは君たちに貞潔を勧めるのではない。貞潔は、ある人々においては徳であるが、多くの者においては、ほとんど悪徳である。

「1-純潔」

肉欲。賤民たちにとっては、かれらをおもむろに焼く火。むしばまれた木材と悪臭をはなつぼろきれとにとっては、たちどころにこれを焼き、とろかすかまどである。

肉欲。自由な心情にとっては、無垢で自由なもの、地上における花園幸福、すべての未来が「いま」に寄せあふれるばかりの感謝

「3-三つの悪-2」


と言い、イエスは、


わたしは肉のものを拒否せよと要求するのではない。肉体の中に宿っている間はそれも必要である。

「10-122」

また肉のものを軽蔑してもならない、その代わりその値打ちを認め、よく知り、それに応じた用い方をするがよい。

「10-123」


と言う。


この問題については両者共に、

「性欲は自然なものである。歪んだ解釈や極端な扱いをせず適切に用いよ。」

と主張している。


10.隣人を愛するとはどういうことかという問題について


ニーチェ


君たちは隣人のもとにむらがり、そのことに美しい名を与えている。しかし、わたしは君たちに言おう、君たちの隣人愛は、君たち自身への悪い愛であると。

君たちは、自分自身と顔を向き合わせることからのがれて、隣人へと走る。そしてそのことを一つの徳に仕立てたがっているのだ。

わたしは君たちに隣人愛を勧めるだろうか。いや、むしろわたしは君たちに、隣人を避けよ、遠人を愛せよと勧める。

隣人愛より高いものは、最も遠い者、未来に出現する者への愛である。人間への愛よりなおいっそう高いものは、事業と目に見えぬ幻影とへの愛である。

君に先だって歩んでゆくこの幻影、それは、わたしの兄弟よ、君よりも美しいのだ。なぜ君はそれに君の血肉を授けないのか。だが君は恐れて君の隣人へと走るのだ。

未来と、最も遠いこととが、君の「今日」の原因であれ。君の友の内部に、君は君の原因としての超人を愛さねばならぬ。

わたしの兄弟たちよ、わたしは君たちに隣人愛を勧めない。わたしは君たちに遠人愛を勧める。

「1-隣人愛」


と言い、イエスは、


人格(personality)は感覚の幻影である。

「10-125」

人格の彼方を観よ。人格は外的現れにすぎない。自分自身の外部に真理を見い出すことはできないのである。自分の人格や、自分の周囲にある多くの人格の彼方を観なければならない。人格の中に真理を見い出すことは決してできないのである。人格とはもろもろの状態に対する個人の反動の結果である。

「11-10」

意識の中に保特されているさまざまの考えや観念は人格を通して現れつつあるが、それは実在ではない。実在はそれ自身だけで完全であり、無欠である。それは、純粋かつ完全にそれ自身を現す。それが神のキリストである。故に人格の彼方を観ることである。

「11-11」

人格を自分の心から無くせよ、そうすればあなたたちは神の栄光、永遠に君臨する神の一人子を見るであろう。

「14-36」

人格は外からつけている仮面にすぎない。人格にしがみついている限りあなたたちは妄想の中に生きつづけるであろう。

「14-37」

余りにも多くの人々がイエス人格に捉われ、その結果彼らはすべての人々の中にある久遠キリストを見ることができない。

「14-38」

キリストは父なる神、すべてを支配し給うみ霊、生ける大生命のみ子であり、すべての魂の中に宿っている。

「2-61」

キリストはすべての人類の中にある神の霊である。わたしは神の愛である。この霊を知るためには、愛である神を敬慕しなければならない。

「11-33」

神はすべての中にすべてを貫いて生きてい給う唯一無二の生命である。神こそ実在である。

「3-91」

わたしは愛によって父なる神と一体である。汝魂を尽くし、ハートを尽くし、心を尽くし、力を尽くして汝の神なる主を愛すべし。汝の隣人を己自身のごとくに愛すべし。

「2-65」

自分自身の魂とハートとに流れ入る生命と愛との流れを実際に現す時、あなたたちは神の愛を実感するのである。すべてを愛することは神を愛することである。神はすべてを愛し給う、すべては神の被造物であるからである。だからこそわたしは、あなたたちの隣人を自分自身のように愛せよ、というのである。

「11-35」

母がその子を愛するがごとくにも、すべての人々に対して愛を感じなければならない。最も高い者から最も低い者に至るまですべては神の子である。

「2-82」

すべての人々は天にましますわたしの父の子であるからには、わたしが唯一ヶ所のくにたみのためだけではなく、あらゆるくにたみのために生きていることを、あなたたちは知らないのか。

「10-98」

わたしは世にあるすべての人々を愛する。

「8-135」


と言う。


この問題については両者共に、

「真に隣人を愛するとは、周囲の人間の表面上の人格を愛することではなく、その人間の奥に輝く最高の価値を愛することである。」

と主張している。


11.どのように自己の価値を評価すべきかという問題について


ニーチェ


君は深い愛をもつ者としての道を行く。君は君自身を愛し、それゆえに君自身を軽蔑しなければならぬ、深い愛をもつ者だけがするような軽蔑のしかたで。

「1-創造者の道」

おまえたちの隣人をおまえたち自身のように愛するがいい。――しかしまず自分自身を愛する者となれ。――

――大いなる愛をもって、大いなる蔑みをもって、自分自身を愛する者と。

「3-卑小化する徳-3」

人はみずからを愛することを学ばなければならない、すこやかな全き愛をもって。――そうわたしは教える。おのれがおのれ自身であることに堪え、よその場所をさまよい歩くことがないためにである。

こういう、よその場所をさまよい歩くことが、「隣人愛」と自称しているのである。このことばで、今までに最もはなはだしい嘘がつかれ、偽善が行われてきた、ことに世界を重苦しくしてきた者たちによって。

「3-重さの霊-2」


と言い、イエスは、


あなたたち自身だけでは、あなたたちは無である。しかし神と共となれば、あなたたちはすべてである。故に、『わたしと神とは一体である』と常に云うがよい。

「3-33」

わたしみずからは無である、しかしわたしの中に宿り給う父なる神は全てであり給う。父なる神はわたしを知り給い、わたしは父なる神を知る。わたしは父なる神を知るが故に、父なる神はわたしの中において、わたしを通して語り給う。かくしてわたしは父なる神の平安と愛と癒し英智とをもたらす。

「5-8」

わたしは自分ひとりでは無である。語り給うのはわたしの内なる父のみ霊である。これらのことすべて及びそれ以上のことを父は為し給う。

「13-86」

この内奥の平安は大いなる謙譲のしるしである。この謙譲の極みが「われ自らは何事をも為す能わず、常にわが内に留まり給うは父、その父こそみ業を為すなり」である。

「7-45」

と言う。

この問題については両者共に、

「自分の表層的な人格にはあまり価値をおかず、その奥にある最高のものにこそ価値をおくべきだ。」と主張している。


12.自分自身の飛躍的な進歩には何が必要かという問題について


ニーチェ


君は君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるをえないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。

わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を。

「1-創造者の道」


と言い、イエスは、


なくなりはしまいかと恐れているものに、何とまあ誰も彼も同じように執着していることか。おのが生命を得んとする者はこれを失い、おのが生命を棄てる者はこれを得る。

「2-47」

生命を再び得んがために十字架にわたしの生命をかけそれによって生命を再び得たことがあらゆる経験の中での最大のものであった。しかしそれはわたし自身のためではなく、およそ生きているすべての人々、そして又『わたしを信ずる人々が決して死なないようにするため』であった。事実彼らは久遠の生命の秘蹟をすでに得たのである。

「1-67」

次に来るのが蘇りである。死に定められたこの肉の身よりの魂の蘇りである。キリストは肉の中に顕現した神の霊であり、昇天とはこの実在を真に認識すること、久遠キリストを真に把握することである。

「1-68」

もしあなたたちが内なるキリストに目覚めるならば、全能なる、静かにして穏やかなる声が、あなたたちを通じて顕現する。この目覚めがあらゆるもの、そして又、あらゆるものである神、と自分との一体への悟りである。

「4-69」

なぜならば、それこそが、死して後蘇り、一時行方知れずにはなったが今や探しあてたわたしの息子だからである。

「4-70」


と言う。


この問題については両者共に、

「これまで大切にしてきた古い信念体系を捨て去らなければ、新しい信念体系を真に認識して進歩することは出来ない。」と主張している。


13.人間の犯した罪をどのように裁けばよいかという問題について


ニーチェ


わたしは君たちの冷たい公正を好まない。君たちのところの裁判官の目は、つねに官吏の目であり、そこには官吏の冷たい刃が隠見している。

言うがよい、明らかに見る目をもっている愛であるような公正は、いったいどこにあるだろう。

単にいっさいの刑罰を負うばかりでなく、いっさいの負い目を身に受けるような愛を、君たちは創り出してくれ。

君たちのあらゆる者――裁く者を例外として――を無罪と宣告しうる公正を、君たちは創り出してくれ。

「1-まむしのかみ傷」

医者よ、君みずからを助けよ。そうすれば君は君の患者にも助けとなることができよう。患者に与えうる最上の助けは、自分自身をいやした者を患者が自分の目でみることだ。

「1-贈り与える徳-2」


と言い、イエスは、


罪は外なる五官の「我」に結びついた虚妄である。それは分離と混乱とに属する。

「8-38」

世の罪なるものについて非常に多くの人々がお説教をしているが、罪を余り見詰めすぎてはならぬと、わたしはあなたたちに話したことがある。いつまでも罪ばかり見詰めておればどうしてキリストを観ることができようか。

「8-39」

自分の内なるキリストの方をこそ見詰めておれば、心とハートの中にあるこの分離、この混迷、この罪は溶け去るのである。

「8-40」

あなたたちは外側で判断するが、わたしは何人をも裁かない。

「1-118」

これまであなたたちは、自分の尺度で悪いことをしたと決め込んだ人々に対して愛を出し控えたことがどんなに度々あったことか。そのような断定はあなたたちの関知することではさらさらないのである。それはすべて父なる神とその子との間のことがらである。このことをよくよく銘記するならば、あなたたちは他を批判することがなくなり、批判という武器はむしろまず第一に自分自身に対して向けるようになるであろう。

「2-98」

真っ先に自分自身の誤ちに気が付けば他の人々を前より一層よく理解するようになる。

「2-99」

あなたたちはこれまでとかく人々を批難しがちであった。自分が批難されないためには、人を批難せぬことである。先ず己が目より梁を取り去るがよい。そうすれば同胞の目の棘の取り方も前より一層解るようになるであろう。

「2-100」

あなたたちは非行の上に愛のベールをかけなければならぬ。そうすれば憎しみが心に入ることはない。愛のこの強大なる力はあらゆる物事に打ち克つ。愛は神のもの、善・悪は人の心のものである。

「10-23」

たいていの人々の心は罪の力という重荷をかつがされている。彼らには世の無知と世の罪だけしか見えない。しかし無知と罪とを通してはキリストを見ることはできない。神の愛を通してのみキリストを見ることができるのである。常に現在生きる神の子こそは愛なる父の完全無欠の現れである。

「1-71」


と言う。


この問題については両者共に、

「あなたたちは自分のことを棚に上げて他者を正しく裁けると思っているのか。そしてもし仮に正しく裁けるとしても、そんなことに意味はない。ただ愛によって、自分を含む全ての者に無罪を宣告せよ。」

と主張している。


14.偶像、信条、その他観念上の神を崇拝する人々について


ニーチェ


おお、これらの僧侶たちが建てた小屋を見るがいい。甘やかにかおるそれらの洞穴を、かれらは教会と呼んでいる。おお、このまやかしの光よ、このよどんだ空気よ。そこは魂がおのれの高みにまで飛ぶことを――許されない場所だ。

この建物の天井が崩れて、晴れわたった空がふたたび顔をのぞかせ、くずれた塀のもとの草や赤いけしの花に光を投げるようになってからはじめて――この神の住むこういう場所に、わたしはふたたび心を向けようと思う。

「2-僧侶たち」

ああ、有徳者たちよ、こういう者たちが次のように叫ぶ声も、君たちの耳をおそった。「わたしがそれでないもの、それがわたしには神であり、徳である」

わたしの友人たちよ、君たちが、これらの道化や嘘つきたちから学んだ古いことばに飽き飽きしてくることを、ツァラトゥストラは願うからだ。

「報酬」、「報復」、「罰」、「正義による復讐」などのことばに飽き飽きしてくることを。

「おのれを空しくさせる行為が善なのだ」ということに、君たちが飽き飽きすることを、かれは願う。

ああ、わたしの友人たちよ。子の内部に母があるように、君たちの「本来のおのれ」が行為の内部にあること、これが徳についての君たちのことばであってくれ。

「2-有徳者たち」

おお、ツァラトゥストラよ。あなたは、そのように不信仰だが、あなた自身が思っているよりは敬虔なのだ。あなたの内部の何らかの神が、あなたをこの不信仰に改宗させたのだ。

あなたをして、もはやいかなる神をも信じさせないものは、あなたの敬虔さそのものではないか。また、あなたのあまりに大きい正直さは、あなたを善と悪の彼岸にまで連れ去るだろう。

「4-退職


と言い、イエスは、


たいていの祈りは分離という誤った考えをもって捧げられている。特にあなたたちの教会礼拝堂において著しい。神は遙かに遙かなる存在である――という信仰の仕方をしているからである。しかし神はあなたたちの手や足よりも猶近くにましますのである。

「3-85」

世とその中にある一切を創り給い、天と地との主であり給う神は、手もて造られた神殿などには住み給わず、人の手によって仕えられ給わず、又、何ものにも欠乏し給うことはない。なぜならばすべての人々に生命と息とを与え給うたのは神御自身であるからである。

「1-22」

わたしはあなたたちの魂の中に宿るみ霊である。わたしがあなたたちと共にあることをあなたたちは知らないのか。この事を認めればあなたたちはすぐにわたしの許に来ることができるのである。遙か離れた処にいる誰かに祈ることをやめよ、わたしが手や足よりも近くにいるからである。

「9-21」

偶像は人の手によって造られたただの金、銀にすぎない。

「11-25」

口はあるが語ることは絶えてなく、目はあっても視ることはできない。

「11-26」

耳はあっても聞くことはできない。その中には生命の息ひとつない。

「11-27」

無智なる者は生命なきものを崇め、賢明なる者は神の中に生きる

「11-28」

たとえ偶像が象微として維持されているにせよ、意識は象微の背後にあるものに気付かねばならない。何も知らずに偶像を拝むのは無益である。父の中に生きること、父は自分の中に生きてい給うことを知ることが本当の崇拝である。

「11-29」

故にわれわれ自体は自分たちが何を崇拝しているのかをよく知ってはいるが、一般大衆は自分の崇拝しているものが何なのかが分かっていない。故にわたしはあなたたちに云うが、み霊であり実在である神を崇拝せよ、神はみ霊であり、唯一無二の生ける実在であるからである。わたしと父とは一体である。

「11-30」

しかし又わたしはあなたたちに告げるが、地上の何人も礼拝してはならない、天にまします御方のみがあなたたちの父であるからである。

「11-31」

父はあなたたちの中にある生ける息、あなたたちの中において個別化した神のキリストである。

「11-32」


と言う。


この問題については両者共に、

偶像や観念上の神を崇拝することをせず、自分の内部の本質を第一義とせよ。」

と主張している。


15.柔和であることについて


ニーチェ


胸を高く張り、深く息を吸いこんださまで、この崇高な者は立っていた、黙々として。

狩猟によって獲たいくつかの醜い真理をぶらさげ、裂けた着物を幾重にも着ている。茨もおびただしくついていた。――だが、ばらの花は一つもない。

かれはまだ笑いを学んでいないのだ、そして美をも。

かれは、あいかわらず、とびかかろうとする虎に似た姿で立っている。しかしわたしはこういう張りつめた魂を好まない。

たしかにわたしは、かれのもつ牡牛の頸を愛しはする。しかしさらに、わたしはかれが天使の目をもつようになるのを見たいのだ。

まだかれの認識の行為は、ほほえむこと、対他的な意識の緊張を捨てることを、学んでいない。

威力がものやわらかになって、可視世界へ降りてくるとき、そういう下降をわたしは美と呼ぶ。

そしてわたしは、力強い者よ、だれにもまして、君からこそ、美を期待するのだ。やさしい心を獲得することが、君の最後の自己克服であるように!

「2-崇高な者たち」

「そう言うあなたはやさしいのだ、牝牛よりやさしいのだ。おお、ツァラトゥストラよ」

「4-進んでなった乞食


と言い、イエスは、


柔和な人たちは幸いである、その人たちは地を受け継ぐからである。

マタイ-5-5」

神は超大にして神秘であるとともに柔和で高ぶることをしない。

「2-4」

もしあなたたちが自分の中に深く求めるならば、柔和にしてしかもいと優れ、謙遜にしてしかもいと高き存在者について学ぶところがあろう。

「4-66」

最も柔和なる者が全宇宙を給源とし、吾がものとする。

「4-68」

愛は悪に酬いるに悪を以てすることなく、悪に対するに善を以て酬いる。愛は柔和のうちに、それら悪を正しく判断して導く。

「13-93」

愛はあらゆる力ではあるが、謙譲でもある。愛は空虚な誇示をすることなく、その業蹟を誇ることもない。

「13-94」


と言う。


この問題については両者共に、

「真に優れた者は、力があるだけではなく柔和でもある。」

と主張している。


16.過去現在未来、時間、永遠について


ニーチェ


すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないか、なされたことがあるのではないか。

「2-幻影と謎-2」

おお、わたしの魂よ。わたしはおまえに、「今日」を、「未来のいつか」と「過去のかつて」をいうのと同じように言うことを教えた。そして「ここ」と「そこ」と「かなた」の一切を踊りながら越えて行くことを教えた。

「3-大いなる憧れ」

それは、万物は永久に回帰し、われわれ自身もそれとともに回帰するということだ。また、われわれはすでに無限度数現存していたのであり、万物もわれわれとともに無限度数現存していたということだ。

「3-快癒しつつある者-2」

わたしはおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ。

「3-七つの封印-1」

すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

「4-酔歌-11」

――どうだ! 世界はいままさに完全になったのではないか。まろやかに熟れて、おお、金の円環よ、――どこへ飛んでゆくのだ。わたしはその後を追う、身もかるく。

静かに――――

「4-正午」


と言い、イエスは、


あらゆる者が克服しなければならぬ難問は時空感覚である。

「8-113」

この時間空間という感覚を克服するならば、一切が今であり、分離も距離も時間も存在しないこの悟境にあなたたちもまた入るようになるであろう。

「8-119」

時間と空間とは、常に無限なるものの完全体、完全性を理解する妨げとなっている。無限認知するには時間と空間はあってはいけないのである。

「11-8」

実在には始めがなく、終わりもない。実在は人間が造りうるものではなく、時間、空間は人間勝手に自分自身の意識の中で造りあげたものである。それは幻覚であり、時間、空間なき、始めなく、終わりなき渾一性(wholeness)への無理解である。渾一(Whole)があるのみであり、この渾一が今の今、自己自身を表現しつつあるのである。これが実在である。わたしは実在と一体である。実在とわたしは一つである。これが、あらゆることが可能であるキリスト意識の認識である。

「11-9」

それは観念ではない。それは口先だけの文句ではない、それは信仰ではない、それはあなたたちの想像の産物ではない、それは心の中で造り出せるようなものではない。それは既に完全であり、生きており、今の今、それ自身を表現しつつある。それはおよそ存在する力のすべてである。それは常在の生命であり、その中には過去未来もなく、ただ久遠の今があるのみである。

「10-14」

今こそが久遠であり、生命の一瞬々々が今でである。故に過去を思わず未来を憂うるな。未来は、今を生きることによっておのずから現成るのである。

「1-41」

一切の時間が現在であることを知り始めた時、いわゆる切願はしなくなる。アレコレの物事が実現するようにとの切願はしなくなるから、大きな緊張があなたたちから消える。今日というこの日でもあなたたちの中どんなに多くの者が心を張りつめていることか。それは、ましまさぬところなき『遍在者』の中に住まわぬからである。あなたたちは過去とか未来との中に住んで、今の今、神の生命が栄光に輝いて現れてい給うのを逸しているのである。

「1-43」

あなたたちは時間も空間もない状態に到達し、自分の魂の中に宿り給うあなたたちの主なる神の完全さの中に入ることができるのである。

「1-52」

「愛」は久遠、常在にして、栄光輝ける、今活在する生命である。それは安らぎであり悦びである。愛が常在するところの、しかも今の今活気凛々たる生命であることを知れば完きまでに満ち足り、もはや過去を顧み未来を案ずるの愚は犯さなくなる。このことを了解した魂は、過去に非ず、未来に非ず、現在の中にこそ常に活々として働き給う臨在者の欠くることなき豊穣の中で営為する。

「1-53」

現在のみが唯一の要因であって過去未来存在するものではないと、時間を完全に悟りきってしまえば、誤った考えや代々にわたって受け継がれてきた病患も消滅するであろう。

「1-70」

明日を思い煩うな。「今」のみが唯一の時間である。今を自分の実在とせよ。そうすれば明日のことは明日自身が処理するであろう。では、未来を思い煩うのあまり奇しき今を逸するなかれ。意識は今の中でのみ創造をなしうるのであって明日においてではないのである、また昨日においてでもないのである。昨日は記憶に過ぎず、明日は希望に過ぎない。今こそが唯一の創造をもたらす瞬間である。

「2-80」

キリストを以て考えることは久遠なるものの中において考えることである。久遠の今の中において考えよ、なぜならば『今』の中においてのみ創造はなしうるからである。ああ、あなたたちにもハッキリと解るようにやさしく解明することができたら――今即久遠である

「3-80」

渾然一体!真理は何と輝くばかりに美しくまた完全であることか、何と単純であることか。しかも又、時間と空間との中に住む者にとっては何と理解の困難なことか。

「8-123」


と言う。


この問題については両者共に、

無限なる永遠があるのみである。」

と主張している。


17.愛という動機


ニーチェ


わたしのおさえがたい愛は、あふれて川となって流れ、東へ西へと向かう。寡黙の山上から、苦痛の荒天から、わたしの魂は谷々へとどろき注ぐ。

たとえ、わたしの愛の奔流が、道のないところへ落ちこもうとも厭うまい。河流がどうしてついに大海へ注ぐ道を見いださないことがあろうか。

たしかにわたしの内部には一つの湖水がある。隠栖を愛し、自分に満ち足りている湖水が。しかしわたしの愛の奔流は、その湖水を連れ去るのだ、下へ、海へ。

「2-鏡をもった小児」

わたしはわたしの軽蔑とわたしの警告の鳥とを、ただ愛のなかから飛び立たせることにしている。沼のなかから飛び立たせるのではない。

人は、愛することができない場合には、そこを――通り過ぎるべきなのだ。

「3-通過」


と言い、イエスは、


愛は全宇宙の中心である。この中心より絶えざる愛の流れがすべての魂、生きとし生けるものを通じて流れている。花々を通じ、動物たちを通じ、人間天使たちとを通じて、この愛が中心の泉より絶え間もなく流れ、愛自身の真実の姿を永遠に現している。

「1-2」

愛について理論を立てるのは、愛の一側面にしか過ぎない知的面を論うにすぎない。愛とは何かと理論を捏ねることは愛の力を失わせることである。あなたたちは愛なる無限生命によって創られた者なのである。愛をこのように理解し、把握して始めて愛はその真性を現すのである。

「1-5」

地上における偉大なる魂たちは、処は異なり生き方は違っても、すべてこの愛を現しているのである。

「1-6」

たとえあなたたちがどれほど雄弁に語ろうと、ハートに愛がなければ、あなたたちはやかましいシンバルにすぎない。

「13-89」

たとえあらゆる知識を得、どんなことでもなしうる信仰を習得しようと、ハートに愛がなければ、あなたたちのなすことは何らあなたたちの為にはならない。

「13-90」

幸うすき人々に施しをし、貧しき人々に食を与えても、愛がなければ、何もしたことにはならない。

「13-91」

わたしは世にあるすべての人々を愛する。わたしはあなたたちと共に世にあり、天国を地上にもたらすために働く、この事をなすためにわたしは遣わされたのである。

「8-135」

あなたたちに対するわたしの愛は極大である。故にわたしの愛をあなたたちの中に生かすがよい。愛は天上と地上とにおける一切の力であるからである。

「7-116」

愛を求めるな!愛を与えよ!これこそが霊の真の栄養である。

「3-72」

あなたたちの愛に対して利得や報酬を求めてはならない。又あなたたちの愛を人々の前で見せびらかしてはならない。ひそかに愛を為せ。人を喜ばすためではなく、神の愛のために、手の届く限りのことをすべて為せ。

「13-105」

神とは人間の姿を取った愛であることを知れ、愛が敗れることは決してなく、愛はすべてのものを新たならしめる。

「5-85」

愛は神なるが故に、愛はあらゆるもののうちでも最大の力でなければならぬ。愛はすべてを調和ならしめる。愛が大自然の中にある何ものかより背離することはありえない。なぜならそれはすべての真実なる現象の背後にある動因であり、他のあらゆる状態がなくなっても愛のみは存続するからである。

「1-96」

すべてのものへの愛の思いの中に生きよ。

「3-93」

あなたたちが真に愛するならば敵は一人もいなくなる。このことが十分に認識されると、それがどんなに真実であるかが分かるようになる。利己心と無智とが融け去って始めて真理である愛が顕現するのである。

「14-60」

わたしの平安とわたしの愛とを以てわたしはすべてのものを祝福する。

「11-39」

あなたたちの中に宿っているわたしの沈黙の愛を求めよ。すべてのものを愛せよ、すべてのものを愛を以て祝福せよ。そうすればわたしはあなたたちをその百倍も祝福しよう。

「13-103」

愛によってわたしは癒し、愛によってわたしは生きる

「1-109」


と言う。


ニーチェイエスは共に、

「ただ愛のみを動機として行為せよ。」

と主張している。


終わりに


これまで見てきたように、ニーチェイエスは多くの点で同様の主張をしている。ニーチェは神の不在を前提とした立場であり、イエスは神の存在を前提とした立場にいる。これはつまり、両者が同様に主張した事柄は、神が居ようが居まいが関係なしに推奨される処世術であるといえるということではないだろうか。ある項目について正反対の立場からの意見が一致した場合、その意見の信憑性は高くなるのだから。

両者の主張の詳しい内容を知るにははそれぞれの出典を読む必要があると思うが、ここに引用した彼らの言葉の中にも、読者の方々が生きる上で参考になる知恵があれば幸いである。

*1:尚、この記事で私が「ニーチェ」と呼ぶ対象は、書籍ツァラトゥストラ」の主人公を通して表現されているように私に感じられるある人格のことである。従って、19世紀に実在したであろう人物ニーチェや、ニーチェ研究者が考えるニーチェ像や、あなたが考えるニーチェイメージとは直接の関係はなく、それらと大きく異なっている可能性もある。又、この記事で私が「イエス」と呼ぶ対象は、書籍心身の神癒」及び「新約聖書」の主人公を通して表現されているように私に感じられるある人格のことである。従って、1世紀に実在したであろう人物イエスや、ローマカトリック教会が考えるイエス像や、あなたが考えるイエスイメージとは直接の関係はなく、それらと大きく異なっている可能性もある。私にはそれらのイメージを統一しようという意思は無いのでその点はご了承頂きたいが、私の抱くイメージと読者の方が抱くイメージがそう遠くないことを期待している。両者の発言の出典の表記については、ニーチェの発言で「3-新旧の表-3」という表記は「ツァラトゥストラ第三部の新旧の表の3節」を意味する。イエスの発言で「12-10」という表記は「心身の神癒の第十二話の10節」を意味し、「マタイ-7-9」という表記は「新約聖書マタイ福音書の第7章の9節」を意味する。又、イエスの発言では一部、「心身の神癒」の原著Divine Healing of Mind & Body」から私が訳出した箇所もある。

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2007-05-03どんなに科学技術が進歩して生産性が向上しても人々が長時間労働から

[]どんなに科学技術進歩して生産性が向上しても人々が長時間労働から解放されない7つの理由

 人々の生活が便利で豊かになり皆が幸福になれることを願って多くの人が努力を続けてきた結果今日科学技術の発展がある。便利な道具、機械、新技術、新エネルギー、等々。

 これによって人間生産性は飛躍的に向上し、一人の人間が生み出すことが出来る価値の生産性は何十倍にも、何百倍にもなった。(例えば、単純比較は出来ないが、360馬力のトラックを運転する人間は、およそ馬360頭分の荷物運搬能力がある)

 それならば、人間生きるために働かなくてはならない平均時間は、原始時代の数十分の一、数百分の一になっていてもおかしくないはずだ。ところがそうではなく、


狩猟採集民族―1日2時間労働*1

現代の日本人―1日6時間労働*2 


というように、逆に大きく増えている。これがなぜなのかを、7つの要因から説明する。



理由1 お金お金のあるところに集まるから

歴史上のあるときから、通貨が使用されるようになった。これによって生産した価値(食料等)を容易に運搬、貯蓄できるようになった。すると必然的に、富の集中が起こる。一人の人間が食べられる量には限界があるし、食べ物はすぐに腐ってしまうため、それほど多くを所有していても意味が無い。しかしお金としてなら、理論無限に蓄えることが出来る。(1万円札、100万円札、1億円札・・・と作っていけばよい)こうして力のある者は、自分が使う以上の価値を集めるようになった。

 お金の性質と人間の性質から、資本主義経済というものが生まれた。この仕組みには、基本的に次の性質がある。

お金お金のあるところに集まる」

これは、地球上では水が高きより低きへ流れるのと同じように、資本主義経済という状況における基本的性質である。お金があると、人を雇い、その人が生産した価値の一部を回収することで、自分で働かなくても元のお金より増やすことが出来る。また、土地の所有権を得、その土地を人に貸すことで、自分で働かなくても元のお金より増やすことが出来る。このようにして、一定量を超えたお金雪だるま式に増えてゆく。

 お金とは、社会的権利である。それは、社会において他の価値と交換できることの保証である。そしてその権利は、自分の子ども相続することが出来る。従って、お金持ちの家に生まれた子どもは、確実ではないながらも、生まれながらにお金持ちであり続ける権利を持っているといえる。ではその権利とはなにか。それは他の人々から価値の提供を受ける権利である。

 さて、お金持ちの家に生まれなかったあなたがたは、生まれながらにお金持ちの家の子に対して社会的に借りがある。これを一生のうちで、知らず知らずのうちに返していくことになる。こうして、富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなり、貧富の格差は大きくなっていく。

 日本の国土は約38万k㎡である。これを人口1億3千万で割ると、約3000㎡になる。つまり、土地の個人所有をやめ、赤ん坊が生まれたら国が土地を無償で貸し与え、死んだら国のものに戻るという公平な方式にした場合、あなたの所有する土地は3000㎡である。

 道路や役場等、公共の目的のために使われる部分はあらかじめ差し引いておくことにすると、日本の国土の3.5%は道路であり*3、国土の1/4が国有であり*4、その他産業活動のための土地もあらかじめ考慮すれば、個人が自由に使う分は半分くらいになるかもしれない。それでもおよそ40m四方の土地があなたのものだ(そのうちの半分以上は森林だが)。

 ではあなたは、生まれながらに1500㎡ほどの土地を得られたであろうか?或いは、4人家族に生まれたなら、その一家は6000㎡ほどの土地を持っていたであろうか?もしこれより少ないならば、公平分配の場合に比べ、あなたはその分だけお金持ちに価値を搾取されることになる。もしこれより多いならば、あなたはその分だけ貧乏人から価値を搾取できる。家賃、土地代などの形で。

 これは土地を例に上げての非常に大雑把な説明だったが、それ以外でも資金が多いほど資金を増やすのに有利になっている。例えば投資においても、同じリスクとリターンの金融商品でも、大きな額を投資することにするだけで、利益率は大きく設定されている。税においても、持っている資金が多いほど、多くの多様な節税が可能になり、実際に払う利率を低く抑えることが可能になる。

 このようにして富を集めた人々は、権力を持つようになる。そして権力を持つものが、経済制度を作る。では彼らはどの程度の搾取加減にするだろうか。それは、暴動や革命が起きずに治安が保たれる程度、すなわち人々がなんとか耐えられる程度の長時間労働をすれば、そこそこの生活を送れる程度の加減に設定する。昔風に言えば、百姓は生かさず殺さず、ということだ。どの程度が生かすで、どの程度が殺すにあたるかは、時代によって変わってくるが、制度を安定して保てる限りにおいて最大限に搾り取ることになる。

 これらは人間の基本的性質であるので、良心に期待する、等というのは不可能だ。例えば次のようなボタンを思い浮かべて欲しい。そのボタンを一回押すと、全ての日本人から本人が知らないうちに1円ずつ徴収し、あなたの貯金が1億3000万円ほど増える。さて、あなたがこのボタンを持っていて自由に押すことが出来るとき、あなたは押さずにいられるだろうか。どんなに貧乏な人とはいえ、1円取られたくらいでは別に彼の生活に何の影響も無いだろう。むしろ気付きもしないだろう。そしてあなたがボタン押したことを、あなた以外の誰にも知られないとなれば、あなたが幸福になるだけで、だれも不幸にならない。正直に言って、私といえどもこのボタンがあったら一度も押さないとは言い切れない。むしろ、軽い気持ちで5,6回は押してしまうのではないだろうか。そのボタンを押す権利を、ライバル達と競争して手に入れたり、努力努力を重ねて手に入れたり、あるいは先祖代々受け継いできたりしたという場合には、なおさら押すことに抵抗は少なくなるだろう。そして是非ともその権利を手放さないようにしたいと思うし、自分の子どもにもそのボタンを押す権利を引き継ぎたいと思うだろう。

 さて、公共事業に関する利権を持っているということは、このボタンを持っているということである。また、1億円を節税する施策を講じるというのは、このボタンを押すということである。このボタンを押すことは、非合法である場合もあるが、合法な場合も多い。そして、このボタンは多くの人が持っており、皆がたくさん押している。自分の家族や周りの人がたくさんこのボタン押している場合、自分だけが押さないでいることが出来ようか。

 こうして多くのボタンを所有する人がたくさんボタンを押すために、だれもボタンを持たない場合に比べ、あなたの賃金は今の水準まで下がっており、あなたの払う税は今の水準にまで上がっている。


このように、いくら生産性が上がっても、余剰分はすでにお金が集まっている場所に集まるので、人々は長時間労働から解放されない。

 相続税率を高くすることによって富の集中を緩和することも可能ではあるが、組織における権力等、様々な課税されない形に権利を置き換えて相続していくことも可能だ。また、世界に複数の国家があると簡単にはいかない。

武富士元会長長男の追徴課税、1330億円を処分取り消し : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

このように、税率の低い国へ移住すれば良いだけなので、税率を上げるだけでは金持ちが日本から逃げてしまい、トータルでの税収が減ることになってしまうためだ。



理由2 価値破壊技術進歩するから

科学技術進歩によって価値生産の効率が飛躍的に高まると、同時に価値破壊の効率も飛躍的に高まる。

 この世に武器が石オノしか存在しなければ、自己防衛の為には石オノを一本準備すればよい。

 自国と利害の対立している国が、自国を射程に入れた大量の核ミサイル群、強力なミサイル防衛機構、最新の設備を備えた大規模な陸海空軍、情報機関、等を配備している場合、自己防衛の為には同等のものを準備しなければならない。さらに相手が毎年軍事技術研究と軍備拡大を行っている場合、自己防衛の為にはそれと同等のペースで自国の軍備を強化しなければならない。

 又、ひとたび戦争が始まれば、そこで使用される兵器の破壊力が高いほど、破壊される価値は大きくなる。莫大な価値がつぎ込まれた兵器を使って、莫大な価値がつぎ込まれた相手の兵器を破壊するのだ。

 また、兵器以外で破壊されるものも、非常に価値が高いものになっているため、そこで失われる価値も大きくなる。

 ある町の建物がすべて竪穴式住居であれば、その町が敵に焼き払われても事前に住民が避難していればそれほど多くの価値は失われない。

 ある町の建物がすべて地上300m以上の高層ビルであれば、その町が敵に焼き払われると事前に住民が避難していても非常に多くの価値が失われる。

 そして、人間一人が殺された場合の経済的損失にも違いはある。人間の命自体の価値は同じであったとしても、その人に対してそれまでにつぎ込まれた経済的価値は異なる。10年以上の教育という経済価値をつぎ込み、その後何年間も莫大な費用をかけて軍事訓練をした兵士を、同じように価値をつぎ込んで訓練されてきた兵士が殺すのだ。

 このように、対立する国家がある限り、それぞれの国家軍事費用どんどん増やしていかなければならない。では軍事費用はどこまで増えるのだろうか。それは、「これ以上多く働くくらいなら、多少軍事費用を削って他国から侵略される危険性を増やすほうがマシだ」と多くの人が思う程度、つまり人々がそれなりに長時間労働をすれば賄える程度までだ。こうして、いくら技術進歩しても、浮いた時間は軍事費用捻出のための労働に当てられるために、全体としての平均労働時間は短くならない。


 そして、科学技術進歩すると、環境破壊技術進歩する。

小規模な生産活動では、それが与える地球環境への影響は、地球の自浄能力の範囲に納まる。しかし生産性が上がり、大規模な生産活動が可能になると、地球環境破壊の影響が無視できなくなってくる。大気汚染、水質汚濁、砂漠化オゾン層破壊、等等。そしてこれら地球環境の修復には多くの資金、技術、労力が必要とされ、しかもそのための技術を開発するためにはさらに多くの価値を投入しなければならない。

こうして、生産性の向上自体が、さらに多くの価値を生産する事を要求するようになる。



理由3 生産性が上がると無駄も増えるから

 生産性が上がると、少ない労力で価値生産が出来るようになるために、多様な製品が作られる。それらの多くは、必要だから作られるのではなく、まだ作る余裕があるから作る、ということになる。

 殆ど使われていない高速道路や大きな橋を見たことがあるだろうか。それらは必要だから作られたのではない。作れるから作ったのだ(そしてそれを決定する人に個人的に利益になるから)。それらを作るために消費された経済価値はどこから来たのか。それは、生きていく為に必要な分以上に生産された余剰価値から来た。

 市場には、人々にとって必要という訳ではない商品で満ち溢れている。あなたは、必要というわけでは無いけれどとりあえず、なんとなくある商品を買ったという経験を持っているだろうか。その商品を買うための価値、その商品を作ることを肯定することになった経済価値はどこから来たのか。それは、あなたが生きていく為に必要な分以上に生産された余剰価値から来た。

 このような例もある。

2千円札、なぜ使われない?…日銀に8割の7億枚眠る

新紙幣に読み取り機械を対応させるため等で経済効果が数兆円あったとしても、その資金の出所は人々の長時間労働による余剰価値である。結局これは、長時間労働してゴミを作ったということだ。

 このように、生産性が上がると無駄生産活動と無駄な消費活動も増えてしまうために、全体としての労働時間は短くなりにくい。



理由4 要求される価値の量も増えるから

 人は、売られていないものは買おうとしないが、売られているものは買いたくなる。

 人はだれしも、出来ることならもう少しいいものが欲しいと思っている。まずい水しかないならそれを飲むが、おいしい水もあるならそちらを飲む。たとえ少し高くても、それが支払える金額であるならそちらを選ぶ。

 もう少しいい家が買えるなら、そちらを買う。もう少しいい演奏が聴けるなら、そちらを聴く。もう少しおいしいものがあるなら、そちらを食べる。もう少し面白いものが見られるなら、そちらを見る。たとえもう少し高くとも。

 ではどこまでだったら高くても支払うのだろうか。それは、自分がそれなりに長時間労働をすれば買える程度の値段のものなら買うのである。あまりにも長時間働かなくては買えないほど高いものなら買わない。

 そしてこうした消費者の要求に応えるため、生産者も常によりよいものを開発、生産していかなくてはならなくなる。そのためには、自分がなんとか我慢できる程度の長時間は働くことが要求されていく。

 又、人間には好奇心がある。世界の全てを、どんどん広く、どんどん詳しく知りたいと願っている。そこで、非常に細かく、非常に広い範囲を探索していくことになる。別に、遠く離れた宇宙のどこかに何があろうとなかろうと、殆どの人にとってはどうでもいいことなのだが、一部の人にとっては興味のあることだ。そしてその一部の人お金を持っている。そのため、何万人もの飢餓を救うことが出来るお金を投じて、遠くの宇宙を探査する機器が飛ばされる。研究費用に予算を割く。宇宙の全てをマッピングし、全ての謎を解くためには、どれほど多くの研究費用を投じても足りないのだ。芸術というものも、生きるために必要な分以上の価値があるところで盛んになる。オペラでもバレエでもコンサートでも、観客の一瞬の幸福感のために莫大が価値が投入されている。経済的時間的余裕があればその分多くの芸術活動に投資することが出来、実際にそうするだろう。そのため、芸術活動が盛んな文化ほど余裕があると見ることも出来るが、結局生産性が上がって余剰価値が生み出されても、それらは趣味的活動に使われることになるため、労働時間短縮にはならないことになる。

 そしてまた、病気医療というテーマがある。人間には共通して、病を避けたいという欲求があるため、それを可能にする医療技術の向上に余念が無い。そして可能であれば、多少高くても出来るだけいい医療を受けて、長く生きようとするのである。高度な医療にはそれだけ高度な技術や設備が要求され、それだけお金がかかる。では、どの程度までなら高くても払おうと思うのだろうか。それは、「ある程度長時間働けば払える」くらいの金額までである。あなたの愛する人が病気にかかった。手術をすれば治る。手術の費用はいくらだったら払うのだろうか。あなたが毎日8時間20年間働けばなんとか払える金額だったら払う人が多いだろう。しかしあなたが毎日16時間50年間働かなければ払えない金額だった場合、あきらめる人が多いだろう。こうして平均的医療水準は、人々がそれなりに長時間働くと支払える程度の金額が要求される水準に落ち着くことになる。

 このようにして人々は、医療費を支払うためにも長時間労働からは解放されないことになる。



理由5 非生産年齢にあたる人の割合が増えるから

 科学技術進歩すると医療技術進歩し、平均年齢が上がる。すると、生産活動終了(定年)から死亡するまでの期間が長くなる。また、科学技術が進んだ社会では、そこで生産活動をするために要求される技術水準も高くなる。すると、生まれてから生産活動開始(就職)までの訓練期間(就学期間)が長くなる。つまり、全人口における非生産年齢の割合が高くなることになる。

 学校存在せず、子どもは家事や畑仕事を手伝い、大人も大抵40歳になるまでには怪我か病気で死ような文化程度の社会においては、5人の人間を養うためにそのうち3~4人が働いていた。しかし科学技術進歩すると、5人を養うためにはそのうち1~2人しか働けなくなる。しかも、5人の要求する経済価値は科学進歩に比例して高まっているために、生産性が向上していても楽にはならない。さらにまた、老人の要求する医療は高度化していくために、そのための資金はどんどん高くなる。

 こうして、科学技術進歩しても生産年齢に当たる人の労働時間は長いままとなる。



理由6 競争相手も進歩するから

 ある意味で、生存は戦いであり競争である。

科学技術進歩すると、競争相手の科学技術進歩する。あなたがライバルとこれまでと同等に戦うためには、技術進歩しても相手が労働時間を短縮しないようなら、こちらも短縮するわけにはいかない。

 軍拡競争の例でもあげたが、少なくともライバルと同等の時間働くようにしないと、勝負に敗れて滅びることになる。他の条件が同じ企業同士なら、社員の労働時間が長いほうが有利になる。1商品あたりの人件費が安くなるからだ。この原則がある以上、企業は出来る限り社員の労働時間は長くしようとする。従って労働者労働時間は短くなるどころか、逆に長くなろうとする。資本主義的自由競争を廃止し、計画経済にすればこの競争を無くすことは出来る。しかしそれは、技術進歩、商品の質の向上、を著しく阻害するために、他の資本主義の国々との貿易競争において敗北し、ソビエト連邦のように崩壊することになる。経済的に完全に鎖国するならばその問題も回避することが出来るが、それはつまり自国を守る軍事力を放棄することになる。計画経済の下では勤労意欲は低下するので、経済の発展は鈍くなる。すると、軍事開発に割ける費用も減少し、軍拡競争で遅れをとるためだ。

 武力無しで国の安全が保障されるならば、実際のところ非常に理想的な社会を作ることが可能だ。しかし人類歴史を見ると、非常に幸運な場所にあった小さな地域でないかぎり、国防力を持たない国は滅ぶか、植民地とされた。侵略的気質を持つ国家は、見逃してもいいほど小さなものでない限り、価値ある土地は手に入るものなら手に入れようとする。野生動物王国だった土地も、そこが人間が住むのに適していると判断されれば動物達を駆逐し、人間の街を作った。動物は僅かに柵の中に入れて、その希少さを眺めて楽しむだけになる。北米に広く居住していたネイティブアメリカンは、住みよい土地から駆逐され、僅かに居住区に定められた貧しい土地に残るだけだ。オーストラリアに広く居住していたアボリジニは、住みよい土地から駆逐され、住みにくい土地に残るだけだ。それらの土地も、もし石油や貴重な資源が埋蔵されていると分かれば、すぐに別なもっと魅力の無い土地へ追いやられるだろう。帝国主義的気質が減った第二次世界大戦以降も、国境線を引き替える為の戦争は後を絶たない。チベット中国に取り込まれてしまったが、それ以外でも世界中で紛争はあり、軍事力で勝ったものが多くの土地を得られる点は同じだ。朝鮮半島38度線現在の場所にあるのは、朝鮮戦争での両国軍事力バランスがそこでせめぎ合う強さだったからであるし、カシミール地域の分け方も、インドパキスタン軍事力バランスで決まっている。仮に日本が完全に武力を放棄してアメリカとの同盟も解除すれば、竹島問題はその領有を主張する韓国に占領されて決着するだろう。そして中国や他の国々が本州の領有を主張する日も遠く無いだろう。

 個人レベルで見ても、生存競争はある。より多くの資源と、よりよい異性を獲得する戦いだ。

 同等の条件で働く能力が等しい2人の人間が居た場合、より長く働いたほうがより多くの収入を得る。さて、他の条件が同じである場合、一日4時間働き月収が20万円である男性Aと、一日8時間働き月収が40万円である男性Bがいた場合、どちらが多くの女性の目に好ましいと映るだろうか。尚、Aは浮いた4時間で昼寝をするとしよう。

 通常、収入は多いほど好ましいとされる。そして他の能力が同じなら、収入は長く働くほど多くなる。よりよい異性を得るためには、自分の負担になりすぎない中では、なるべく多く働くほうが有利となる。長時間働くことが出来るということは、それだけ勤勉で体力があることの証明にもなる。また、他の要素が同じなら、長時間働くほうが出世しやすい。こうして、他の能力が同じでも労働時間と地位の開きから、収入の差はさらに大きくなる。

 収入が多いほど、子ども教育にかけられる費用も増える。よりよい教師、よりよい技能、より豊かな体験を与える機会を、金銭的理由で逃すことが少なくなる。学費さえ払えれば子ども希望する大学に行けるという状況でも、お金が無ければあきらめるだけだ。

 こうして、より長時間働くという性質をもった遺伝子なりミームなりは、そうでないものより生き残りやすいがゆえに、全体として長時間働くという傾向は減少しにくい。



理由7 仕事をしないと暇になる人がいるから


 一端長時間労働習慣化してしまうと、それをしていないと何をしていいか分からなくなってくる人がいる。また、仕事自体が楽しくて仕方が無い人もいる。こういった人々はそもそも労働時間を短くしたいと思わないし、しようともしない。従って、自発的に長時間働くようになる。すると、競争原理によって同じ職場の人も、競業他社の人も、長時間働かざるを得なくなってくる。そして又、ある程度長時間働くことが当然という文化も生まれてくる。こうして、労働者自らが、労働者に対して長時間働くことを要求するようになってくる。これでは労働時間が短くなるはずは無い。



まとめ

これまで見てきた理由によって、科学技術進歩しても人々は長時間労働からは解放されず、むしろ労働時間は長くなっている。

 では労働時間を短くするにはどうすればいいのだろうか。

働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ

働かなくても生きて行ける煉獄


等で描かれている働かなくてもよい未来は、来ることは無いだろう。仮に遠い将来殆どの作業を機械コンピュータ自動化して、人間が何もせずに衣食住を手に入れられるようになっていても、人間たちは更なる科学進歩のため、宇宙の探査のため、高品質の生活のため、寿命をのばすため、そして他人との競争に勝つための仕事からは解放されないからだ。(餓死者は居なくなるかもしれないが)

科学技術が究極的に進歩して、全ての人類が不老・不病・不死を手に入れることが出来たならば、さすがに労働時間は0になり得る。しかしそれは待ち続けるにはあまりに遠すぎる未来だ。

  現実的な提案として


むき出しの自由競争では人々は疲弊し貧困が拡大。自由競争を否定すると欲望が抑圧される。この矛盾を解決してみなが素直な気持ちで豊かに生きられる社会。

日本が人々が将来の不安なく暮らせる国家を作れない、世界構造的な理由


等がある。少しずつ努力していくことにより、段階的に現状を改善していくことが期待できる。


 さて、科学進歩しても、社会制度が変わっても、社会を構成する人間の意識、価値観が同じならば労働時間の短縮は難しいだろう。人間に他人を出し抜き、制度を悪用し、自分が一番上に行こうとする性質がある限り、そして他人と死に怯える限り。

私は、労働時間を短くするために必要なものは「労働時間を短くしようという意志」だけだと思う。もちろん制度的に改革すべき点はあるだろうが、それらはすべてこの「意志」への付随物だ。ではその「意志」はどこから来るのだろうか。単に、労働から逃れたい、楽になりたい、何もせずに暮らしたいという逃避的な動機から来るのであれば、それは力を持たないだろう。その意志は力が弱いため、他人を支配しようという他者の意志に捕われて、長時間労働を「させられて」しまうことになる。労働時間が短くなってできた時間で、あなたは何をしたいのだろうか。人々は何をしたいのだろうか。労働時間が短くなっても単に暇を持て余すだけであるなら、その分労働していても同じだろう。逆に、自分が真にやりたい創造的活動をするために今より労働時間を短くしたい、という動機から「意志」が来るのであれば、それは強力なものとなる。その強さは他人からの支配しようという意志に影響を受けない。そして結果的に、その活動はそれまでの労働以上の価値を生み出すことになる。経済的なものではないかもしれないが、人類幸福貢献するという観点から見た場合の価値だ。(子供と遊ぶ、等)

そして実は、そういった活動をする人や組織は、経済的価値ばかりを重んじる競合相手よりも競争上有利になる。なぜなら本来人間が求めるのはお金よりも幸福なのであり、創造的活動をする者はより多くの幸福を人々にもたらすために人々に好まれるためだ。

結局のところ、社会制度が今のままであっても、あなたにその「意志」さえあれば、すぐにでも労働時間は短くなるのである。人々も、その「意思」さえ持てば、長時間労働から解放されるのである。そして人々がその「意志」を持ったとき、社会制度はそれに付随して変わるのである。そしてその「意志」をもつために、「とりあえず労働時間を短くしよう」とする前に、「労働時間が短くなった分で何をしたいか」を探ることを推奨する。

時間とお金と状況が揃ってから何をするか考えようと思っても、その機会は来ないだろう。何をするかが決まると、その機会がやってくるのである。

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2007-04-22神の存在証明

[]神の存在証明

神はいる、と論理的に説明できるかた、お願いします。


まず、論理1、論理2、で簡単に説明します。


論理1初め

存在する全てをEと置く。

Eを作り出した者を神と定義し、Gと置く。

Eは全てであるので、GはEに含まれるか、もしくはGとEは等しい。

この世は完全な無ではない。

従ってEは0ではない。

よってGは0ではなく、存在する。

従って神は存在する。

論理1終わり


論理1を異なる形で表現するための論理2を以下に示します。


論理2初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2は存在しない。

従って神は存在する。

論理2終わり


次に、論理1においてE=Gである場合、或いは論理2においてE=E1、すなわちE2=0である場合の説明をするための補足的論理論理3を紹介します。


論理3初め

論理1においてE=Gであるならば、存在する全ては自らを原因として存在する。

このときGでないものは0であるので、全てはGである。

従ってこの場合全ては神である。

論理3終わり



次に、神はどのような性質を持っているか、ですが、少なくともこの宇宙を生み出し存続させるだけの力はあることは分かります。又、どのような意識、意図を持っているのかという点については、人間の意識と同じように

意識の謎を解いてみました


で述べられている通りです。(人間には意識があることを論理的に示すことは不可能であることが示されています)



次に、どうすれば神の存在を実感できるか、ですが、2つの方向性を示します。


1 状況から論理的に推察する。

神がこういう性質を持っているなら世界はこのような性質を持っているはずだという仮説を持ち、この世界を観察し、それを検証する。もしくは、世界がこのような性質を持っているということは、神はこういう性質を持っているのかもしれないと推察する。こうしたことを様々な状況に対して様々な角度から繰り返していくことにより、神の存在と性質に対する実感を深めていくことが出来る。あなたも火が熱いという実感を、火に近付く体験を通して深めてきたはずです。


2 直接に体験する

これは、こちらの記事を参考にしてください。

人間が生まれ、死ぬ理由


以上です。

sasadasasada2007/04/22 20:08 おぉ、すごい!!
 でも、私にはちょっと分からないところが有りました。
 以下、単なるチャチャ入れですので、無視していただいて結構なのですが。。。

論理1について。
 時空間のうち、時間が扱われていません。

 定義1「存在する全てをEと置く」
 定義2「Eを作り出した者を神と定義し、Gと置く」
 推論1「Eは全てであるので、GはEに含まれるか、もしくはGとEは等しい」

 ココで破綻するのでは。なぜなら、

 推論1a「Eは存在する全てであるので、GはEに含まれるか、もしくはGとEは等しいか、*もしくは既にGは存在しない*」
 推論2 「この世は完全な無ではない/従ってEは0ではない」
 推論3a「よってGは存在するか、存在したかである」
 結論1a「従って神は存在するかもしれない。」

となるから。変でしょうか・・・?

論理2について
 論理1と同じ、すでに神が存在しない可能性とは別に。。。
 E2が集合であることが考慮されていません。

 定義1 「存在する全てをEと置く」
 定義2 「Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く」

は良いとして、推論1以降は、

 推論1a「E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、それはE1あるいはE2内の他の存在による」
 推論2a「よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。が、E2が互いを原因として存在する可能性を排除できない。後者をE2Eと呼ぶ」
 定義3a「そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。E2Eを独在物と呼ぶ」
 推論3a「E1が存在しなくてもE2(E)は存在しうる」
 結論1a「従って神は存在するかもしれないが分からない」

となってしまうような。
 ま、私のは単なるチャチャ入れですので、お気になさらないようお願いします。
 何といっても、garyoさんにご紹介いただいた、ゲーデルの存在証明すらよく分からない身ですので。失礼いたしました。f(^^;

IWAKEIWAKE2007/04/22 22:40コメントありがとうございます(^^)
確かにもう少し私の中にあった前提を説明しないと、ご指摘の点で分かりにくくなってしまいますね。

時空間について。
相対論的には時間と空間は物理的に等価です。また、どちらの存在も、人間がそれが存在すると解釈する考え方を採用した場合にのみ存在します。そして、時間的に離れていることと空間的に離れていることは等価です。
小説「我輩は猫である」の作者は存在しないのでしょうか。通常の言語の意味では、「作者は存在するが2007年時点では生存していない。」と表現されるでしょう。
あなたが今「おにぎり」を作ったとします。そしておにぎりを残して部屋から出ます。そしてそのおにぎりと共に部屋に残った人は、そのおにぎりの作者は存在しないと言うでしょうか。「作者は存在するが、この部屋の中には存在していない。」と言うのではないでしょうか。
この例から、空間的隔たりと、時間的隔たりが本質的に同じものだと分かってもらえれば幸いです。物理的には、1光年の隔たりと、1年の隔たりが等価です。

このように時間と空間が等価である観点から「存在する全て」と表現されたEには、あらゆる時間におけるあらゆる場所が含まれています。(私の中では、この宇宙の外の宇宙や異なる次元領域やその他あらゆる想像可能、そして想像不可能な存在全てを意味しています。)

そして「今」という瞬間に限定して考えてみた場合でも、例えば「今」目の前にディスプレイがあると思いますが、そのディスプレイは何らかの原理によって存在しています(重力や核力や人間が知っているものも知らないものも含めてもろもろ)。そういったディスプレイを存在させている原因、あるいはその原因を今存在させている原因、これを辿っていって自らの原因によって存在している原因(ここまでくれば既に時間という在り方を超越しているものでしょうが)のことをE1と置いたのです。


次に独在物について。

これはE1とE2の線引きの仕方の問題だろうなと考えていました。
つまり、E2aとE2bが互いを原因として存在している場合、それらを合わせてひとくくりにしてE2cと呼び、E2cは己を原因として存在していると解釈してE1に含めてしまうのです。従ってE1の中には、E2の原因になっているものと、E2の原因にはならずに自分の原因にだけなっているものがあることになります。

ここのところは、「AとBが一体であるか別個のものであるかはどうやって決まるのか」という問題が絡んでくるのですが、結局AとBが別のものであるというのは人間が勝手にそう解釈することが出来るというだけの話であり、「全ては一体である」という考えを採用するか、「区分は自由に決められる」という考えを採用するかのどちらかですので、ここでは後者を採用し、E2aとE2bは一体としてE2cと捉えてE1に含めています。(全ては一体であるという考えを採用すると、言語で何かを論じるということは不可能になりますからね)


というようなことを考えていました。不親切な本文でごめんなさ~い。

neyorawaneyorawa2007/04/23 00:23おそくなり失礼しました、neyorawaです。
うーん、すごい。お二人とも。
はてなの回答の35およびその回答に、論理1に対するコメントとなりえそうなことを書いています。よろしければご覧になってみてください。

IWAKEIWAKE2007/04/23 00:46>「人間の行いに判決をくだす意志をもった存在」としての神を、なぜ多くの人が信じるのか。ここをもうすこし掘り下げたいです。


「神は存在するか」ではなく、「ある性質を持った存在をなぜ人は信じるか」が問題であれば、視点はまったく変わってきます。それは「信じるとは何か」という、人間の心理機構の話題だからです。その観点からの説明は今のところ予定していませんので、ご了承ください。

sasadasasada2007/04/23 03:17 IWAKE様、御丁寧な解説をありがとうございました。とても分かりやすかったです。
 さて、せっかくここまで来ましたので、ダメを詰めさせてください。(無論無学な素人のたわごとですので、スルー大歓迎です)

 まず、論理1の『存在』についてですが、『時間と空間が等価である観点から「存在する全て」と表現されたEには、あらゆる時間におけるあらゆる場所が含まれています』とのこと。
 私は、これを、『過去に存在したもの(Eb)、現存するもの(En)、今は無いが未来に存在する(事が決定している)もの(Ea)』の総和と解釈しました。つまり、『Eaは将来必然的に存在する』と。また、『消滅によって、存在が滅することはない。Eb,Enは存在し続ける』と解釈しました。

 ところで、この場合、時空間は無限なのでしょうか。
 空間も時間も無限であるなら、上記は矛盾しません。ただし、熱力学の法則によるエントロピーの増大が無限大になった以降も、時空間が無限に続き得ることを証明する必要を感じます。私には、「あらゆるエネルギー反応がなくなった世界で、何かが存在する。それ(のひとつ)が神だ」といわれてもピンと来ません。無学ですみません。

 逆に、空間も時間も有限だと仮定します。(その他のパターンは時空の等価性に違反するのでスルー)
 だとすれば、神が扱える創造力も知能も能力も有限であることになります。(そのせかいで一番優秀だとしても)

 えーと、僭越な言い方で恐縮ですが、Eの存在を時空間に広げた時点で、「『一般に言う神』の存在ではなく、『創造主』の存在」の証明になるがします。
 ゲーデルの存在証明を見ていても、ここが一番分からないところです。アホですみません。

 次に『独在物について』。
 ご自身でおっしゃるとおり、『結局AとBが別のものであるというのは人間が勝手にそう解釈することが出来るというだけの話』なので、『E2aとE2bは一体としてE2cと捉えてE1に含めて』しまうのは、人間による定義であり、これこそが信仰なのでは無いでしょうか。(信仰者がこの定義を選択するのは当然として) 無信仰者がE1の介在を認めないために『E2aとE2bは別のものと捉えてE2(E)に含めて』しまうことを論理的に禁止できないと『独在物E2(E)』を否定できず、困っちゃうのかな、と心配になりました。気が弱くてすみません。

 以上、門外漢のたわごとですので、世の中にはこんなアホもいるという参考にして、スルーしてください。f(^^)
 二度にわたる長文コメント、大変失礼いたしました。m(_ _)m

IWAKEIWAKE2007/04/23 22:07せっかくですのでどうぞどしどしコメントなさってください。対話は互いに理解を深め合うよい方法だと思いますから出来る限り回答していきますので。

>「『一般に言う神』の存在ではなく、『創造主』の存在」の証明になるがします。

その通りです。そして私は「一般に言う神」なるものは千差万別で、その語が何を意味しているのか特定不能だと考えています。仮に、「キリスト教でいうところの神」等と特定しようとしても、キリスト教徒が抱いている神のイメージは漠然と似たところはあっても、その実キリスト教徒の数だけ異なった神のイメージがあると思われます。「神」という言葉ほど、多くの意味で使われている単語は無いほどですから。
そこで私は、自分の論理の中で「神」を定義し、その存在を証明しました。それは、「Eを作り出した者を神と定義し」や「自らを原因として存在する部分をE1」と書いているように、創造主としての存在です。逆に言えば、「創造主」の存在しか証明していません。それ以外については一切触れていないのです。

私にはsasadaさんが「一般に言う神」という言葉で表現しようとしたものが何なのかは分かりませんが、きっと創造したということ以外の性質もたくさん持っているのでしょう。その場合例えば、「死んだ人間の生前の行いからその人間に審判を下すような性質を持つ存在はいるか?」等という風に個別に考えていかなければ、説明のしようがないように思えます。或いは、「創造主にはこれこれの性質が備わっていることを示せ」などと書くとか。ゲーデルの存在証明も、肯定的性質とは何なのかを明らかにしてもらわないと、意味があるものには思えません。究極的には肯定も否定も善も悪も無い訳ですし。

要は私は、「神はどのような性質を持っているか」は「神は存在するか」とは分けて考えないといけないと思っている訳ですね。

独在物について

それではこちらに、本文では見苦しくなりそうだから書かなかった部分も入れた、論理2の長いバージョンを書きましょう。

より厳密な論理2初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

尚このとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
また、3つ以上の部分についても、それらが相互依存の関係にある場合には、それらを一体とみなしてE1に含める。(例えばEaはEbの原因であり、EbはEcの原因であり、EcはEaの原因である場合、その三者は一体とみなす。又、EaとEbがEcの原因であり、EcはEdの原因であり、EdはEaの原因である場合は、EbのみがE1に、他の3つはE2に含まれる。)

さて、E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2及びEは存在しない。

ところで、この世は完全な無ではない。

よってE=0でなく、Eは存在する。

ゆえにE1は存在する。

従って神は存在する。

より厳密な論理2終わり

sasadasasada2007/04/24 13:32 再び丁寧な解説をしていただき、ありがとうございます。m(_ _)m
 では、せっかくですので、お言葉に甘えて、もう一度。。。

 IWAKAさんのおっしゃる「E1=創造者・神」は、「苦しいときの神頼み」とかの神様のイメージでなく、純粋に「万物の創造者」を指してらっしゃるものと理解しました。それは、一神教の神かもしれず、多神教の神々かもしれず、ビッグバンから始まる未だ人の理解の及ばぬ物理法則かもしれないですね。それなら同意できます。

 あと、EをE1とE2に分けるとき、IWAKAさんのおっしゃる定義なら独在物は存在しない点は理解しました。
 しかし、その場合、Eの定義である「原始の過去から永遠の未来までの間に、この宇宙の内外に存在する(した/これからする)もの全て」について、「(E2にはE1を原因としない存在はない)」という定義を当てはめることになります。
 となると、「全ての結果(存在)には、*そうなるべき*原因がある(神はサイコロを振らない)」ことをEの定義と同じスケールで証明せねばならず、私はこれが証明されたという話を過分にして知りません。
 これが証明できるまではIWAKAさんの定義は仮説に過ぎず、それを信じることは“信仰”なのかな、と思います。

 もちろん、「全ての結果(存在)には原因があるが、そこには偶有性がある」という解釈、つまりEが存在するのはE1の“意思による必然”の産物ではなく、(例えば量子力学的な)確率を伴う結果論的存在であるとする考え方も有ると思います。
 この場合、創造者は自らの意思を持たないか、持っていてもその通りに創造できるとは限らないことになります。
 あるいは、創造するつもりの無かったものが偶然出来てしまうことも。(この場合、私の解釈では、これは独存物ですが、「創造主がいることによって出来た」という(対偶ではなく)逆の論理を許すなら被造物です)
 これなら“信仰”というよりは“(量子力学的)常識”で済ますことが出来るのかもしれませんね。

 いずれにせよ、相対性理論が検証途上に有り、量子力学もまだまだ未成熟だった時代に、この問題にとりくんだゲーデルは尊敬に値します。
 また、この難解な証明を分かりやすく解説することの出来るIWAKEさんも尊敬します。(^^)

通りすがり通りすがり2007/04/24 18:43神の存在論的証明の段階では、全ての事物の結果には原因があって~、といった証明の仕方で十分だろうね。
何故なら、事物の結果の遇有性は因果律を破るものではなく、必然であれ偶然であれ結果は結果だからね。

IWAKEIWAKE2007/04/24 19:58更なるコメント、ありがとうございます。

1 私が定義した神の性質について

神という言葉に対する定義の仕方は無数に可能であり、その中で私が自分の論理の中で採用する神の定義は、その存在の証明が私にとって可能なものである必要がありました。つまり、私が神をそのように定義したのは論理的必然性によるものではなく、私の都合によるものです。従って、神=E1などという神の定義は認めない、という人にとっては、私の論理は何の意味もありません。まぁこれは、いかなる神の定義を採用した論理でも、その定義を認めない人にとっては無意味なので仕方ありません。
次に、その定義がどの程度多くの人が抱いている神のイメージに近いかによって、その定義を採用した論理にどの程度意味があるのかが決まってきます。路傍の石を神と定義しその存在を証明してもあまり意味は無いでしょうから。さて、私の定義した神は次のような性質を持っています。

「我は我たるもの・我は在りて在るもの(I am that I AM)」と宣言する資格がある。(自らを原因として存在している訳ですから)

「我は万物の創造主なり」と宣言する資格がある。(存在する全てを作った訳ですから)

それなりに、いわゆる神のイメージに近いと思いませんか?
そしてまた、私の定義した神はこれら以外の性質については全く不明となっています(一切言及していない訳ですから)。神頼みに応えてくれるかどうかも完全に不明です(笑)

そして、このような性質を持つ存在が存在することを示した私の論理がどの程度の意味を持つのか、それは読む人の主観に委ねられているわけですね。


2 全ての結果に原因は必ずあるのか、について

この問題は、次の一文を論理2の3行目に入れることで解決しましょう。

「尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める」


これでいずれの場合にも対応可能だと思いますが、せっかくですので偶有性について少し付け加えますと、私は多世界解釈を採用しておりまして、偶然は存在しないと思っており、Eは全ての多世界を含んでおり、量子的にどんな観測が得られようとその全ての結果に原因があると想定していました。もちろん多世界解釈は証明されていませんので、上の一文が加わったほうが安心して論理2を読めますね。


論理2(ver.3)初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める。

またこのとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
また、3つ以上の部分についても、それらが相互依存の関係にある場合には、それらを一体とみなしてE1に含める。(例えばEaはEbの原因であり、EbはEcの原因であり、EcはEaの原因である場合、その三者は一体とみなす。又、EaとEbがEcの原因であり、EcはEdの原因であり、EdはEaの原因である場合は、EbのみがE1に、他の3つはE2に含まれる。)

さて、E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2及びEは存在しない。

ところで、この世は完全な無ではない。

よってE=0でなく、Eは存在する。

ゆえにE1は存在する。

従って神は存在する。

論理2(ver.3)終わり

sasadasasada2007/04/25 10:12 多少、私の理解の範囲外に残った疑問もありますが、そろそろお開きにさせていただこうと思います。無学な私の為に、余りお時間をいただくのも僭越ですし。

 私は、IWAKIさんのおっしゃる神は「万物を創造したナニモノか(単複不明)」であり、たとえば、ビッグバンから始まる未だ人の理解が完全には及ばぬ物理法則かもしれず、そうではないかもしれない、具体的な事象としては証明も反証もできない存在だと理解しました。

 たとえば、Ea,Ebが互いの存在に寄って存在する場合、例を挙げるなら、ビックバンのときに大量の粒子(Ea)と反粒子(Eb)が対生成したり、いまでも巨大重力場の近くで電子と反電子が対生成している、とされてる部分について、これらの粒子のペアがE1に含まれ『粒子の対生成は“神=万物の創造者(の形態の一つ)”である』と理解しました。(証明も反証も私には不能ですが)

 ちなみに、私は『その生成過程には(量子力学的な)偶然が作用している』と思いますし、IWAKEさんは『多次元世界の概念の導入により偶然が作用する部分は無くなる』と解釈されています。この点も、現在の科学では、証明も反証もできていない部分でしょう。
 私は、この偶然の産物の解決に独在物を導入しようとしましたが、IWAKIさんのおっしゃるように「尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める」とするならば、偶然が作用しているかどうかは無関係になります。つまり、私の言う独在物(偶然の産物)は“神=万物の創造者(の形態の一つ)”という解釈です。

 これで、お互いの論点は整理されたと思います。
 また、上記の解釈なら、私の“常識”は満足します。
 おかげさまで、ここ数日の胸のつかえが取れました。無学な私に粘り強くご教授くださったIWAKIさんに感謝します。本当にありがとうございました。m(_ _)m

IWAKEIWAKE2007/04/25 21:28胸のつかえが取れたところに大変申し訳無いのですが、少し誤解がありそうですので説明させてください。尚、全ての誤解の原因は、私が一般的な考え方から非常にはずれた考え方をしていることと、それを説明するためには充分な長さの文章が必要なのに、それをつい省略してしまうことにあります。コメント欄まで不親切な文章でごめんなさい。

私が原因という言葉でイメージしている事柄について

通常、手を叩いて音を出した場合、その音が出た原因は手を叩いたことだ、という風に「原因」という言葉を使うと思います。しかし私は論理の中で、「原因」という言葉を「あるものが存在するために必要な全ての要素」、という意味で使っています。もちろん、原因が複数ある場合もあるでしょうから、その場合一つの要素については「原因」の一部、などと考え、普通に「原因」と言った場合には、「複数の原因全てを集めた集合」を指しています。
 手を叩いて音が出た場合、その音が存在する原因には、もちろん手を叩いた事があげられますが、それ以外にもたくさんの原因があります。例えば空気(音を伝える媒介)が存在したこと、空気分子が音を伝えるような性質を持つような法則が働いていること、誰かが手を叩こうという意思をもったこと、その誰かがそこに存在するために必要だった全ての物事、等等。これらの他にも私が想像できないような要素も全てあわせて、その音が出た「原因」と呼んでいます。
 つまり、この宇宙に存在する物質で「原因無しで」存在しているものはありません。ビッグバンという要素が無くても、或いは宇宙に働いている法則という要素が無くても存在していたと思われるものは無いからです。そこで「基本的には」全ての物質はE2に含まれると考えられます。粒子の生成に量子的偶然が働くという見方の場合、粒子の生成の原因の一つにはビッグバンはあるはずなので粒子はE2です。そしてその時働いた「偶然」というものが、ビッグバンにも依存せず、宇宙の法則にも依存せず、その他一切のものにも依存せずただ自らのみに依存して存在しているというのなら、その「偶然」自体はE1に含まれます。(しかしその「偶然」が存在するためには少なくても粒子を生成するに充分なエネルギーが必要な気がしますし、そのエネルギーが存在する原因の一つにはビッグバンがあるはずで、となるとその「偶然」の存在はE2でしかないかもしれません)。
 ではビッグバンの原因は何でしょうか。或いは宇宙がこのような性質を持って存在するに至った原因は何でしょうか。その原因が存在するために必要だった全ての要素は何でしょうか。それらは今宇宙に働いている法則が存在するために必要だった全ての要素の原因とは別物でしょうか。それらをどこまでも辿ると一つの原因に行き着くのでしょうか。それとも複数の異なる根本原因に行き着くのでしょうか。或いは原因を辿る作業は永遠に続くのでしょうか。
 私の論理において、これらの問いへの回答は不要です。なぜなら、それらがどこまで続くものだとしても、とにかくこれ以上原因を遡れないというところまでいったものをE1と定義しているからです。無限に続くなら、とりあえずビッグバンから先全部をひとくくりにしてE1とすると規定しましょうか。
 さて、私がこのように考えているのならば、「独存物」や「原因なしに存在する物」などあるはずがないと私は主張しなければならない、と思われるかもしれません。しかし、そう言い切ることは出来ないと思います。この宇宙の外に、そしてなおかつこの宇宙や他の宇宙やそのほか様々な可能性の様々なあり方のどんな体系にも属さず、しかもそれら全てを存在させているどんな原因群にもよらず、ただ自らの原理のみによって存在している存在。或いは相手を存在させるのに必要充分な要素だけを持つ存在同士のペア。正直に言って、こういった存在がどんなものか私にはまったく検討もつきませんし、想像も出来ません。仮に存在してもそれらは決して他の如何なる体系の存在からも観測されません。(観測されると観測した存在に影響を与えるため、何かの原因になってしまい、それは独在物ではなく普通に規定されるところのE1になってしまいますから)。そんなものがあるとはとても思えないほどです。しかし、私がまったく想像も出来ないからといって、そういったものが決して存在しないと言うことは出来ないのです。そこで私としては、「万万が一そういうものがあった場合は、そうしないと証明がすっきりいきませんからとりあえずE1に含めることにさせてください」というような一文を入れることにしたわけです。これをE1に含めても、規定されるE1としての性質は特に影響を受けませんから。
また、原因無しに存在する存在についても、それが存在するのに必要な全ての要素が0でありながら存在しているわけで、普通に考えると何だか定義上ありえない気もしますが、完全になんらの要素にもよらずに自分自身にもよらずに存在するということを私が思い描けないからといって、絶対にそういうものがないと言うことも出来ないだろうとも思うのです。
 ですから昨日
>多世界解釈は証明されていませんので、上の一文が加わったほうが安心して論理2を読めますね。
と書きましたけど、実は私の見方では多世界だろうと何だろうとこの宇宙内での量子的偶然はE2であるので、その一文によって安心して読めるようになるのは上のようなことを考えている私のような人間だけなのかもしれません。ただあの一文によって、私の考えているようなことを説明しなくても、コペンハーゲン解釈や多世界解釈かによらず幅広い考え方の人にとって論理2の証明が有効になるという効果は期待しました。

 また、なぜ『「基本的には」全ての物質はE2に含まれる』と、「基本的には」をつけたかといいますと、究極の原因が明らかでない以上、その究極の原因がこの宇宙の物質をその原因として持っている可能性を否定できないためです。つまり、例えば宇宙が膨張と収縮を繰り返しまったく同じ歴史を無限に紡ぐ環のような構造になっている場合、宇宙内の全てのものは宇宙内の全てのものの原因になっていると言えます。そして宇宙が外部になんらの原因も持っていない場合、この宇宙は全体として独在物であると言えます。するとこれはE1であり、存在する全てがこの宇宙だけであるならE=E1となります。こういった場合も考え、存在証明には直接関係のない論理3も書いておきました。


・・・これで説明は終わりなのですが、なんだかsasadaさんが聞きたくもない話を無理やり聞かせているような気もしてきました。殆どの人にとってどうでもいい事柄に関する私の勝手な自己満足用理論の話だと思って、面倒でしたら軽く聞き流してやってください。
sasadaさんが的確にコメントをしてくださったおかげで、不十分だった点の多くについて説明ができました。今後ここを読む人の中にも、それが参考になる人が居ると思います。どうもありがとうございました。
 最後に、科学的に証明されていないことを信じるのは信仰だというような話がありましたが、私はある意味科学も、常識も、殆ど全てのものが信仰だと思っています。その辺を意識して書いた記事がありますので、よろしければどうぞ。

http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20061102 人間が死ぬという考えは錯覚という記事
http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20070219 現実と幻覚の本質は同じという記事

Y.M.Y.M.2007/05/29 19:29はじめまして
ゲーデルの神の存在証明なるものを初めて目にしてここに来たんですが、
IWAKEさんの証明はゲーデルの証明とは独立ですよね?
ゲーデル流の神の定義とマッチするかどうかわからないのですが、
IWAKEさんの集合EにあえてゲーデルのPなるものを想定すると
「Eの要素である」、「E1に含まれる」、「神という要素である」、「E2に含まれない」、「人に含まれない」、「地球という要素ではない」、、、「Eの全要素の原因である」、「E2の結果ではない」、、、「Eの要素でありかつE1の要素である」、、、
のような性質をふくむと考えればいいのでしょうか?
(Pの要素は非可算無限個かもしれませんが。)

IWAKEIWAKE2007/05/29 22:43こんにちは。

>IWAKEさんの証明はゲーデルの証明とは独立ですよね?
その通りです。私が勝手に考えた説明なので、ゲーデルの証明とは何の関係もありません。

>IWAKEさんの集合EにあえてゲーデルのPなるものを想定すると
P(肯定的性質)がどういうものなのか彼は詳しく定義していないので正確には分かりませんが、私の理解では

「Eの要素である」、「E1の要素である」、「E2の要素であるかは不明」(被造物の中に肯定的性質を持つものがあるかどうか判断しかねるため)、「人の要素であるか不明」(人が肯定的性質を一切持たないのか判断しかねるため)、「Eの全要素の原因とは限らない」(肯定的性質によらずに存在している要素があるかもしれないため)、、、

のようになるのではないでしょうか。
結局Pが何なのか、そしてPによって定義される神が何であるのかが明らかでない以上、判断はできないように思います。
おそらく、彼の定義と私の定義はあまりマッチしないでしょう。
無理に対応させず、別個に考えてみるのがいいのではないでしょうか。

Y.M.Y.M.2007/05/30 18:22ご返答ありがとうございます。

言葉足らずで意図が伝わらなかったところがあると思います。すみません。

>P(肯定的性質)がどういうものなのか彼は詳しく定義していない
>Pが何なのか、そしてPによって定義される神が何であるのか
ゲーデルが具体的な神をどう想定していたかはこの際考慮してません。
私はゲーデルの証明あるいはその公理系を「利用」したいだけであり、
その中の神の制限についてはゲーデルが示した5つの公理しか考えてません。

実際考える系が{0,1}集合であっても適用できるんじゃないでしょうか。例えば
G=「0である」
P:「0である」,「1でない」,「0または1である」等(Gからの帰結の全て)
もしここに「0は1より偉大である」という要素間の関係が定義されていれば、
「最も偉大である」も肯定的性質になるでしょう。
もちろんG=「1である」というケースも別の世界あるいは定義としてありえます。
G=「0または1である」の場合はPを構成できずありえないと思います。
この場合G(0)もG(1)も真ですが、例えば「0である」という性質を考えて
P(¬「0である」)⇔¬P(「0である」)
よりP(「0である」)かP(¬「0である」)のどちらかは必ず真でなければなりません。
言い換えれば「0である」か「0でない」かのどちらかは肯定的性質でなければなりません。
それが「0である」の場合、神である1は「0である」という肯定的性質を持たなくなり、
もう一つの場合も、0が神として困ることになります。

ゲーデルの証明の中の神は上の例も含むような形式上のものとして扱っています。
現実の創造主たる神はゲーデルの神と考え得るかどうか、ということです。

>被造物の中に肯定的性質を持つものがあるかどうか判断しかねる
神でないものが肯定的性質のいくつかを持つことは構いません。
全ての要素のうち、肯定的性質を全て持つもの=神、全ては持たないもの=その他の要素、です。
例えば「Eの要素である」はIWAKIさんの系では「存在する」とも同値であり、全存在が等しく持つ肯定的性質の一つといえるでしょうし、ゲーデルの神の要請でもあります。
「E2の要素でない」をPに加えたのは、公理から「E2の要素である」または「E2の要素でない」のどちらかは肯定的性質であり、「神はE2の要素である」は「神はE1の要素である」と矛盾(E1∧E2={}より)するためです。

>人が肯定的性質を一切持たないのか判断しかねる
人である存在は肯定的性質をいくつか持つはずですし、前述のようにそれは問題とはなりません。
人はE2に含まれると考えて「人に含まれない」を加えました。
我々全てがE1に含まれる繰り返しの世界だとしたらこれはふさわしくないかもしれません。

>肯定的性質(を全て持つ存在)によらずに存在している要素があるかもしれない
「Eの全要素の原因である」は
>「我は万物の創造主なり」と宣言する資格
を単純に与えるわけですが、
我々の創造主から派生する我々の世界の存在物をEのサブセットE’として
「E’の全要素の原因である」
ではどうですか?

結局のところ、Pの構築の上で避けられない矛盾があるかどうかが知りたいわけです。

IWAKEIWAKE2007/05/30 20:30なるほど。そういうことであれば、人や地球がE1に含まれるかどうかは別として、

Pは

「Eの要素である」、「E1の要素である」、「神という要素である」、「E2に含まれない」、「Eの全要素の原因である」

となると思います。さらに、Eの全要素の原因であるためにはE1の全要素を持たなければならないため、E1はPに含まれることになるでしょう。


>結局のところ、Pの構築の上で避けられない矛盾があるかどうか

属性 「全てを内包する」 について考えてみると、これを肯定するもののほうが否定するものより偉大であるように思われます。Gの全てを内包しつつG以外の全ても内包している訳ですから。すると結局G=E、即ち全ては神である、神で無いものは存在しない、と言うしかなくなりそうな気がします。するとこれは神の偉大さを讃えはしますが「存在する全てを神と定義する。よって神は存在する」という、証明としては無意味なものになってしまいます。

また、別のある属性 「大阪より東京に近い」 などについて、どのように解釈していくかが問題になりそうです。

このような問題を避けるため、私の証明では「存在する」という単純な属性についてのみ考えました。

Y.M.Y.M.2007/05/30 22:36ゲーデルの神とみなせることの恩恵は存在の証明というよりは
考えている神が論理的に矛盾無く扱えるものであることが保障されることにもあると思います。

おっしゃるとおり属性についてはきちんと定義されたもののみを使わないといけないでしょうね。
「要素○○である。」や「部分集合○○に含まれる。」は集合論的に考えて自明に定義されると思いますが、
「○○より偉大である」などは要素間のある順序関係としてきっちり決められていないといけないでしょう。
例えば「xがyの原因であるときxはyより偉大である」とか。言葉を変えただけですが。

ところで神が複数存在したら(Gが複数の要素をもったら)Pに矛盾が出ると思うんです。
なぜなら神g1とg2がともにGに含まれるとして、Pは「g1である」と「g2である」を含まなければならないが、神g1は「g2である」という肯定的性質を持たない。
この場合はこの創造主はゲーデルの神とはみなせないというだけで、ゲーデルが設定した条件がやはり強すぎるのかもしれません。
あるいは個別の存在物の部分集合も全存在物Eには要素として含まれると考えて、「全創造主の集合」という一つの要素をゲーデルの神とみなせばよいのかもしれません。
{0,1}集合で例えれば{{},{0},{1},{0,1}}というべき集合を改めて扱うことになります。これなら神を{0,1}ともできそうです。

ここで思いついたのですが、素粒子の状態の集合を使ってその部分集合として全存在物の集合を構成できないでしょうか。素粒子は「存在物の不可分な構成要素」という素朴な定義です。

Y.M.Y.M.2007/05/30 22:50すみません。ちょっと訂正します。

>その部分集合として全存在物の集合を
その部分集合の集合として全存在物の集合を

IWAKEIWAKE2007/05/31 04:29私も神が複数の要素により構成されていたら(神が分割可能であったなら)、矛盾が生じると思います。ゲーデルの神が矛盾しないためにはE1が一体でなければならず、その解釈を採用する人にとってのみ有効な存在証明なのでしょう。そして単一の原因からは単一の結果しか生まれず、それはつまり「唯一の神の他に存在するもの無し」ということになってしまいそうです。(ゲーデルはそう言いたかったのかもしれませんが)(ついでに言うと私はそう考えていますが。何かと何かが別個のものであると考える利便性はあっても必然性はないため)
意味のある存在証明の為には、これは確かに強すぎる要請に思えます。

>素粒子は「存在物の不可分な構成要素」

素粒子の振る舞いが従っているところの物理法則を、素粒子自身を使って表現するのが難しいかもしれませんね。また、素粒子を基本構成要素として考える場合は、素粒子が無い世界や、素粒子が出来る前・宇宙はどのように出来たのか、などについては取り扱えないでしょう。

Y.M.Y.M.2007/05/31 17:16集合論上の「要素」と物理的な「要素」とは別です。神は物理的に分割可能だとしても集合の一つの要素とします。
存在物の集合の取り方を変えても世界が変わるわけではありません。

>単一の原因からは単一の結果しか生まれず
例えば一つの十分なエネルギーをもった光子から電子と陽電子あるいは陽子と反陽子など多くのものが生まれ得ると思います。神が一つの光子であったと思ってるわけではありませんが。

>素粒子は「存在物の不可分な構成要素」
ここまでの議論で存在物の内容が具体的でないので、素粒子の定義も具体的なものではありません。
私はいわゆる唯物論者に近いので存在物には物質あるいはエネルギーのようなものしか含まれないと考えていますが、
物理法則も「存在物」に含めるなら物理法則を切り分けた一つ一つの法則が素粒子と定義されるでしょう。
「存在物」が無数に分割できるものでない限りは有効な定義だと思います。
ちなみに私は存在物は有限個数だとも思って(信仰して)ます。

>「唯一の神の他に存在するもの無し」
もし「世界が分割できない一個のものである」と考えたとしても上の定義からの否定はしません。

IWAKEIWAKE2007/05/31 20:171.存在物は分割可能だと仮定する。
2.存在物はどこまでも細かく分割し続けることは出来ず、分割できる限界の細かさがあると仮定する。
3.その限界まで細かくされた破片を、素粒子と定義する。

このような条件の下で、有意義な分割方法を用いて考えていけば、有意義な理論が作れるかもしれませんね。

>単一の原因からは単一の結果しか生まれず

ここは今の話題と直接関係ないので無視して頂いても構わないのですが、少し説明します。
私は原因という言葉を「あるものが存在するために必要な全てのもの」という意味で使っています。つまり光子のみがあれば電子と陽電子が存在できるというわけではなく、他にも様々な物理法則やそれを維持する力が必要なはずです。1グラムのアルミがあるだけでは1円玉は出来ず、それを作る機械や設計する人間やそれらの機械や人間を存在させるに至った全ての原因がなければならないはずです。また、時間を一定方向に流して観測する必然性もないことから、光子と電子陽電子のペアのどちらがどちらの原因かもわかりません。私の見方では、原因と結果の線引きは非常に特定しにくいということですね。ただし、そういった様々な要素を含んでいるようなある存在物を存在させるに至った「原因の総体」を単一だととらえる見方があるなら、その原因から来る「結果の総体」も単一だととらえることになるだろうという意味で
>単一の原因からは単一の結果しか生まれず
と書きました。

関係無いのですが、Y.M.さんが唯物論者に近いのであれば、私の一番古いエントリの「意識が消滅するという仮定が無謀な件 」から始まる話も楽しんで頂けるかもしれません。

IWAKEIWAKE2007/05/31 20:34ところで、
>「全創造主の集合」という一つの要素をゲーデルの神とみなせばよい

というのは、あらゆる属性についてそれかそれの否定が肯定的性質を持つという公理は無しにして、それ以外の公理は残して考えるということですか?

又、素粒子の部分集合の集合として全存在物の集合を構成するというのも、一体何を目的とした理論なのか分からないので、具体的にイメージ出来ないでいます。よろしければ今何をメインテーマとして話を進めたいかを示してくれませんか。

Y.M.Y.M.2007/05/31 21:01>時間を一定方向に流して観測する必然性もない
いわゆる物理の因果律でいうところの原因と結果を指しているわけではないということでしょうか。
>あるものが存在するために必要な全てのもの
例えば
もし「私」の存在が世界の存在に必要不可欠だったとしたら「私」も世界が存在する原因(=神)の一部分
という論理でよろしいですか?

>唯物論者に近い
もちろん割と信じているという程度なので、それ以外を否定しているわけではありません。正確には不可知論者といえるでしょうか?

この議論をふっかける上で過去のエントリはある程度拝見させてもらいました。
知り得ないことがあると認識した上で、何が知り得て何が知り得ないかを論理的に探求しようとする姿勢に共感しております。
この神の議論については、「存在するもの全て」という概念を持ち出したことに感じ入りました。存在するものの原因は存在するものの中に含まれるという前提に立てば、根本原因の存在を否定することはできないでしょう。

IWAKEIWAKE2007/05/31 21:18>いわゆる物理の因果律でいうところの原因と結果を指しているわけではないということでしょうか。
はい。通常の意味より広い意味で原因と言う言葉を使っています。このコメントで説明しているような感じです。
http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20070422#c1177504088

>もし「私」の存在が世界の存在に必要不可欠だったとしたら「私」も世界が存在する原因(=神)の一部分

私の証明の定義では、神の一部であるためにはその「私」を存在させるために必要な要素が「私」自身のみである場合だけですね。そうでないなら、何かの原因ではあるけれど自分自身を原因として存在はしていないのでE2(被造物)になります。全てが全ての原因である共依存関係である場合(E=E1)を除けば。

Y.M.Y.M.2007/05/31 21:22>「全創造主の集合」という一つの要素をゲーデルの神とみなせばよい
神は「全創造主の集合」とします。
Pは例えば
「「全創造主の集合」という存在物である」、「「ある特定の創造主」という存在物ではない」、「「ある特定の創造主」という存在物を含む」、、、
という感じで公理に矛盾なく構成できると思います。ポイントは存在物という集合のとりかたを都合のいいように数学的に変えたということです。

>素粒子の部分集合の集合として全存在物の集合を構成する。
現代物理学の立場で例を挙げると、素粒子qの状態を時空上の座標pや内部自由度sで指定し、
{q1(p1,s1)}は一つの素粒子という存在物、
{q1(p1,s1),q2(p2,s2)}は二つの素粒子からなる存在物
のように存在物を定義します。
その任意の組み合わせが存在するとは限らないので、存在するといえるものだけを存在物に含めます。

メインテーマですが、論理を進める上で矛盾が生じ得るか得ないかという疑問です。
IWAKEさんはIWAKEさんの神の無矛盾性を証明出来ますか?
ということです。(無限がからむとやっかいな問題が出るので存在物が有限に留まることを個人的に期待しているのですが。)

IWAKEIWAKE2007/05/31 21:38>素粒子の部分集合の集合として全存在物の集合を構成する。
今のところ、その方法は物理状態の記述には有効かもしれないな、という感想です。その方法を用いて何かを記述する利点は私には分かりませんが、何かあるかもしれません。

私は自分の定義した神の無矛盾性を証明しようとしたことはありません。だれかが矛盾を疑う指摘をしてくれれば考えようと思っていた程度です。ところで、私のE1という神の定義は、まさに「全創造主の集合」です。Y.M. さんがこの定義の神の無矛盾性を証明して下されば、大変うれしく思います。

Y.M.Y.M.2007/05/31 21:57>この定義の神の無矛盾性を証明して下されば
私自身アマチェアにすぎないのでそう大それたことは出来そうにないのですが...

素粒子の例を持ち出したのは現代物理学への期待ですね。
例えば物理で使う「初期条件」といった概念が神を表現し得るかどうか。ここにはいわゆる因果律の意味での原因を想定しています。
あるいはもっと広い意味での素粒子としては先に出てきた法則のようなものもありますが、存在物という以上それを構成する単位があるだろうという仮定に立った上で、物事をより整理して考えられないかという試みです。

IWAKEIWAKE2007/05/31 22:11物理学はビッグバンの特異点を超えて考えることは出来ませんが、初期条件を考えるのも楽しいですよね。初期条件における粒子の振る舞いの中に、現在の宇宙の持つ全ての要素が(私が今これを考えるているというようなものも含めて)潜在的に内在しているのか。初期条件はどこから来たのか・・・

物事をより分かりやすく表現できるような体系を考えられるといいですね。

IWAKEIWAKE2007/05/31 22:22蛇足かもしれませんが、参考までに昨日考えたゲーデルの公理を採用すると困りそうな質問を紹介します。

属性「存在が無限に広大である」。肯定なら、神は万物を内包するので存在証明の意味が無くなる。否定なら神は大したこと無い。
属性「現在の人間の知力でその存在を言語で証明することができる」。肯定なら神は大したこと無い。否定なら存在証明不可。
属性「存在するという概念を超越しているため、存在するかどうかを論じることが不可能」。肯定なら存在証明不可。否定なら神は大したこと無い。

Y.M.Y.M.2007/05/31 22:40>初期条件はどこから来たのか・・・
それがE1に含まれるとすると「自ずからそこにあった」ということですよね。私はそれでもいいんじゃないかとも思っているわけです。

>神は大したこと無い。
結局、神が偉大かどうかなんて決めなくて良いと思うのです。ある人が考える「偉大さ」は他の人と違うでしょうし、所詮人の価値観に過ぎません。
IWAKEさんの論理では「原因であること」が最大の基準なのでそれに従ええばよいと思います。

ところで私としては、物理法則やエネルギーは物質が持つ性質であり、法則それ自身は存在物ではないという解釈も考えています。ですから物質それ自体が他の何者にもよらず他の物質の原因たり得ると考えています。前述の光子の例です。
あるいは、「法則は我々物質が存在することにより生じている。」と言えるかも知れません。どうやって生じているかは説明できませんが、それは別問題です。

IWAKEIWAKE2007/05/31 23:06>結局、神が偉大かどうかなんて
神の存在証明をしようとする場合、どの程度多くの人が神と認めるものの存在を証明するかによって、その存在証明の価値が変わってきます。以前のコメントでも書いたのですが、路傍の石を神と定義しその存在を証明してもほとんど意味がないのです。理想的には万人が神と認めるものの存在を証明できればいいのですが、そうでなくとも、なるべく多くの人が認めるものであるほどその証明の意味は大きくなります。従って、誰も神と認めない矮小な存在が存在することを証明しても仕方ないので、これから存在を証明しようとしているところの神が大したことないということになるのは大問題です。

初期条件が他の何者にもよらず自らのみを原因として生じた、初期条件を発生させるような何らかの「場」や「要素」(超時間や超物質)も何もなく、完全なる「無」から「有」が生じたということですか。それは私の感覚では、今目の前で無からビッグバンが起こってもいいというような、何の秩序もない状況に思えます。もちろんそう考えるとしっくりくるのであればその考えを採用されればいいのですが、私には無から有が生じるのはちょっと想像できません。

Y.M.Y.M.2007/06/01 07:03>結局、神が偉大かどうかなんて
言葉が乱暴だったかもしれません。そもそもゲーデルの公理は「偉大さ」について具体的な形で規定していないということです。
今はIWAKEさんの論理に従って議論しているので、「神は最も偉大である」としたら「何かの原因であること」や「存在すること」に矛盾するような「偉大さ」を定義することは許されないはずです。

>何らかの「場」や「要素」(超時間や超物質)
素粒子という言葉が具体的なイメージを与えてしまうのかもしれませんが、私は現在の標準理論で定められている物が必ずしも「素粒子」であると考えているわけではありません。それらはもっと沢山ありえるし、もっと分割できるかもしれないし、宇宙の状況によっては性質の変化も(いわゆる宇宙の相転移)するだろうと考えています。時空の性質についても宇宙の状況によって変わるだろうと思います。

>完全なる「無」から「有」が生じたということですか。
「無」とはなんでしょうか?少なくとも我々の周りの時空は「存在物」で満ちていると思います。
例えば量子論でいう「真空状態」は必ずしも物質が一つもない状態として定義される訳ではありません。準安定な「真空状態」は様々な状態に変化する可能性を持っています。ビッグバン仮説でもそういう「真空状態」から始まったという説もあります。(Wikipediaの”宇宙のインフレーション”に解説あり)
物質世界の「外部」に時空があることを前提とする必要はないと思います。空間が無いなら外部という言葉はもはや意味を持ちませんが。

始状態は一つの「真空状態」であるかもしれないしそうでないかもしれませんが、E1であることの帰結として他の何者にもよらず存在していたというだけです。
IWAKEさんは”聖火の同一性とはなんだったのか”で物理状態が変わらなかったら時間が流れないという可能性を考えてらっしゃいましたよね。
それは物質の変化の結果として時間あるいは時空が生じるということではないでしょうか?
時空は「神」の自発的な変化によって「初め」に生まれた。その時空上の現在の地球の周りで宇宙内部の物理法則が人類によっていくつか検証されているにすぎないというような感じの仮説です。
自発的な変化はランダムに起こったのかもしれませんし、起こりうる全てが多世界で起こったのかも知れません。

短くまとめると、
「原初に」秩序を備えた何者かがあらかじめ実在し、「後に」それが現在の形に変化した。我々の周りの時空や物理法則はその秩序に従って生じている。
納得いきませんか?

IWAKEIWAKE2007/06/01 22:50コメント欄の容量がオーバーしました。
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2006-11-02意識が消滅するという仮定が無謀な件

[]意識が消滅するという仮定が無謀な件

参照 d:id:fromdusktildawn:20061101 おとぎ話が人を鬱と自殺に追い込む。おとぎ話をはぎ取ると絶望回路と無気力回路が作動する。



 まず、意識が消滅し得ると考える為には、意識の存在は脳に依存していると考えなければならない。なぜなら、

「意識の本体は脳にはなく、脳はただの送受信装置であり、どこか非物質的な領域にある意識の本体の物質世界での媒体に過ぎない」

という考えを採用するなら、意識が消滅すると考えることは難しくなるので。


 さて、この

「意識の本体は脳にある」

という考え、すなわち脳の物質的な状態の中に人格記憶を含む意識のあらゆる情報が含まれているという考えを、根拠は無いけれど採用してみる。そうすると、世界を矛盾無く説明するために次のような考えも採用しなければならなくなる。

宇宙がこのような性質を持って生成する可能性は非常に低い。しかしその可能性の低さ以上に多くの宇宙が生まれ、その中の一つにたまたまこのような性質を持った宇宙があった。」

この考えの中には、さまざまな性質を持つ宇宙無限にたくさん生成されている、という考えが含まれている。

 ではここで、大変大きいが有限である実数m、nを用いて、一つの宇宙の開闢から終焉までに、人間の生きている状態の脳を再現できる技術を持った文明が誕生する確率を10^-mとおく。また、その文明が再現した脳のうちの一つが、死ぬ瞬間のあなたの脳の状態とまったく同じである確率を10^-nとおく。すると

宇宙が10^(m+n)個生成されるたびに、あなた(の意識)は復活する。

宇宙無限に生成されるので、∞/10^(m+n)=∞ 回、あなた(の意識)は復活する。

 もちろん、復活した際の環境は様々であろうが、あなたが死んだ時の周りの世界と連続しているように感じるよう配慮された状況で復活する場合も、∞回の中には必ずある。(しかも∞回ある)

 その際あなたは、自分が死んでから何億年、何兆年、あるいは何か別の隔たりを表す多くの単位を経て、自分が生きていたのとはまったく別の宇宙で再び意識を現したことに気付かない。それは、交通事故で意識不明になり、何十年も眠り続けた人が意識を回復した際、自分は事故の翌日に目を醒ましたと感じるようなものだ。自分は今にも死にそうだと思っていたのに、なぜ無事なのだろうと思うだろう。

 ただしあなた以外の人にとっては、あなたは死んだ瞬間からもの言わぬ死体となり、あなたの意識は永遠に失われたように見えるだろう。


 さてこれはどういうことであろうか。どれほど可能性の低い事象であろうと、無限回の試行があれば無限回起こるというなら、あなたが死ぬ瞬間までの記憶が同じでありながら、その後の環境が違うあなたの意識が無限存在するということであろうか。

 さらにこの意識の環境移行は死の瞬間に限らず、いつでも起こりうる。むしろ、あらゆる瞬間においてあらゆる環境移行していることになる。

 その自覚が無いあなたの意識は、たまたま一度も環境移行を経験せずに数十年を過ごした類稀なるあなたの意識なのだろうか。1プランク秒(10^-43秒)毎に意識の環境移行無限の方向へ行われるというのに。

 確率的には、あなたの意識はすでに無数の環境移行を繰り返している公算が高い。世界が30秒前に作られたどころか、あなたの意識が最後に再生されたのが1秒前より古いという可能性も1/∞=0だ。

 これではあなたの意識とはいったい何なのか。脳が死ぬと意識が永久に消滅するどころの話ではない。今意識があると考える事自体、まったくの事実誤認ではないのか。


「意識の本体は脳にある」という考えを採用しつつ、このような状態を否定するには、宇宙が生成される回数<<10^(m+n)である必要がある。しかし本当に、それだけの試行回数でこのパラメータを持ったこの宇宙偶然に生成されるのだろうか。そもそも宇宙の生成回数に限界があると考える根拠もない。

 するとやはり、脳に本体があろうとなかろうと、意識が消滅するという仮定を採用するのは、無謀なのではないだろうか。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/03 20:33ども~。

私の3Dコピーを作成したとします。
全ての原子配列を忠実にコピーしたので、姿形だけでなく、脳や神経のシナプス結合まで含めて、完全に一緒です。
なので、記憶も完全に一緒です。

なので、そのコピーは自分がオリジナルだとしか思えません。

このとき、コピーが殴られても、私は痛くありません。
私が殴られても、コピーは痛くありません。

従って、全てが完全に一致するにもかかわらず、コピーと私は別人です。


別の宇宙に、私と全く同じ原子配列の人間がいたとしても、それは、私のコピーでしかありません。
なぜなら、その人が殴られても、私は痛くないし、私が殴られても、その人は痛くないからです。


なので、私が死んだあと、別の宇宙で、私と全く原子配列が同じ人間がどこかの宇宙に生まれたとしても、それは、私とは、全く関係有りません。


という議論についてはどう思いますか?

IWAKEIWAKE2006/11/03 23:24こんにちは~。

それは、

「2005年の私が殴られても、今の私は痛くありません。
今の私が殴られても、2005年の私は痛くありません。

従って、ある程度の共通する情報は持ちながらも、2005年の私と今の私は別人であり、2005年の私と今の私とは、全く関係有りません。」

というのと同じ主張だと思います。この解釈だと、つまるところ1プランク秒前の私も1プランク秒後の私も今の私とは別人で、私は今この瞬間だけの私を私と認める、ということになります。

従って、その主張をする人は、自己というものを刹那の瞬間だけに限定したものとして定義するしかなく、自己というものと継続や存続等という概念とは関係ないものとなり、結果私が死ぬなどということはあり得ない事になります。

この解釈はこれでアリだと思いますが、通常我々は自己、あるいは私という意識というものを、そのようには捉えず、ある程度の期間連続したものとして捉えています。

そして、自己というものをある程度連続・継続したものとして定義するならば、別の宇宙においてでも、この宇宙の私とある程度以上共通する情報を持つ存在がいるならば、それもまた私だと呼ばなければなりません。

通りすがり通りすがり2006/11/04 03:29グレッグ・イーガンの順列都市?
今の人生でアレでも別世界でリターンマッチ出来そうですねいやっほーぅ!(とか言ってみる)

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/04 08:46どもども、早レスありがとうございます。


>通常我々は自己、あるいは私という意識というものを、そのようには捉えず、ある程度の期間連続したものとして捉えています。


そうですね。
「10年前の自分と、今の自分と、10年後の自分は、どれも自分である」と、たいていの人は「感じ」ていますよね。
「でも、別の宇宙の自分と、自分は、どちらも自分である」と「感じ」る人って、どれくらいいるのでしょうか?
別の宇宙で、自分と同じ原子配列の人が生きているから、自分は死んでも、自分は死んだことにはならない、と感じる人がどれくらいいますかね?

「コピーマシンで、あなたのコピーを作りました。今後はこのコピーが、あなたの代わりに生活しつづけます。なので、あなたは、戦闘機に乗って、敵に体当たりして死んでください。あなたのコピーが生きているのだから、あなたが死んだことにはなりません。安心して死んでください。」
と言われて、神風特攻する戦闘機に安心して乗り込む人もいると思いますが、コピーはあくまでコピーであり、コピーが生き続けても、自分が生きていることにはならないと感じる人も多い、いや、むしろその方が多数派ではないですかね?


要するに、自我同一性の定義は、結局、「どういうケースを同一だと感じるか?」という、フィーリングによってなされる以外にはないのではないか、という疑問。


なぜなら、「1時間後の自分と現在の自分が、別人である」ことを論理的に証明してみせても、1時間後の自分が死んでもかまわないと思う人は少ないでしょうから。


これは、逆も同じで、コピーした自分が、自分と同一人物であることを、論理的に証明して見せても、コピーが生きているから、自分は死んでも死んだことにはならないと思う人は思うでしょうし、そう思わない人はそうは思わないからです。


「自分のコピーが生きていても、自分が生きていることにはならない。」と「感じる」人に対して、「コピーが生きていれば、あなたが生きているのと同じことだから、あなたはそう感じるべきだ」と言ったところで、その人の「感じ方」が変化するのかな?という疑問です。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/04 08:48誤植訂正

修正前:「でも、別の宇宙の自分と、自分は、どちらも自分である」と「感じ」る人って、どれくらいいるのでしょうか?
修正後:でも、「別の宇宙の自分と、自分は、どちらも自分である」と「感じ」る人って、どれくらいいるのでしょうか?

IWAKEIWAKE2006/11/04 12:01>通りすがりさん
そうですね。ただどうせなら、別の人生で幸福になることを期待するより、この人生で「今」幸福になるよう努める事を推奨しますけど(^^

ただし、死んだらすべて終わりだと考えて憂鬱になるよりは、その後にもチャンスはあると考えてリラックスして「今」に取り組めるほうがいいかもしれません。


>fromさん

私も、「結局本人がどう感じるか」が自我同一性のもっとも有用な定義になると思います。

ここで、ほぼすべての人はその思考の特質により、
「同じ時間に「別の場所」に存在する相手は私ではないが、別の時間に存在する誰かは私であってもよい」
と感じる点に注意して、次の例を見てみたいと思います。


神風特攻員「A」のコピー「B」を作ります。そしてBは眠らせておきます。そしてAの頭には、彼が死ぬ瞬間までに得たデータを基地に送る装置を取り付けます。そしてAが特攻して死んだら、それまでの記憶データをBに移植し、Bを目覚めさせます。この場合、Aの主観では、自分が特攻したと思った直後、基地のベッドに横たわっている自分に気付きます。そしてBの肉体の中で目覚めた意識は、「私は違う肉体に入ったのかもしれないが、私は間違いなくAである私である」と感じるでしょう。むしろ彼にとっては、頭に取り付けたのは瞬間移動装置であり、自分が死にそうになると基地にテレポートする機能があるんだよと説明されていても、主観的には何ら矛盾はないでしょう。

さてここで、彼が自分のコピーを自分であると感じた理由は、2人が「同時に」は存在していなかったからです。Aが特攻に行く前にBを目覚めさせ2人が出会ったなら、彼らはこう感じます。「私と酷似した体を持つ他人がいる」と。


このように、「同時に別の場所で活動している対象を自己とは感じない」という性質を踏まえるなら、次のように説明すればどうでしょう。

あなたが死んでも、数億年後の未来にどこかの銀河で、あるいはこの宇宙が消滅した「後」数兆年後に生成されるある宇宙(同時に存在する他の宇宙ではなく、この宇宙の「後」で生まれる宇宙と言うところがポイント。結局それらの宇宙間がどのように「離れている」かなど、正確に描画しようがないのでこの表現も不適切とはいえない)において、あなたは死ぬまでの記憶をすべて保ったまま生き返りますよ。肉体も、死ぬ前に健康だった状態そのままです。それはあなたにとっては、瞬きする間に別の場所に自分が瞬間移動したように感じられます。これは必ず起こりますので、死を恐れる必要はありません。死の瞬間には、ただ周りの環境が変わるだけですよ。

このような説明なら、これを信じる人にとっては、そこで目覚めた人物が自分であるということを感じられるでしょう。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/04 13:57

一点目。
「実際に生きて死ぬ当事者」にとっては、一般的に多くの人がどう感じるかということは、関係ないことのような気がします。
要するに、この問題は、一般論を論じるのは、あまり意味がないような気がします。


二点目。
神風特攻隊員の例だと、もちろん、目覚めた特攻隊員Bは、自分は特攻隊員Aだと思うでしょう。
また、目覚めたBがコピーだという事実を、周囲の人に教えなければ、目覚めたBに接した、周囲の人は、特攻隊員Aだと感じるでしょう。
また、Aの意識は、死んだ瞬間、Bに転送され、Bの肉体の中で目覚めたのだ、と感じる人もいるでしょう。
実際、そう解釈しても、全く矛盾は起きません。

しかし、「BはAの記憶のコピーを持っているから、Aの意識がBの肉体の中に入ったと思いこんでいるけれども、あくまで、それはBという別個の意識がそう思っているにすぎず、Aの意識自体は、特攻隊員Aは死んだとき、消滅してしまったのだ」と感じる人も当然いるわけで、そういう解釈をしたとしても、やはり全く矛盾しません。

論理的には、どちらの解釈も、成立してしまうわけです。
なので、結局、「これらから実際に生きて死ぬ当事者」がどう感じるか、ということでしか、自我同一性の問題はやはり決められず、その当事者が、「このケースでは、Aが死んだとき、Aの意識は消滅してしまったのだ」と感じる限り、当事者にとっては、Aの意識は消滅してしまったのではないでしょうか?

そして、これは、「こういうような当事者にとっては」という修飾なしに、議論することが、本質的にできないような議論なのではないでしょうか?

IWAKEIWAKE2006/11/04 20:08
結局の所その人が、「私はどこまでを私と定義するか」、「私はどの意識までを私の意識と定義するか」によって、「私の意識」が消滅するかどうかの解釈が分かれるということでしょうか。

ここでは自分の意識に関する定義が異なる3人の人物、C,D,Eを用いて、それぞれの主観的な見方で書いてみますね。

「俺の名はC。今から特攻する。俺が死ぬ瞬間に俺の意識はBと呼ばれている体に転送してもらえるらしい。(ドーン!)おや?ここは基地のベッドじゃないか。どうやら予定通りBの体に移れたようだな。死ななくてよかったぜ」


「俺の名はD。今から特攻する。俺が死ぬ瞬間に俺の意識はBと呼ばれている体に転送してもらえるらしい。まーそうは言っても体が変われば別の意識になる訳だし、俺の意識が死ぬことには変わりないな。(ドーン!)おや?ここは基地のベッドじゃないか。しかしDは死んだはずで、俺はもうBの脳が作っている別な意識な訳だな。俺はDが持っていたすべてを持っているが、Dは死んでしまったんだなぁ、、、」

このDについて、別な状況で考えます。Dは、人間の体を構成する原子が7年ですっかり全部入れ替わってしまうことを知っています。

「俺の名はD。お、信号が青になったから渡るか。うお、信号無視でトラックがつっこんできやがった!(ドーン!)・・・おや、ここは病院のベッドじゃないか。1日くらい気絶してたのかな。え!?事故からもう15年も経ってるだって!?するともうDの脳を構成した原子は散り散りになっちまって、どこにもDの脳は無いってことだ。つまり、Dの意識は死んでしまったってわけか、、、。俺は今自分がDだと思っていたが、もうDの肉体は存在せず、漸次Dの肉体と入れ替わってできたこの新たな肉体の脳によって作られた、別の意識なんだなぁ」

次がEです。

「俺の名はE。俺はまったく同じ原子によって構成される脳に作られた意識しか、同一だとは認めない。脳を構成する原子は毎瞬入れ替わっているので、俺の意識はたった今生まれてすぐに死ぬ。そしてその後には、わずかばかり違う原子によって構成された脳に作られた意識が、また一瞬だけこの体を使うだろう。その意識は俺の意識とよく似ているだろうが、別物だ。そして俺の名はEかもしれないが、最初に名乗ったEとはもう別人だ。」


このように自己の意識に関する定義によって、当人にとって意識が消滅したかどうかは変わります。そしておそらく、ほとんどの人はCと同じ感性を持っているでしょう。自分の意識が、どのような脳によって作られているのかをそれほど神経質には捉えていないはずです。そう考えてエントリは書きました。Cの感性が一番自然な気はしますが、Eであってもいいと思います。ただDに関しては、ダブルスタンダードのような不自然さを感じます。Dは、いったいどの程度の比率まで脳を構成する原子が同じなら、その脳によって作られた意識を自分の意識だと認めるつもりなのでしょう。

ここを良く考えていくと、DもまたCのように考えるようになっていくのではないでしょうか。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/04 22:12なんか、思ったんですけど、
「肉体とは別に、意識というものが存在する」
ということを前提に話が進んでいませんか?
つまり、意識が、単なる脳神経ネットワークの神経伝達物質とシナプスの電気的・分子的活動の結果ではなく、それらによっては説明できない、物質を超越したなにかである、という前提で話をしてませんか?
もし、活動するニューロンの束が、活動するニューロンの束自身のことを、「意識」と認識しているだけなら、特攻隊員Aの意識が、Bに転送されるなんて、そもそもありえないと思うんですけど。
寝る時間なので、詳しくは、というか、続きは、明日の朝、また。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/05 06:38

要するに、現実主義者と神秘主義者の違いなのではないかと。

たとえば、機械が故障したとき、
「邪悪な霊が機械に入り込んだからだ」
と考える人と、
「部品のどれかが壊れたからだ」
と考える人の違い。

そして、現実主義者は、
「意識とは、脳の分子的・電子的活動の組み合わせ状態のことである」
と思っています。

これに対して、神秘主義者は、
「意識とは、脳の分子的・電子的活動では説明できない、超自然的なもの(魂とか霊みたいなもの)」
と思っています。

現実主義者の言い分は、こうです。
たとえば、
●ご飯を食べる前と後では、意識の状態が違う。
これは、血糖値の上昇が脳の物理化学的な活動を変化させたからだろう。
ということは、意識とは、物理化学的なものによって変化するようなものだ。
だから、意識とは脳の物理化学的な活動のことだろう。

●ゆったりした幸せな気分(意識)のときと、苦痛を味わっているときでは、違う脳波分布になる。
ということは、意識の活動は、脳波測定器という、物理化学的な装置によってある程度計測されるようなものだ。

●事故で脳の前頭葉の一部に傷をおった人は、性格ががらりと変わってしまった。
これは、脳の物理的構造と、意識の構造が対応関係にあるからだろう。

●鬱病やパニック障害になったら、その人の霊や魂が傷ついたと考えて、霊媒師のところへ行くより、鬱病やパニック障害は、単に脳の物理的状態が病的になったと考え、脳の分子的なメカニズムを調整するような、鬱病の薬を処方してもらった方が、実際にはよくなることが多いよな。

そして、この手の経験的事実から、
「わざわざ、霊とか魂とかを持ち出さなくても、意識の動きは、物質だけから十分説明できるし、そういう説明の方が自然だよな。」
「むしろ、霊や魂のような、超自然的なものだと考えると、霊感商法の詐欺に引っかかって酷い目にあうよな。」
と考えるわけです。

それが、現実主義者の生活実感なわけです。
これは、科学信仰とは別のもので、単に、生活の中の現実的なものごとを処理していくうちに身についた感覚です。
これはもちろん、多数決の問題ではありませんが、ぼくの周りに聞いて回ったところ、科学の知識がかなりあやふやな人の中にも、「脳が破壊されたら、意識は消滅する」という実感を持っている人は多いようです。


そして、現実主義者は、脳の活動のことを「意識」という言葉で呼んでいるだけなので、一つの脳に一つの意識があり、脳が2つあったら、2つ意識があると考えます。

そして、Aの脳から意識が抜け出して、Bの脳に入り込む、などということはありえないと考えます。
なぜなら、意識とは、脳の物理的活動状態のことなので、脳とは独立して意識というモノが存在すると思っているわけではないからですl。

そして、AとBは、脳が別ですから、当然、Aの脳が破壊されたときに、Aの意識は永遠に消滅したと考えます。
なぜなら、意識とは脳の物理的活動状態の呼称のことですから、Aの脳の物理的構造が失われれば、それが活動することは、永遠にありえないのです。

また、いったん、Aの脳が破壊されて物理的構造が失われたあと、1兆年後に、別の宇宙で、Aの脳と同じ構造の脳Xが偶然できたとしても、それは単に、Aの脳の構造と同じ別の脳が生まれただけであって、Aの脳とは、直接なんの関係もない話だと考えます。

現実主義者にとっての、自我同一性とは、脳の物理的構造の連続性なのですから、いったん構造が破壊されて、あとから、それと同じ構造がたまたまできたとしても、それは、同一(identical)なものではない、と感じるのです。

もちろん、現実主義者にとっても、愛も人生も価値があるものだということは、何も変わりません。
http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060720/1153355972


一方で、神秘主義者は、事物の説明に、幽霊、魂、神、未知の宇宙意識の介入、運命、を用いることを気軽に受け入れますから、彼らにとって、意識や自我同一性の問題は、極めてシンプルです。

物理現象とは関係なく、死んだら天国やあの世へ行く、別の生き物に生まれ変わる、高次の宇宙意識になる、などと素直に考えます。
神秘主義者にとっては、ややこしい自我同一性の議論など、必要ないのです。


そして、もちろん、これは多数決の問題ではありませんが、とくに現代の先進国においては、神秘主義者が圧倒的多数派というわけでもないと思います。
ボクの実感値としては、現実主義者も、かなりの数がいると思います。

IWAKEIWAKE2006/11/05 19:25まず明確にしておきたい点は、このエントリとそれに関するコメントでは、私は常に現実主義者としての観点で考え、神秘主義的観点やその是非については触れないつもりでいます。しかし、formさんにそういった誤解を与えるような書き方になってしまい申し訳ありません。おそらく、Aの最後の意識とBの最初の意識が繋がっているかのような書き方が問題だったのでしょう。私の設定では、A~Eは全員現実主義者です。Aの意識をBに転送するというのは、「Bが目覚めた際には主観的にはまるでAの意識がここに転送されたかのように感じられるよう、同じ時刻に同じ状態の脳が複数存在したりしないよう注意しつつ、Aの最後の記憶までを正確にBの脳に再現するような処置をBの脳に対して施す」という意味です。そしてBの中で目覚めた意識が、主観的には自分はAと繋がっているように感じるという状況のなかで、それをどう解釈するだろうかということを説明したかったのですが。


そして私が問題としたのは

「私の体は明日火葬されるとして、今の自分の脳とまったく同じ脳神経ネットワークの神経伝達物質とシナプスの電気的・分子的活動を持つ脳が、今の私の脳を構成する原子を用いずに10年後に存在しても、その脳によって作られる意識は私ではない。」

と考えている人が、

「今の自分の脳と若干異なる脳神経ネットワークの神経伝達物質とシナプスの電気的・分子的活動を持つ脳が、今の私の脳を構成する原子を用いずに10年後存在するなら、その脳によって作られる意識は私である。(10年後の私の脳によって作られる意識もまた私である)」

とも考えている点です。

何かおかしいと思いませんか?
意識は脳だけに依拠しているんですよね。それならば、10年後に存在する脳の状態だけによってその脳によって作られる意識が誰であるかが決まるはずなのに、彼は1日後にある人物の体が火葬されるかどうかによって、10年後に存在する脳によって作られる意識が誰であるか変わると考えているんですよ?

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/05 21:18

そうなんですよね。
ちょっとひっかかるところなんですよ、そこ。
なので、ボクも昔、その問題について、考えてみたことがあります。

そのとき、最初に思い浮かぶ、意識の同一性の根拠は、次の2つが考えられるわけです。
(1)脳を構成する物質が同一であること。
(2)脳のニューラルネットワークの微細構造が同一であること。

そして、このうち、(1)は、人間の体を構成する物質は、どんどん入れ替わるので、根拠にならない。
また、(2)は、原子配列が全く同じコピー人間を作った場合、そのコピー人間はオリジナルと同一人物ということになってしまうけど、実際には、コピーが殴られても、オリジナルは痛くもなんともない。

なので、この2つのどちらも、同一性の実感と合わないぞ。変だぞ、と。

で、そのとき思いついた3つめの同一性の根拠が、
(3)「オリンピックの聖火」の同一性
なんです。

たとえば、蝋燭の炎って、それこそ、秒単位で、炎を構成する全分子が入れ替わってますよね。
でも、蝋燭の炎を見て、人は、「ここに、蝋燭の炎が「ある」な」と、思うわけです。

人間の体も同じで、新陳代謝によって、どんどん物質が入れ替わりながらも、ある程度一定の形を保ち続けますよね。
つまり、どんどん物質が入れ替わりながら燃えさかる炎のような「動的な状態」が「意識」であると。

そして、オリンピックの聖火リレーのときに、彼らが聖火の同一性をどのように扱っているか、というのを観察すれば、この3つめの同一性の感覚がよくわかると思うんですよね。

聖火リレーの途中で、絶対に火が消えてはいけない。
いったん消えた火を、ライターでつけなおしたりしたら、それは、元の聖火台で着火された聖なる火ではなくなってしまうんですよね。
途中で、一度でも消えたら、同一性は失われてしまうと。
ライターでつけなおした炎の形が、消える前と、形状や構造が同じであっても、それは別の火であり、オリジナルの聖火ではないんですよね。

人間の自我同一性の感覚って、この、(3)の同一性に近いのではないかという気がしました。


なので、
「10年後に存在する脳の状態だけによってその脳によって作られる意識が誰であるかが決まる」とは、感じないと思うんですよ。
なぜなら、それは、(2)の微細構造の同一性はある程度満たすかもしれないけど、(3)の聖火の同一性を満たさないから。
現実主義者は、(2)の同一性もある程度は重要だと考えるでしょうけど、(3)の聖火の同一性は、それとは比較にならないほど決定的に重要だと感じているのではないでしょうか?

ぶっちゃけ、(3)の聖火の同一性さえ保たれていれば、性格ががらりと変わってしまい、記憶も全部入れ替わってしまうとしても、自分の自我同一性は保たれていると考えるんじゃないですか?

なので、「1日後にある人物の体が火葬されるかどうか」というのは、(3)の聖火の同一性が失われるということで、決定的に異なる事態だと認識するのではないかと。


あと、蛇足ですが、細かいことを言うと、人間の体は炎と異なる部分もあります。
人間の細胞には、物質がどんどん入れ替わる細胞と、物質的にもかなり固定されている細胞の2種類がある、という点ですね。

つまり、皮膚細胞のように、どんどん入れ替わる細胞と、脳細胞のように、入れ替わらずに、何十年も生き続ける細胞があるわけです。

もちろん、脳の神経細胞も、物質的な代謝はします。電気信号を発生させなきゃならないし、イオン濃度を変化させなきゃならないし、神経伝達物質も生産しなきゃならない。

しかし、ニューロンのネットワークを司るタンパク質やコレステロールの構造の部分の分子は、どれだけ入れ替わっているのかは、よく分かってません。もしかしたら、あまり入れ替わってないのかも知れません。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/05 21:23ちなみに、コールドスリープをした場合、(3)の聖火の同一性が保たれないんじゃないか、という不安がびみょーにあったりするのですが、よくよく考えてみると、燃えさかる炎の動的な状態のスナップショットに相当するものが、人間の場合、動的に変化し続けるニューロンのシナプス結合ネットワークに相当するから、冷凍して解凍しても、短期記憶ぐらいは失われるかも知れないけど、それは、パソコンのサスペンドとレジュームに相当するようなもので、聖火の同一性は保たれるのではないか、と思いました。

IWAKEIWAKE2006/11/05 23:20
なるほど、聖火の同一性ですか。それは私にとって新しい考えです。第一印象では、その主張は感覚的過ぎて現実主義者として失格だ、とも感じたのですが、そこから何か新しい視点が出てきそうな感じもするので、今からじっくり考えてみます。気になる点は、2つ以上に火を分けたらどうなのかと(受精卵時点でコピーを複数作り、オリジナルを殺し、コピー同士をまったく同じ脳になるようコントロールしつつ発生させていった場合)と、途中でランナーがライターを持って密室に入り、しばらくしてから密室から出てきた場合(特攻の例では、事前にも事後にも当人には嘘の説明をした場合)ですかね。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/06 07:44
何点かあります。

一点目。

> その主張は感覚的過ぎて現実主義者として失格だ、とも感じた

同一性の根拠は、すべて感覚ですよね。
(1)~(3)の同一性は、どれも、単なる感覚以外のなにものでもない、という点は共通しています。

もっと正確に言うと、それは、
「自分の自我同一性を問題にしている当事者の、問題にしている時点から未来への自分の感覚」
です。

要点を整理すると、

(X)自分の感覚
当事者でもない他人の感覚がどうであるかなんて、関係ない。
生きて死ぬ当事者である、自分がどう感じるか、ということが問題。

(Y)自分の自我同一性
他人の自我同一性について、自分がどう感じるかというのは、問題ではない。
他人が自分の自我同一性についてどう感じるかも問題ではない。
自分の自我同一性が、自分にとってどうであるかが、問題なのです。

(Z)自我同一性を問題にしている時点からはじまる未来へ向けての自我同一性
過去の自分の自我同一性は、問題ではないのです。
問題なのは、現在の自分の自我同一性なのです。
過去の自分が、AとBの二つに分裂して、Aが自分である場合、
自分が死んでも、Bが残るから問題ない、とは、Aは思いません。
なぜなら、それは、過去の自分の意識は、Bの中に残るかもしれませんが、
現に今、こうして存在する当事者であるAの意識は消滅してしまうからです。
分裂する前の過去の自分にとっては、問題のないことが、Aにとっては
問題となるのです。
つまり、過去の自分を当事者とした場合の自我同一性と、
現在の自分を当事者とした場合の自我同一性は、別物なのです。


となります。


二点目。(3)聖火の同一性の感覚を持つ人は、ときどき見かけます。
たとえば、以下のid:kusigahama氏ブクマコメントがその例です。

# 2006年10月31日 kusigahama <略>「単にコピーが生きているだけの話で~」 少しずつ置き換えてけば自我の連続を保てないかな。

これは、以下の記事についたブクマコメントです。
http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061030/1162173135

彼らの聖火の同一性の感覚とは、具体的イメージとしては、記憶や脳細胞を少しずつ置き換えていったときに保たれる同一性の感覚です。

たとえば、200年後に細胞の不老化技術が完成し、それによってある人が、若いまま、10万年生きたとします。
そして、1万年も生きれば、脳細胞が記憶できる容量がいっぱいになってしまうかもしれません。
そうすると、脳にこれ以上記憶するスペースがないわけです。
そこで、それ以降は、記憶を上書きしていったとします。
そして、10万年後に、最初の一万年の記憶が100%上書きされて消えてしまったとします。
つまり、脳の微細構造のレベルだと、ニューロンの結合パターンの構造がまったく異なる人間になってしまったわけで、(2)の同一性は、完全になくなっているわけです。

そういう状態でも、「自分は生き続けているのだ」と感じる人たちがいて、その人たちの自我同一性の感覚が、(3)の聖火リレーの同一性の感覚なのではないかと。

また、よくあるのが、脳に量子コンピュータを埋め込んで、それをニューロンと密結合させるパターン。
長い年月の間に、脳のニューロンと、情報経路が緻密に絡み合い、完全に量子コンピュータと一体化し、一つの統一した意識になったとします。
そのあと、少しずつ、ニューロンが死滅していき、最後に、量子コンピュータの部分だけが残ったとします。
この場合、その量子コンピュータは、自分の意識であり、自我同一性は保たれていると考えます。
これが、聖火の同一性です。


3点目。

同一性とは、「どの当事者の、どの時点での」という、主体と時点の修飾をしないと、意味をなしません。
そして、その当事者が、「自分の意識が消滅するのかどうか」を問題にしているその時点が、聖火の発火時点です。
過去の自分の自我同一性が問題なのではなく、現在の自分の未来への自我同一性が問題なのです。

なので、

> 受精卵時点でコピーを複数作り、オリジナルを殺し、コピー同士をまったく同じ脳になるようコントロールしつつ発生させていった場合

この場合、当事者はだれなのか、というのが問題です。
まず、受精卵自身を、当事者と考えるのは、自我同一性の問題の例として適当ではないと思います。
なぜなら、受精卵自身は、自分の意識が将来消滅してしまうのではないかと悩んだりはしないからです。
あるいは、悩んでいるのかもしれませんが、それは外から見ていても分かりません。

また、コピーのうち一つを実際に生きて死ぬ当事者とした場合、受精卵は、過去の自分でしかなく、他のコピーやオリジナルの生存は、過去の自分である受精卵の自我同一性には関係合っても、当事者であるそのコピー自身の自我同一性とは関係有りません。
他のコピーが生きていても、過去の自分の自我同一性が保たれるだけであって、当事者である現在の自分の自我同一性が保たれないからです。

つまり、聖火の自我同一性においては、「聖火の発火時点はどこなのか?」が問題なわけで、自我同一性の原則からすると、当然、「自分の意識が将来消滅してしまうのではないか」と考えている当事者の、考えているその時点が、聖火の発火時点なのです。
なので、受精卵は、発火時点ではないのです。

どうでしょうか。

IWAKEIWAKE2006/11/06 22:44言葉足らずで申し訳ありませんでした。今後はもっと意図が明確に特定出来るように書くよう注意します。


1. 受精卵時点でのコピーの例で私が意図した状況は次の通りです。

 オリジナルの受精卵を破棄するのは、それ以降オリジナルについては考えない為です。そして、そこから作ったコピーG、Hについて考えます。GとHはまったく同じタイミングで作られ、その後彼らについては、その細胞を構成する素粒子の振る舞いまで完璧に同じになるようコントロールしつつ制御していきます。そしてある程度脳が形成されたら、脳以外はとりはずし、その脳にバーチャルリアリティーを見せていきます(これからの思考実験を簡単にするためです)。もちろん脳にたいする栄養供給等の点も完璧です。さて、GとHの脳は、素粒子に至るまでその挙動が制御されていますので、まったく同じ仮想世界で(ただし彼らにとっては現実に感じる世界で)、まったく同じ体験をし、まったく同じ事を思考します。そして、仮想世界で彼らが大人になったとき、彼らに同時に、彼らには受精卵時点からまったく同じ体験をしているもう1人のコピーがいる事を告げ、なおかつその日の夜彼らが寝ている間に彼らのうちいずれかが消される予定だとも告げられます。

というような形で、実際にすべての体験をまったく同じようにしてきている意識が残るならどうなのかと考えた訳です。例えばfromさんがGだっとして、「自分の意識が将来消滅してしまうのではないか」と考えた場合、それとすべての点で同じに、「自分の意識が将来消滅してしまうのではないか」と考える意識がHにあり、なおかつ彼はGが消える瞬間までの体験もすべて経験します。


2.記憶や脳細胞を少しずつ置き換えていったときに保たれる同一性の感覚について。

これについての疑問は、いったい「どの程度」少しずつなら同一性が保たれるのかという点です。脳とバイオチップの置き換えで考えます。まず、脳の全機能をコピーしたチップを作ります。それで、チップを頭に入れ、神経系等とも直結させます。そして、脳のある機能(例えば記憶の1%とか)を壊すと同時にチップのその機能をオンにします。この場合、脳の総機能を100%として、毎秒何%の移行ペースなら自分が「死なない」というのでしょう。おそらく、1フェムト秒ごとに10%では、死んだと「感じる」のでしょう。そして1年に10%では、死なないと「感じる」のでしょう。その中間のどこかに、おおよそこのくらいのペースという線があるとしても、それってあまりにも曖昧すぎやしませんか?自分が死ぬか死なないかですよ?どうも私には、一度に100%でも死んでないと主張するか、100年かけるペースであろうと最初の1ビットでも移行したらそれは自分じゃないと主張するか、そのどちらか以外の主張をする人は自分に対して(現実主義者を自認するなら)ごまかしがあるような気がします。


3.同一性の感覚について

現実主義と言う言葉を、私はfromさんと違う意味で使ってしまい、そのために誤解があるかもしれませんけど、その場合はご指摘下さい。

自我同一性の根拠(1)、(2)、(3)において、(1)、(2)は現実主義ですが、(3)はむしろ神秘主義でしょう。

>(1)~(3)の同一性は、どれも、単なる感覚以外のなにものでもない

とありますが、感覚は(3)だけです。

誰も、
「ああ、今の自分の脳を構成する物質は、昨日の自分の脳を構成する物質と同じだなぁ」
等とは「感じ」ませんし、
「ああ、今の自分の脳のニューラルネットワークの微細構造は、昨日の自分の脳のニューラルネットワークの微細構造と同じだなぁ」
等とは「感じ」ません。
ただ論理的科学的に考えていくとそうであるはずだと「考える」だけです。そしてそれらは外部からの観察でもそうであることが確認できる物質情報であり、現実主義者はそういった物理的証拠を「根拠」とします。

それに引き替え(3)は正に、ただ自分がそう「感じる」だけです。

「私には風が私をどこかに導いているように「感じ」られる。そしてそこに智恵や優しさを「感じ」るから、私には風の精霊が私を導いて下さっているように「感じ」られる」

「私は聖火の炎を構成する物質が毎瞬変化している事を知っているが、それでもその炎が最初に点火したときと同一のものだと「感じる」」

このように、(3)は原初の自然崇拝と同じレベルでの「信仰」です。(ひとつ言っておきたいのですが、私はこの(3)を、大変好意と親しみを持って見ています)

ですから、現実主義者としては、(3)は根拠として認めるわけにはいきません。

次の例を見て下さい。

「我々夫婦は、人工授精で子供を産んだ。しかし私はこの子を自分の子だとは認めない。もちろん、法的、あるいは遺伝情報的には本当の自分の子と同じものを持っていることは認める。しかしこの子は私の本当の子では無い。なぜなら、生物は雌雄に別れて以来数億年をかけて自然交接によって子を為してきたのに、この子はその方法によらず生まれた為だ。尚、もはや私には生殖能力は無い。よって、遠い祖先から遙かなる時を超えて営々と続いてきたいのちは私の代で死に、永久に途絶えてしまうのだ。誰がなんと言おうと、私にはそう「感じ」られるのだ」
(この人が言っているいのちは自分の直系子孫についてです)

このような主張があってもいいとは思いますが、この主張が現実主義者のものだとは思いません。現実主義者は、その子は間違いなく彼の本当の子であるし、代理出産だろうと彼の本当の子であるし、その子のクローンを作ったとしても、そのクローンは彼の子だと主張するでしょう。現在の物質的状況に至る過程にはよらず、現在の物質的状況のみを現実主義者は判断します。
よって聖火の同一性は神秘主義者の主張です。


4.特攻時の嘘の説明の例

これは次の条件を考えていました。

特攻隊員AのコピーBを作ります。Bを作ったことをAに教えません。基地には次の二つの装置があります。

(ア)死ぬ瞬間までの記憶を基地に転送し、コピー人体の脳に移植する装置
(イ)基地までの自律飛行機能及び完全防御機能付き脱出ポッド

どちらの装置もAには作動しているかどうか知ることが出来ません。Aは特攻する1分前に麻酔で眠らされ、その後戦闘機はオート飛行で特攻します。

さて、上官はAに次のいずれかの説明が出来ます。

一「実はおまえのコピーBがもういるんだ。おまえが特攻しても(ア)を使ってやるから安心しろ」
二「特攻10秒前に(イ)が作動するから安心しろ」

そして記憶を移植されたB、あるいはポッドで眠りながら帰還したAにも目が覚めたとき次のいずれかの説明ができます。

三「(ア)を使ったんだが、うまくいってよかったよ」
四「(イ)を使ったんだが、うまくいってよかったよ」


ここで、聖火の同一性を根拠とする人にとっての問題は、AあるいはBが、自分が死んだと感じるかどうかは、上官がどちらの装置を使ったかではなく、どちらの説明をするのかに依存するという点です。

だれがなんと言おうと自分がどう「感じるか」だけで自分の生死が決まるはずなのに、ここでは上官がなんと「言うか」だけで自分の生死が決まってしまいます。

要はこんなにいいかげんで弱い根拠で、「私は誰なのか」を決めてはいけないんじゃないのかということです。仮に上官の言葉を疑う性格だったとしても、「私は誰なのか」が分からないということになってしまいますから。現実主義者はこんなに弱い根拠を自己の拠り所とはしないでしょう。


5.私の主張と気持ち

結局全体としては何が言いたいのかをまとめて書きますね。


生粋の現実主義者だったら、エントリ本文で書いた説明を読んで、自分が不死だと感じなさいっ!

エントリ本文が自分の実感と合わない人にとっては、意識が脳だけで作られるという現実主義の考えはあなたの世界を十分に上手くは説明出来てませんっ!

それならもっとよく世界を説明出来るかもしれない神秘主義的考えを真剣に検討する価値あるんじゃないのっ?

普通の自称現実主義者は無邪気にも(1)と(2)を信じていそうなのに、(3)の感覚を言語化出来る程に詳しく探るとは凄いですな。

でも聖火の同一性は神秘主義的です!

現実主義的考えと矛盾せずにそれを包括できる様な神秘主義的考えがあると考えてますよ~。


こんな感じですね。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/07 14:19
まず、そもそも、ここで問題となっているのは、「当事者にとって、自分の意識が消滅するかどうか」です。
なので、この問題は、必然的に、ある物理的現象の「想定」を、当事者の主観が、どのように「意味づけるか」という問題になります。
なぜ「想定」なのかというと、当事者は、「自分の意識の消滅そのもの」を「感じる」ことが、原理的に不可能だからです。なぜなら、感じるための主体が存在しなくなってしまうからです。

たとえば、爆弾などで「自分の脳が粉砕される」ことを、「感じる」ことなど、だれもできません。
それを「感じる」べき脳が破壊されてしまうからです。

だから、問題の論点は、当事者が、「自分の脳が、ある物理状態になった場合」を「想定」したとき、その状態を、意識の消滅と「みなす」かどうかという問題です。

この「みなす」という言葉で言っているのは、当事者の「主観」が、「それをどのように認識し、どのように意味づけるか」、ということです。そのことを、「感じる」、「考える」、「認識する」などの別の言葉に置き換えても、言っていることは、本質的に違いはありません。

意識というのは、ある物理的状態、もしくは、物理的状態の変化プロセスの「意味づけ」であり、それ以上でも、それ以下でもありません。

そして、この場合、当事者が、自分の脳の未来における物理的状態を「想定」したとき、その物理的状態をもって、「意識が消滅した」と「認識」するかどうか、が論点なわけです。

なので、
>>
「ああ、今の自分の脳を構成する物質は、昨日の自分の脳を構成する物質と同じだなぁ」
等とは「感じ」ませんし、
<<
というのは、論点ではないです。

これを言うなら、「自分の脳を構成する物質を、全て入れ替えたとしたら、それは、やはり自分が生き残っていると言えるのだろうか?」という「想定」をしたときに、その「想定」を、当事者自身が、どのように、解釈し、意味づけ、考え、感じるか、ということがまさに論点なのです。

もし、自分の脳を構成する物質がすべて入れ替わったとき、別人になってしまったとしても、当事者は、そのこと自体を直接感じることはできません。事前にしろ、事後にしろ、それが「これから起こる」or「起こってしまった」と認識し、それを、「意識の消滅が起こる/起こった」と「認識/解釈/意味づけ」するだけです。

つまり、「意識の消滅」という物理現象が存在するわけではないのです。
「意識の消滅」というのは、物理現象の「主観的な解釈/意味づけ」でしかないのです。

だから、
>>
「ああ、今の自分の脳のニューラルネットワークの微細構造は、昨日の自分の脳のニューラルネットワークの微細構造と同じだなぁ」
<<
も同じはなしで、その物理現象を直接「感じる」かどうかは、論点ではなく、その物理現象が発生する/したことを「想定/予測/認識」したときに、その物理現象を「意識の消滅が起こる/起こった」と解釈/意味づけするかどうか、が問題なのです。

そして、物理現象自体は、「論理的科学的に考えていくとそうなるはずだ」と「想定/理解/認識/考え」るようなものですが、その物理現象を、いくら論理科学的にこねくりまわしても、その物理現象の「主観による意味づけ」である、「意識の消滅が起こる/起こった」にはならないのです。

なので、「外部からの観察でもそうであることが確認できる物質情報」から行えるのは、「物理的状態の認識」までであって、「当事者の主観による意味づけ」である「意識が消滅するかどうか」、すなわち、「自我同一性」が保たれているかどうか、とうのは、論理科学的な推論や、外部から確認できる物質情報からは、できないのです。

そして、この意味において、3つの自我同一性は、どれも
>>
「起こりうる/起こった物理的状態の論理科学的な認識」→「認識した物理的状態の、当事者の主観による意味づけ」
<<
という、同じ構造をしています。

(1)脳を構成する物質が入れ替わった(物理的状態の認識)
→ これは、別人になったということだ。(物理的状態の、主観による意味づけ)

(2)脳の微細構造がすっかり変わってしまった(物理的状態の認識)
→ これは、別人になったということだ。(物理的状態の、主観による意味づけ)

(3)脳の物理状態が動的に変化し続けるプロセスが、脳の物理的破壊により、いったん途中で1回途切れた(物理的状態の認識)
→ これは、別人になったということだ。(物理的状態の、主観による意味づけ)


ここで、(3)が、他の二つに比べて異なるのは、対象となる物理的な状態が、「動的に変化するプロセス」であるため、時間軸方向への広がりを持ち、やや複雑だというだけです。ただ、これは、複雑なだけであって、最初の2つの自我同一性と同程度の厳密さで、物理的に定義できるものです。


この意味で、(1)~(3)の自我同一性は、どれも同じ構造だと思うのですが、それについては、どう思いますか?

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/07 14:42

わたしの気持ち、
というか、議論しながら、裏で考えていること。


自分自身、「意識の消滅」という言葉で呼んでいるものの正体を、十分な程度に、精密に理解しているような気がしない。
いまいち、詰めが甘いところがある気がする。
なので、これについて、もうすこし、掘り下げて議論をしてみたい。

が、議論に夢中になるあまり、相手の感情を損ねないように、十分に気をつけなければならない。

自分の意見を主張したいわけでも、意見を相手に認めさせたいわけでもなく、とりあえず、いま、この瞬間、そう思った、というだけのアイデアを、とことん相手にぶつけてみたい。
というか、そもそも、現時点では、ぼくは、これについて、信念といえるようなものは、何ももっていない。
この議論の結果、どのような結論になるかは、議論をしてみないと分からない。
ただ、ウソやゴマカシは、いやだなぁ。
なんか、あいまいだな、と思うところは、あいまいさが無くなるまで、徹底的に追い詰めたい。
が、それをすると、感情的もつれがおきることがあるので、十分に注意しなければならない。

議論をするときに、感情がこじれるパターンでありがちなのが、結果として、相手の意見を全面否定してしまうような形になるようなケースだ。
でも、気の済むまで、自分が思ったことを、あいてにぶつけると、結果として、そうなりがちなのも事実だ。

このバランスとりが、非常に難しい。
さて、うまく議論をすすめられるかどうか。心配だ。

IWAKEIWAKE2006/11/07 23:35論点を整理して下さってありがとうございます。

私も話を進める際、どの程度付随的な事柄に触れるのが互いの理解の共有に最適なのかのバランスが難しいと感じています。今後はもう少し、核となる点にコミットし、又、暗に反語的な意味合いを含ませるような表現も無くすよう努めます。



ところでたった今やっと聖火の同一性の意味が(たぶん)分かりました。

私が考えた例は、複数台のPCで構成されるオンラインゲームのサーバーですね。で、そこで構築される仮想世界が意識だと。一台のPCが脳細胞の一つですね。サーバを構成するPCの一台を、サーバをダウンさせずに切り離し、別のPCを接続するのが、脳の構成物質の変遷ですね。で、サーバデータをコピーして、別のPC群で同じデータの仮想世界を構築しても、それはオリジナルとは別物だと。そして、サーバが一度でもダウンしたら、その後再起動してもそれは以前の仮想世界とは別の世界だと。

この理解で合っているとして、聖火の同一性に問題があるかどうかは、今日はもう限界に眠いので、明日じっくり考えてきます。でもこの定義なら、意識が消滅し得る気もしてきましたよ。

IWAKEIWAKE2006/11/08 00:27この例を

私が考えた例は、複数台のマシンで構成される自我を持ったシステムですね(2001年宇宙の旅のHALやターミネーターのスカイネットのような)。それと人間の意識が対応すると。一台のマシンが脳細胞の一つですね。システムを構成するマシンの一台を、システムをダウンさせずに切り離し、別のマシンを接続するのが、脳の構成物質の変遷ですね。で、システムの全データをコピーして、別のマシン群で同じデータのシステムを構築しても、それはオリジナルとは別物だと。そして、システムが一度でもダウンしたら、その後再起動してもそれは以前のシステムとは別のものだと。


こう置き換えると、意識が消滅しない気がしてきました。

私の中に矛盾や思い込みがありそうですよ。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/08 05:12
「複数台のマシンで構成される自我を持ったシステム」というのは、形態はネットワーク上なので、似ているような気もしますが、本質的に異なるシステムだと思います。むしろ、ミスリーディングだと思います。

まず、人間の脳の場合、記憶は、細胞間のシナプス結合パターンによって保存されますが、サーバの場合、記憶は、ハードディスクに保存されます。
サーバ同士のトポロジカルな結合パターン自体が、記憶の保存を行っているわけではありません。

サーバは、一台でも、記憶はできます。ハードディスクがついてますから。

しかし、脳細胞の場合、一個の細胞では、記憶をすることはできません。
複数の細胞のシナプス結合パターンによって、記憶を実装しているからです。

なので、このアナロジーは、あまりうまくいかないと思います。

そもそも、サーバの場合、システムダウンして、再起動しても、記憶の本体は、ハードディスク上にあるので、同一性は損なわれないですよね。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/08 06:08
あと、ぼくが問題としているのは、「自分の意識が消滅するかどうか」であって、「他人の意識が消滅するかどうか」ではありません。
当事者でもない人間が、それをどう意味づけるか、というのは、ぜんぜん別の議論です。

物理的状態の認識は、客観的に行うことに意味がありますが、その物理的状態をどう意味づけるかは、意味づける主体を限定しないと、意味がぜんぜん別物になってしまうのです。

そして、「複数台のマシンで構成される自我を持ったシステム」の意識が消滅するかどうかを、当事者でもない人間がどう思うかは、ぜんぜん別問題です。

当事者である「複数台のマシンで構成される自我を持ったシステム」自身が、ある物理的状態をどう意味づけるかが問題とされるのですが、それを、人間が感覚的に想像しようとしても、無用な混乱を招くだけじゃないですか?

あくまで、客観的に認識すべき物理現象と、主観でしか認識できない、「物理状態の意味づけ」フェーズである、「意識の消滅」は、明確に区別して議論しないといけません。

そして、「物理的状態の主観による意味づけ」は、「どの主観が行うのか」によって、ぜんぜん別のことになります。

そして、ここでは、意味づけの主体が、当事者である場合を話しているのです。

fromdusktildawnfromdusktildawn2006/11/08 06:13
この話は、客観部分と主観部分を明確に分離しないと、すぐに議論が混乱します。

客観的には証明も反証も不可能な、「意識の消滅」の問題を、客観だけで行おうとしても、話が混乱してしまうのではないでしょうか?

「意識の存在」を、物理的に観測可能な機器は、存在しません。
なぜなら、意識は、物理状態ではないからです。
それは、「物理的状態の、主観による意味づけ」だからです。

IWAKEIWAKE2006/11/08 22:04なぜか長文コメントが書き込めないので、とりあえず次の日のコメント欄に書きますね。(コメントの総容量が決まってるんでしょうか)

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