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2007-10-21 ニーチェとイエスの主張の類似性

[] ニーチェイエスの主張の類似性

「神は死んだ」と言うニーチェと「私と父なる神とは一つである」と言うイエス*1両者の主張は正反対であり、さぞかし大きく異なっているだろうと思われるかもしれない。しかし両者の主張をよく見てみると、多くの点で類似していることに気付く。そこで、いくつかの問題について、両者はどのように主張しているのかをここで順次比較検討し、その類似性を示していく。


0.目次


 1.価値ある物をどのように与えればよいかという問題について

 2.どのような考えに従って生きるべきかという問題について

 3.自分の思考が作った神という観念を崇拝し、自分の肉体を軽視するという態度について

 4.どのように書き、どのように読むのがよいかという問題について

 5.神を知るのは喜びを通してか悲しみを通してかという問題について

 6.高みを目指す者は内外からの妨害にさらされるという問題について

 7.自分の敵をどのように捉えるかという問題について

 8.細々とした妨害にはどのように接するべきかという問題について

 9.性欲をどのように捉えるべきかという問題について

10.隣人を愛するとはどういうことかという問題について

11.どのように自己の価値を評価すべきかという問題について

12.自分自身の飛躍的な進歩には何が必要かという問題について

13.人間の犯した罪をどのように裁けばよいかという問題について

14.偶像、信条、その他観念上の神を崇拝する人々について

15.柔和であることについて

16.過去現在未来、時間、永遠について

17.愛という動機


1.価値ある物をどのように与えればよいかという問題について


ニーチェ


かれらはわたしを理解しない。わたしはこれらの耳に説くべき口ではない。

かれらはわたしが冷ややかであり、すさまじい諧謔を弄する嘲笑者であると思っている。

そしていまかれらはわたしに目を向けて、笑っている。そのうえ、笑いながら、わたしを憎んでいる。かれらの笑いのなかには氷がある。

「1-序説-5」

ツァラトゥストラは民衆に語るのではなく、伴侶たちに語るのだ。

わたしは民衆を相手にけっしてふたたび語るまい。死者に語ったのは、これが最後だ。

創造する者、刈り入れる者、ことほぐ者と私は結ぼう。

「1-序説-9」

君が手をさしのべてはならぬ人間が多くいるのだ。かれらにはただ前足を与えればいい。そしてその前足にはまた猛獣の爪がそなえられてあるように!

「1-創造者の道」

そこでおまえは学んだのだ。

よく贈るということは、一つの技術であり、善意の究極の離れ業、狡知をきわめる巨匠の芸であることを。

「4-進んでなった乞食


と言い、イエスは、


聖なるものを犬たちに与えたり、あなた方の真珠を豚たちに与えたりしてはいけない。彼らがそれらを足の下で踏みつけ、向き直ってあなた方を引き裂くことのないためだ。

マタイ-7-6」


と言う。


この問題については両者共に、

「価値のある贈り物はその価値を理解する者にだけ与えるべきだ。理解しない者に与えても相手の役に立たないばかりか、逆に害となる場合もあり、恨まれることにもなりかねないのだから。」

と主張している。


2.どのような考えに従って生きるべきかという問題について


ニーチェ


どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。

しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神獅子となる。精神は自由をわがものとしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。

「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。

しかし獅子精神は言う、「我は欲す」と。

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができることがある。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

「1-三様の変化」

ほとんど揺藍のなかにいるときから、われわれは数々の重いことばと重い価値とを持ち物として授けられる。「善」と「悪」――これがその持ち物の名である。この持ち物をたずさえているのを見とどけて、人々はわれわれにこの世に生きることを許すのである。

そしてわれわれは――人々から持たされたものを、忠実に運んで歩く。こわばった肩にのせ、険しい山々を越えて。われわれが汗をかくと、人々はわれわれに言う、「そうだ、正は担うのに重いものだ」と。

だが、重いのは、人間がみずからを担うのが重いだけの話である。そうなるのは、人間があまりに多くの他者の物をおのれの肩にのせて運ぶからである。そのとき人間は、駱駝のようにひざまずいて、したたかに荷を積まれるままになっている。

ことに、畏敬の念のあつい、重荷に堪える、強力な人間がそうである。かれはあまりに多くの他者の重いことばと重い価値の数々を身に負う。――そのとき生はかれには砂漠のように思われるのだ。

人間は、その真相を見つけだすことがむずかしい。ことに、自分が自分を見つけだすことが、最もむずかしい。しばしば精神が魂について嘘をつく。

しかし、次のような言を発する者は、自分自身を見つけだした者である、「これはわたしの善であり、悪である」と。

「3-重さの霊-2」


と言い、イエスは、


種々様々な意見が外部から来る――しかし自分自身以外から出てくる意見によっては真理を把握することはできないのである。

「1-7」

これまでのあなたたちの心は外からの誤った考えを詰め込まれ、かくて聖なる内奥、即ち、唯一の実在を閉ざしていたのである。

「9-46」

あなたたちが他人の云うことを闇雲に信じたり、他人の信じていることを丸呑みすれば、模倣者にはなっても考える人にはなれない、従ってあなたたちは束縛されているのである。

「9-47」

立ち返って幼子たちのようにならなければ、あなた方は決して天の王国に入ることはないだろう。

マタイ-18-3」

外を観るな、内を観よ、そして自分が実在であることを知るがよい。

「3-65」

天とは何かの場所ではなくて神の意識である。あなたたちは何を意識しているか。暫く考えてみるがよい。ただ自分自身のことだけを意識しているのか、外部のことを意識しているのか、目に見え耳で聞こえるものを意識しているのか。それとも内なる声を意識しているのか。この内なる声は自分自身の存在を啓示しようとして、かつ又その強大なる力をあなたたちの生活の中で啓示しようとして、待機している。

「2-3」


と言う。


この問題については両者共に、

「外からの考えに盲従するのではなく、子供のように自由な心で自分の内からの考えに従って行動できるようになることが望ましい。」

と主張している。


3.自分の思考が作った神という観念を崇拝し、自分の肉体を軽視するという態度について


ニーチェ


わたしもわたしの妄想人間彼岸に馳せた、すべての背面世界論者のように。だが、人間彼岸に思いを馳せて、真理にはいることができたであろうか。

ああ、兄弟たちよ、わたしのつくったこの神は、人間の製作品、人間の妄念であったのだ。あらゆる神々がそうであるのと同じように。

その神は人間であったのだ。しかも人間とその「我」のあわれなひとかけらにすぎなかったのだ。

詩作し、神への渇望に駆られた者たちのなかには、多くの病的なやからがいた。

かれらは常に過去の蒙昧な時代を回顧する。

理性の狂いが神との類似であり、それを疑うことが罪だった。

現代における神の類似者たちのことを、わたしはあまりによく知っている。かれらは、自分がひとから信じられること、それへの疑いが罪になることを望んでいるのである。

わたしの兄弟たちよ、むしろ健康な肉体の声を聞け。これは、より誠実な、より純潔な声だ。

健康な肉体、完全な、ゆがまぬ肉体は、より誠実に、より純潔に語る。そしてそれは大地の意義について語るのだ。

「1-背面世界論者」

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、――その名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、彼が住んでいる。

君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。

「1-肉体の軽侮者」

まず大胆に自分自身を信ずるがよい――おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに嘘になる。

「2-無垢な認識


と言い、イエスは、


意識の中に保特されているさまざまの考えや観念は現象我を通して現れつつあるが、それは実在ではない。

「11-11」

多くの人々がその凝り固まった信仰のために妨げられている。彼らは他の者から与えられた観念以上のものは何も受け取ることはできない。かくて彼らは自分自身以外の或る権威に自分自身を引き渡し、とどのつまりが、制約され、束縛され、もはや自由ではなくなるのである。

「12-8」

人類を内から観れば、あなたたちのさまざまな信仰により、又あなたたちが掴んで離さない観念のために、どんなに多くの力が閉じ込められているかが分かる。

「12-26」

神は人の手によっては造られていない神殿である肉体を営繕し、神御自身を表現しつつある。

「1-84」

恐怖を放ち去った時、神である本性が肉体の正常な状態即ち調和を取り戻すことをあなたたちは知るであろう。

「1-85」

聖なる神殿を毎日キリストの生命の力強い、かつ断定的な波動で満たし、周囲の雰囲気を、肉の感官を超えて、昇華させよ。

「6-18」

ハートの清き者はあらゆる人々の中に神を見る。さまざまな信仰、観念、心象など、これらは心の産物に過ぎないのであって、実在そのものは久遠であり、「今」の中において実在自身を絶えず表現しつつある。

「10-47」


と言う。


この問題については両者共に、

「自分で神という観念を作り出しそれを崇拝することは、無意味であり有害でもある。それよりはむしろ、自分の本質が表現されているところの自分の肉体を大切にし、常に健やかたらしめるよう努めよ。」

と主張している。


4.どのように書き、どのように読むのがよいかという問題について


ニーチェ


いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血は精神であることを。

ひとの血を理解するのは、たやすくできることではない。わたしは読書する怠け者を憎む。

血と寸鉄の言で書く者は、読まれることを欲しない。そらんじられることを欲する。

「1-読むことと書くこと」


と言い、イエスは、


書物や言葉や文字など、すべてそれ自身としての価値は無い。み霊が思念を不可視のものに繋ぎ、かくて五官の世界を貫き通す手段として言葉を用いた時始めてそれらのものに価値が生ずるのである。

「7-11」

かくして言葉は大いなる値の真珠を内に秘めている外側の殻に過ぎない。あなたたちが或る言葉を自分の心の中に取り入れて、例えば『キリスト』、『わたしは生命である』という言葉を口に出して云うならば、その言葉は一応肉体の器官を通して出るのではあるが、それを久遠常在の霊的状態に高めることができるのである。

「7-12」

あなたたちが聖書その他何であれ天啓を受けた書、特にあなたたちの瞑想に資するためにわたしが与えてきたこれまでの法語を読む時、言葉の背後にみ霊を求めるがよい。求めなければならないのは文字や言葉ではなく、眼光紙背に徹することである。そうすればわたしはあなたたちにインスピレーションを与え、文字や言葉の真理をあなたたちの中に現す。

「7-59」

静かなる時心を静めてそれを読むがよい。そうすれば、わたしの言葉はあなたたちに留まるであろう。

「5-46」


と言う。


この問題については両者共に、

「文字や言葉自体ではなく、その背後に込められているものこそ大切であり、それを意識して読み、又書くべきである。」

と主張している。


5.神を知るのは喜びを通してか悲しみを通してかという問題について


ニーチェ


人間存在しはじめてからこのかた、人間は楽しむことがあまりに少なかった。そのことだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ。

「1-同情者たち」

わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。

わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。――この霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる。

これを殺すのは、怒りによってではなく、笑いによってだ。さあ、この重さの霊を殺そうではないか。

いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている。

「1-読むことと書くこと」


と言い、イエスは、


たいていの人々の心は罪の力という重荷をかつがされている。彼らには世の無智と世の罪だけしか見えない。しかし無智と罪を通してはキリストを見ることはできない。神の愛を通してのみキリストを見ることができるのである。

「1-71」

歓べ、恐れるな。恐れとは明確に視ることを妨げる視力の曇りである。それはあなたたちのヴィジョンを曇らす。

「13-35」

神の赦しは自然に発露するものである。従って一切のあやまちはその久遠の愛の流れによって直ちに消え去る。故に、失望、悲嘆、自責によってこの神の賜物を妨げてはならぬ。

「14-41」

このことを悟ると、ハートは開かれ、神の愛はその中へ流れ入り、やがてそれが肉体に現象化する。自分を責めて怨嗟に暮れ失望すれば、心は影に満たされる。しかし神の愛が満てば影の余地はなく、影は融け去る。

「14-42」


と言う。


この問題については両者共に、

「神は喜びの中にこそ見出しうる。」

と主張している。


6.高みを目指す者は内外からの妨害にさらされるという問題について


ニーチェ


自由な高みを君は目ざしている。星の世界を君の魂は渇望している。しかし君の低い衝動も自由を渇望している。

君の内部の凶暴な犬どもが、自由の身になろうとしている。

わたしから見れば、君はまだ捕われびとで、ただ自由を思い描いているだけだ。ああ、このような捕われびとの魂は賢く機敏になる。しかし同時に、狡猾になり、粗悪になる。

精神の自由をかちえた者も、さらにおのれを浄化しなければならぬ。かれの内部には、なお多くの牢獄と腐敗物が残っている。かれの目はいっそう清らかにならねばならぬ。

そうだ、わたしは君の危険を知っている。しかしわたしの愛と希望にかけて、わたしは君に切願する、君の愛と希望とを投げ捨てるな。

君は自分が高貴なことを今も感じでいる。そして君を不快に感じ、君に悪意のまなざしを投げる他の者たちも、やはりまだ君を高貴だと感じているのだ。高貴な者は万人にとって、妨害物であることを知るがいい。

だが、高貴な者にとっての危険は、かれが善い人の一人になるということではない。それよりも、かれが鉄面皮な者、冷笑する者、否定者になるということなのだ。

ああ、わたしはおのれの最高の希望を失った高貴な人たちを知っている。そのとき、かれらはあらゆる高い希望への誹謗者になった。

かつては、かれらは英雄になろうと志した。いま、かれらは蕩児となった。英雄はかれらにとって、恨みと恐れの的である。

しかし、わたしはわたしの愛と希望にかけて君に切願する。君の魂のなかの英雄を投げ捨てるな。君の最高の希望を神聖視せよ。

「1-山上の木」

わたしの兄弟よ、君は「軽蔑」という言葉を身にしみて知っているか。そして、君を軽蔑する者たちにたいしても公正をまもろうとする君の公正の苦悩を知っているか。

君は、多数者をして、いやいやながらも君にたいするかれらの判断と認識を改めざるをえないようにした。そのことをかれらは深く君にたいして恨みとしているのだ。君はかれらのそばに来たのに、そののちそこを通り過ぎて前へ高みへ進んでしまった。そのことを、かれらはけっして君に許すことはないのだ。

君はかれらを超えてゆく。しかし君が高みへのぼればのぼるほど、妬みの目は君を小さい者として見る。そして飛翔する者は、最も憎まれる者なのだ。

不公正と汚物を、かれらは孤独者にむかって投げかける。しかし、わたしの兄弟よ、君が一つの星であろうとするなら、かれらがそうするからといって、君がかれらを照らすことを少なくしてはならぬ。

「1-創造者の道」


と言い、イエスは、


この世にはわたしを知らないために、あなたたちを嫌い、あなたたちの悪口を云う人々がいる。わたしも又嫌われ、あなたたちの前で軽蔑されたことをよく知って欲しい。俗世の無知は今尚俗世の中に存続している。この無知を愛によって超克するのがキリストである。そのキリストはあなたたちの中に生きてい給う。キリスト吾が内に生く、とあなたたちが云えば、云うたが故に世の無知はあなたたちを嫌い、あなたたちを軽蔑するであろう。しかし誠にあなたたちに告げるが、恐れてはならない。なぜならば無知には何らの力もなく、魂とみ霊とを破壊することは出来ないからである。

「4-23」

わたしを信じ、神の愛がわたしを通じて発現すること、わたしはすべての人々、わたしを軽蔑した人々でさえも愛することを知るがよい。

「4-72」

あなたたちの仕事ははじめから自分で引き受けたものであり、あなたたちの進む一歩々々は正しい。その終末は恐らくあなたたちには見えないであろう。そのために疑惑がおこる。しかしあなたたちが疑惑しているからといって、それが創造計画を止めさせ、変更させることはできない。

「5-82」

決して見掛けに落胆してはならない。常に善なるものを見ることである。すべてはついには善なるものに到達するのである。久遠の計画は果たされなければならぬことを知るがよい、なぜならそれが神の御意志だからである。その背後に存する栄光と目的とはすべての人々に対する愛と平和と調和と善意とである。

「5-83」


と言う。


この問題については両者共に、

「内部の疑念や周囲からの軽蔑に負けず、なおかつ彼らに愛を惜しみなく贈り続け、あくまで最高の理想に向かって進め。」

と主張している。


7.自分の敵をどのように捉えるかという問題について


ニーチェ


戦いにおけるわたしの相手よ。わたしは君たちを心の底から愛する。

「1-戦争と戦士」

わたしの敵たちもわたしの至福の一部なのだ。

敵にむかって投げつけるこの槍。わたしがそれをついに投げつけていい時が来たことを、わたしはどんなにかわたしの敵に感謝することだろう。

「2-鏡をもった小児」


と言い、イエスは、


『あなたは隣人を愛し、敵を憎まなければならない』と言われたのをあなたたちは聞いた。 だが、あなたたちに告げるが、敵を愛し、のろう者を祝福し、虐待迫害する者たちのために祈りなさい。あなたたちが、天におられるあなたたちの父の子となるために。その方は、悪い者の上にも善い者の上にもご自分の太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからだ。自分を愛してくれる者たちを愛したからといって、あなたたちに何の報いがあるだろうか。徴税人たちも同じことをしているではないか。自分の友人たちだけにあいさつしたからといって、あなたたちは何の優れたことをしているのか。徴税人たちも同じことをしているではないか。だから、あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全でありなさい。

マタイ-5-43」

悲しみや困難に遭っても、喜んでそれに挨拶するがよい。それらを通じ、それらを克服することによって、あなたたちはわたしの中で生長するからである。

「12-95」

あなたたちが自分を愛する者のみを愛したところで、得るところは殆どない。しかし自分を嫌う者をも愛して始めてその酬いは大きいのである。

「14-63」


と言う。


この問題については両者共に、

「自己の成長の好機である敵を愛せよ。」

と主張している。


8.細々とした妨害にはどのように接するべきかという問題について


ニーチェ


のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの引き起こす喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。

君の隣人たちは、常に毒ある蝿であるだろう。君の偉大さ――それが、かれらをいよいよ有毒にし、いよいよ蝿にせずにはおかぬのだ。

のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。蝿たたきになることは君の運命ではない。

「1-市場の蝿」

ささいなことに刺を逆立てるのは、はりねずみ用の知恵だと思われる。

「3-卑小化する徳-2」


と言い、イエスは、


成就の秘訣は一切の物事を云い争わず疑わずに為すことである。これが成就する創造力を発動する

「4-84」


と言う。


この問題については両者共に、

「小さな妨害は相手にするな。」

と主張している。


9.性欲をどのように捉えるべきかという問題について


ニーチェ


淫蕩な女の夢の中に落ちこむよりは、殺人者の手に落ちこむほうが、ましではないか。

わたしは君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。わたしが勧めるのは、官能の無邪気さだ。

わたしは君たちに貞潔を勧めるのではない。貞潔は、ある人々においては徳であるが、多くの者においては、ほとんど悪徳である。

「1-純潔」

肉欲。賤民たちにとっては、かれらをおもむろに焼く火。むしばまれた木材と悪臭をはなつぼろきれとにとっては、たちどころにこれを焼き、とろかすかまどである。

肉欲。自由な心情にとっては、無垢で自由なもの、地上における花園幸福、すべての未来が「いま」に寄せあふれるばかりの感謝

「3-三つの悪-2」


と言い、イエスは、


わたしは肉のものを拒否せよと要求するのではない。肉体の中に宿っている間はそれも必要である。

「10-122」

また肉のものを軽蔑してもならない、その代わりその値打ちを認め、よく知り、それに応じた用い方をするがよい。

「10-123」


と言う。


この問題については両者共に、

「性欲は自然なものである。歪んだ解釈や極端な扱いをせず適切に用いよ。」

と主張している。


10.隣人を愛するとはどういうことかという問題について


ニーチェ


君たちは隣人のもとにむらがり、そのことに美しい名を与えている。しかし、わたしは君たちに言おう、君たちの隣人愛は、君たち自身への悪い愛であると。

君たちは、自分自身と顔を向き合わせることからのがれて、隣人へと走る。そしてそのことを一つの徳に仕立てたがっているのだ。

わたしは君たちに隣人愛を勧めるだろうか。いや、むしろわたしは君たちに、隣人を避けよ、遠人を愛せよと勧める。

隣人愛より高いものは、最も遠い者、未来に出現する者への愛である。人間への愛よりなおいっそう高いものは、事業と目に見えぬ幻影とへの愛である。

君に先だって歩んでゆくこの幻影、それは、わたしの兄弟よ、君よりも美しいのだ。なぜ君はそれに君の血肉を授けないのか。だが君は恐れて君の隣人へと走るのだ。

未来と、最も遠いこととが、君の「今日」の原因であれ。君の友の内部に、君は君の原因としての超人を愛さねばならぬ。

わたしの兄弟たちよ、わたしは君たちに隣人愛を勧めない。わたしは君たちに遠人愛を勧める。

「1-隣人愛」


と言い、イエスは、


人格(personality)は感覚の幻影である。

「10-125」

人格の彼方を観よ。人格は外的現れにすぎない。自分自身の外部に真理を見い出すことはできないのである。自分の人格や、自分の周囲にある多くの人格の彼方を観なければならない。人格の中に真理を見い出すことは決してできないのである。人格とはもろもろの状態に対する個人の反動の結果である。

「11-10」

意識の中に保特されているさまざまの考えや観念は人格を通して現れつつあるが、それは実在ではない。実在はそれ自身だけで完全であり、無欠である。それは、純粋かつ完全にそれ自身を現す。それが神のキリストである。故に人格の彼方を観ることである。

「11-11」

人格を自分の心から無くせよ、そうすればあなたたちは神の栄光、永遠に君臨する神の一人子を見るであろう。

「14-36」

人格は外からつけている仮面にすぎない。人格にしがみついている限りあなたたちは妄想の中に生きつづけるであろう。

「14-37」

余りにも多くの人々がイエス人格に捉われ、その結果彼らはすべての人々の中にある久遠キリストを見ることができない。

「14-38」

キリストは父なる神、すべてを支配し給うみ霊、生ける大生命のみ子であり、すべての魂の中に宿っている。

「2-61」

キリストはすべての人類の中にある神の霊である。わたしは神の愛である。この霊を知るためには、愛である神を敬慕しなければならない。

「11-33」

神はすべての中にすべてを貫いて生きてい給う唯一無二の生命である。神こそ実在である。

「3-91」

わたしは愛によって父なる神と一体である。汝魂を尽くし、ハートを尽くし、心を尽くし、力を尽くして汝の神なる主を愛すべし。汝の隣人を己自身のごとくに愛すべし。

「2-65」

自分自身の魂とハートとに流れ入る生命と愛との流れを実際に現す時、あなたたちは神の愛を実感するのである。すべてを愛することは神を愛することである。神はすべてを愛し給う、すべては神の被造物であるからである。だからこそわたしは、あなたたちの隣人を自分自身のように愛せよ、というのである。

「11-35」

母がその子を愛するがごとくにも、すべての人々に対して愛を感じなければならない。最も高い者から最も低い者に至るまですべては神の子である。

「2-82」

すべての人々は天にましますわたしの父の子であるからには、わたしが唯一ヶ所のくにたみのためだけではなく、あらゆるくにたみのために生きていることを、あなたたちは知らないのか。

「10-98」

わたしは世にあるすべての人々を愛する。

「8-135」


と言う。


この問題については両者共に、

「真に隣人を愛するとは、周囲の人間の表面上の人格を愛することではなく、その人間の奥に輝く最高の価値を愛することである。」

と主張している。


11.どのように自己の価値を評価すべきかという問題について


ニーチェ


君は深い愛をもつ者としての道を行く。君は君自身を愛し、それゆえに君自身を軽蔑しなければならぬ、深い愛をもつ者だけがするような軽蔑のしかたで。

「1-創造者の道」

おまえたちの隣人をおまえたち自身のように愛するがいい。――しかしまず自分自身を愛する者となれ。――

――大いなる愛をもって、大いなる蔑みをもって、自分自身を愛する者と。

「3-卑小化する徳-3」

人はみずからを愛することを学ばなければならない、すこやかな全き愛をもって。――そうわたしは教える。おのれがおのれ自身であることに堪え、よその場所をさまよい歩くことがないためにである。

こういう、よその場所をさまよい歩くことが、「隣人愛」と自称しているのである。このことばで、今までに最もはなはだしい嘘がつかれ、偽善が行われてきた、ことに世界を重苦しくしてきた者たちによって。

「3-重さの霊-2」


と言い、イエスは、


あなたたち自身だけでは、あなたたちは無である。しかし神と共となれば、あなたたちはすべてである。故に、『わたしと神とは一体である』と常に云うがよい。

「3-33」

わたしみずからは無である、しかしわたしの中に宿り給う父なる神は全てであり給う。父なる神はわたしを知り給い、わたしは父なる神を知る。わたしは父なる神を知るが故に、父なる神はわたしの中において、わたしを通して語り給う。かくしてわたしは父なる神の平安と愛と癒し英智とをもたらす。

「5-8」

わたしは自分ひとりでは無である。語り給うのはわたしの内なる父のみ霊である。これらのことすべて及びそれ以上のことを父は為し給う。

「13-86」

この内奥の平安は大いなる謙譲のしるしである。この謙譲の極みが「われ自らは何事をも為す能わず、常にわが内に留まり給うは父、その父こそみ業を為すなり」である。

「7-45」

と言う。

この問題については両者共に、

「自分の表層的な人格にはあまり価値をおかず、その奥にある最高のものにこそ価値をおくべきだ。」と主張している。


12.自分自身の飛躍的な進歩には何が必要かという問題について


ニーチェ


君は君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるをえないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。

わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を。

「1-創造者の道」


と言い、イエスは、


なくなりはしまいかと恐れているものに、何とまあ誰も彼も同じように執着していることか。おのが生命を得んとする者はこれを失い、おのが生命を棄てる者はこれを得る。

「2-47」

生命を再び得んがために十字架にわたしの生命をかけそれによって生命を再び得たことがあらゆる経験の中での最大のものであった。しかしそれはわたし自身のためではなく、およそ生きているすべての人々、そして又『わたしを信ずる人々が決して死なないようにするため』であった。事実彼らは久遠の生命の秘蹟をすでに得たのである。

「1-67」

次に来るのが蘇りである。死に定められたこの肉の身よりの魂の蘇りである。キリストは肉の中に顕現した神の霊であり、昇天とはこの実在を真に認識すること、久遠キリストを真に把握することである。

「1-68」

もしあなたたちが内なるキリストに目覚めるならば、全能なる、静かにして穏やかなる声が、あなたたちを通じて顕現する。この目覚めがあらゆるもの、そして又、あらゆるものである神、と自分との一体への悟りである。

「4-69」

なぜならば、それこそが、死して後蘇り、一時行方知れずにはなったが今や探しあてたわたしの息子だからである。

「4-70」


と言う。


この問題については両者共に、

「これまで大切にしてきた古い信念体系を捨て去らなければ、新しい信念体系を真に認識して進歩することは出来ない。」と主張している。


13.人間の犯した罪をどのように裁けばよいかという問題について


ニーチェ


わたしは君たちの冷たい公正を好まない。君たちのところの裁判官の目は、つねに官吏の目であり、そこには官吏の冷たい刃が隠見している。

言うがよい、明らかに見る目をもっている愛であるような公正は、いったいどこにあるだろう。

単にいっさいの刑罰を負うばかりでなく、いっさいの負い目を身に受けるような愛を、君たちは創り出してくれ。

君たちのあらゆる者――裁く者を例外として――を無罪と宣告しうる公正を、君たちは創り出してくれ。

「1-まむしのかみ傷」

医者よ、君みずからを助けよ。そうすれば君は君の患者にも助けとなることができよう。患者に与えうる最上の助けは、自分自身をいやした者を患者が自分の目でみることだ。

「1-贈り与える徳-2」


と言い、イエスは、


罪は外なる五官の「我」に結びついた虚妄である。それは分離と混乱とに属する。

「8-38」

世の罪なるものについて非常に多くの人々がお説教をしているが、罪を余り見詰めすぎてはならぬと、わたしはあなたたちに話したことがある。いつまでも罪ばかり見詰めておればどうしてキリストを観ることができようか。

「8-39」

自分の内なるキリストの方をこそ見詰めておれば、心とハートの中にあるこの分離、この混迷、この罪は溶け去るのである。

「8-40」

あなたたちは外側で判断するが、わたしは何人をも裁かない。

「1-118」

これまであなたたちは、自分の尺度で悪いことをしたと決め込んだ人々に対して愛を出し控えたことがどんなに度々あったことか。そのような断定はあなたたちの関知することではさらさらないのである。それはすべて父なる神とその子との間のことがらである。このことをよくよく銘記するならば、あなたたちは他を批判することがなくなり、批判という武器はむしろまず第一に自分自身に対して向けるようになるであろう。

「2-98」

真っ先に自分自身の誤ちに気が付けば他の人々を前より一層よく理解するようになる。

「2-99」

あなたたちはこれまでとかく人々を批難しがちであった。自分が批難されないためには、人を批難せぬことである。先ず己が目より梁を取り去るがよい。そうすれば同胞の目の棘の取り方も前より一層解るようになるであろう。

「2-100」

あなたたちは非行の上に愛のベールをかけなければならぬ。そうすれば憎しみが心に入ることはない。愛のこの強大なる力はあらゆる物事に打ち克つ。愛は神のもの、善・悪は人の心のものである。

「10-23」

たいていの人々の心は罪の力という重荷をかつがされている。彼らには世の無知と世の罪だけしか見えない。しかし無知と罪とを通してはキリストを見ることはできない。神の愛を通してのみキリストを見ることができるのである。常に現在生きる神の子こそは愛なる父の完全無欠の現れである。

「1-71」


と言う。


この問題については両者共に、

「あなたたちは自分のことを棚に上げて他者を正しく裁けると思っているのか。そしてもし仮に正しく裁けるとしても、そんなことに意味はない。ただ愛によって、自分を含む全ての者に無罪を宣告せよ。」

と主張している。


14.偶像、信条、その他観念上の神を崇拝する人々について


ニーチェ


おお、これらの僧侶たちが建てた小屋を見るがいい。甘やかにかおるそれらの洞穴を、かれらは教会と呼んでいる。おお、このまやかしの光よ、このよどんだ空気よ。そこは魂がおのれの高みにまで飛ぶことを――許されない場所だ。

この建物の天井が崩れて、晴れわたった空がふたたび顔をのぞかせ、くずれた塀のもとの草や赤いけしの花に光を投げるようになってからはじめて――この神の住むこういう場所に、わたしはふたたび心を向けようと思う。

「2-僧侶たち」

ああ、有徳者たちよ、こういう者たちが次のように叫ぶ声も、君たちの耳をおそった。「わたしがそれでないもの、それがわたしには神であり、徳である」

わたしの友人たちよ、君たちが、これらの道化や嘘つきたちから学んだ古いことばに飽き飽きしてくることを、ツァラトゥストラは願うからだ。

「報酬」、「報復」、「罰」、「正義による復讐」などのことばに飽き飽きしてくることを。

「おのれを空しくさせる行為が善なのだ」ということに、君たちが飽き飽きすることを、かれは願う。

ああ、わたしの友人たちよ。子の内部に母があるように、君たちの「本来のおのれ」が行為の内部にあること、これが徳についての君たちのことばであってくれ。

「2-有徳者たち」

おお、ツァラトゥストラよ。あなたは、そのように不信仰だが、あなた自身が思っているよりは敬虔なのだ。あなたの内部の何らかの神が、あなたをこの不信仰に改宗させたのだ。

あなたをして、もはやいかなる神をも信じさせないものは、あなたの敬虔さそのものではないか。また、あなたのあまりに大きい正直さは、あなたを善と悪の彼岸にまで連れ去るだろう。

「4-退職


と言い、イエスは、


たいていの祈りは分離という誤った考えをもって捧げられている。特にあなたたちの教会礼拝堂において著しい。神は遙かに遙かなる存在である――という信仰の仕方をしているからである。しかし神はあなたたちの手や足よりも猶近くにましますのである。

「3-85」

世とその中にある一切を創り給い、天と地との主であり給う神は、手もて造られた神殿などには住み給わず、人の手によって仕えられ給わず、又、何ものにも欠乏し給うことはない。なぜならばすべての人々に生命と息とを与え給うたのは神御自身であるからである。

「1-22」

わたしはあなたたちの魂の中に宿るみ霊である。わたしがあなたたちと共にあることをあなたたちは知らないのか。この事を認めればあなたたちはすぐにわたしの許に来ることができるのである。遙か離れた処にいる誰かに祈ることをやめよ、わたしが手や足よりも近くにいるからである。

「9-21」

偶像は人の手によって造られたただの金、銀にすぎない。

「11-25」

口はあるが語ることは絶えてなく、目はあっても視ることはできない。

「11-26」

耳はあっても聞くことはできない。その中には生命の息ひとつない。

「11-27」

無智なる者は生命なきものを崇め、賢明なる者は神の中に生きる

「11-28」

たとえ偶像が象微として維持されているにせよ、意識は象微の背後にあるものに気付かねばならない。何も知らずに偶像を拝むのは無益である。父の中に生きること、父は自分の中に生きてい給うことを知ることが本当の崇拝である。

「11-29」

故にわれわれ自体は自分たちが何を崇拝しているのかをよく知ってはいるが、一般大衆は自分の崇拝しているものが何なのかが分かっていない。故にわたしはあなたたちに云うが、み霊であり実在である神を崇拝せよ、神はみ霊であり、唯一無二の生ける実在であるからである。わたしと父とは一体である。

「11-30」

しかし又わたしはあなたたちに告げるが、地上の何人も礼拝してはならない、天にまします御方のみがあなたたちの父であるからである。

「11-31」

父はあなたたちの中にある生ける息、あなたたちの中において個別化した神のキリストである。

「11-32」


と言う。


この問題については両者共に、

偶像や観念上の神を崇拝することをせず、自分の内部の本質を第一義とせよ。」

と主張している。


15.柔和であることについて


ニーチェ


胸を高く張り、深く息を吸いこんださまで、この崇高な者は立っていた、黙々として。

狩猟によって獲たいくつかの醜い真理をぶらさげ、裂けた着物を幾重にも着ている。茨もおびただしくついていた。――だが、ばらの花は一つもない。

かれはまだ笑いを学んでいないのだ、そして美をも。

かれは、あいかわらず、とびかかろうとする虎に似た姿で立っている。しかしわたしはこういう張りつめた魂を好まない。

たしかにわたしは、かれのもつ牡牛の頸を愛しはする。しかしさらに、わたしはかれが天使の目をもつようになるのを見たいのだ。

まだかれの認識の行為は、ほほえむこと、対他的な意識の緊張を捨てることを、学んでいない。

威力がものやわらかになって、可視世界へ降りてくるとき、そういう下降をわたしは美と呼ぶ。

そしてわたしは、力強い者よ、だれにもまして、君からこそ、美を期待するのだ。やさしい心を獲得することが、君の最後の自己克服であるように!

「2-崇高な者たち」

「そう言うあなたはやさしいのだ、牝牛よりやさしいのだ。おお、ツァラトゥストラよ」

「4-進んでなった乞食


と言い、イエスは、


柔和な人たちは幸いである、その人たちは地を受け継ぐからである。

マタイ-5-5」

神は超大にして神秘であるとともに柔和で高ぶることをしない。

「2-4」

もしあなたたちが自分の中に深く求めるならば、柔和にしてしかもいと優れ、謙遜にしてしかもいと高き存在者について学ぶところがあろう。

「4-66」

最も柔和なる者が全宇宙を給源とし、吾がものとする。

「4-68」

愛は悪に酬いるに悪を以てすることなく、悪に対するに善を以て酬いる。愛は柔和のうちに、それら悪を正しく判断して導く。

「13-93」

愛はあらゆる力ではあるが、謙譲でもある。愛は空虚な誇示をすることなく、その業蹟を誇ることもない。

「13-94」


と言う。


この問題については両者共に、

「真に優れた者は、力があるだけではなく柔和でもある。」

と主張している。


16.過去現在未来、時間、永遠について


ニーチェ


すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないか、なされたことがあるのではないか。

「2-幻影と謎-2」

おお、わたしの魂よ。わたしはおまえに、「今日」を、「未来のいつか」と「過去のかつて」をいうのと同じように言うことを教えた。そして「ここ」と「そこ」と「かなた」の一切を踊りながら越えて行くことを教えた。

「3-大いなる憧れ」

それは、万物は永久に回帰し、われわれ自身もそれとともに回帰するということだ。また、われわれはすでに無限度数現存していたのであり、万物もわれわれとともに無限度数現存していたということだ。

「3-快癒しつつある者-2」

わたしはおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ。

「3-七つの封印-1」

すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

「4-酔歌-11」

――どうだ! 世界はいままさに完全になったのではないか。まろやかに熟れて、おお、金の円環よ、――どこへ飛んでゆくのだ。わたしはその後を追う、身もかるく。

静かに――――

「4-正午」


と言い、イエスは、


あらゆる者が克服しなければならぬ難問は時空感覚である。

「8-113」

この時間空間という感覚を克服するならば、一切が今であり、分離も距離も時間も存在しないこの悟境にあなたたちもまた入るようになるであろう。

「8-119」

時間と空間とは、常に無限なるものの完全体、完全性を理解する妨げとなっている。無限認知するには時間と空間はあってはいけないのである。

「11-8」

実在には始めがなく、終わりもない。実在は人間が造りうるものではなく、時間、空間は人間勝手に自分自身の意識の中で造りあげたものである。それは幻覚であり、時間、空間なき、始めなく、終わりなき渾一性(wholeness)への無理解である。渾一(Whole)があるのみであり、この渾一が今の今、自己自身を表現しつつあるのである。これが実在である。わたしは実在と一体である。実在とわたしは一つである。これが、あらゆることが可能であるキリスト意識の認識である。

「11-9」

それは観念ではない。それは口先だけの文句ではない、それは信仰ではない、それはあなたたちの想像の産物ではない、それは心の中で造り出せるようなものではない。それは既に完全であり、生きており、今の今、それ自身を表現しつつある。それはおよそ存在する力のすべてである。それは常在の生命であり、その中には過去未来もなく、ただ久遠の今があるのみである。

「10-14」

今こそが久遠であり、生命の一瞬々々が今でである。故に過去を思わず未来を憂うるな。未来は、今を生きることによっておのずから現成るのである。

「1-41」

一切の時間が現在であることを知り始めた時、いわゆる切願はしなくなる。アレコレの物事が実現するようにとの切願はしなくなるから、大きな緊張があなたたちから消える。今日というこの日でもあなたたちの中どんなに多くの者が心を張りつめていることか。それは、ましまさぬところなき『遍在者』の中に住まわぬからである。あなたたちは過去とか未来との中に住んで、今の今、神の生命が栄光に輝いて現れてい給うのを逸しているのである。

「1-43」

あなたたちは時間も空間もない状態に到達し、自分の魂の中に宿り給うあなたたちの主なる神の完全さの中に入ることができるのである。

「1-52」

「愛」は久遠、常在にして、栄光輝ける、今活在する生命である。それは安らぎであり悦びである。愛が常在するところの、しかも今の今活気凛々たる生命であることを知れば完きまでに満ち足り、もはや過去を顧み未来を案ずるの愚は犯さなくなる。このことを了解した魂は、過去に非ず、未来に非ず、現在の中にこそ常に活々として働き給う臨在者の欠くることなき豊穣の中で営為する。

「1-53」

現在のみが唯一の要因であって過去未来存在するものではないと、時間を完全に悟りきってしまえば、誤った考えや代々にわたって受け継がれてきた病患も消滅するであろう。

「1-70」

明日を思い煩うな。「今」のみが唯一の時間である。今を自分の実在とせよ。そうすれば明日のことは明日自身が処理するであろう。では、未来を思い煩うのあまり奇しき今を逸するなかれ。意識は今の中でのみ創造をなしうるのであって明日においてではないのである、また昨日においてでもないのである。昨日は記憶に過ぎず、明日は希望に過ぎない。今こそが唯一の創造をもたらす瞬間である。

「2-80」

キリストを以て考えることは久遠なるものの中において考えることである。久遠の今の中において考えよ、なぜならば『今』の中においてのみ創造はなしうるからである。ああ、あなたたちにもハッキリと解るようにやさしく解明することができたら――今即久遠である

「3-80」

渾然一体!真理は何と輝くばかりに美しくまた完全であることか、何と単純であることか。しかも又、時間と空間との中に住む者にとっては何と理解の困難なことか。

「8-123」


と言う。


この問題については両者共に、

無限なる永遠があるのみである。」

と主張している。


17.愛という動機


ニーチェ


わたしのおさえがたい愛は、あふれて川となって流れ、東へ西へと向かう。寡黙の山上から、苦痛の荒天から、わたしの魂は谷々へとどろき注ぐ。

たとえ、わたしの愛の奔流が、道のないところへ落ちこもうとも厭うまい。河流がどうしてついに大海へ注ぐ道を見いださないことがあろうか。

たしかにわたしの内部には一つの湖水がある。隠栖を愛し、自分に満ち足りている湖水が。しかしわたしの愛の奔流は、その湖水を連れ去るのだ、下へ、海へ。

「2-鏡をもった小児」

わたしはわたしの軽蔑とわたしの警告の鳥とを、ただ愛のなかから飛び立たせることにしている。沼のなかから飛び立たせるのではない。

人は、愛することができない場合には、そこを――通り過ぎるべきなのだ。

「3-通過」


と言い、イエスは、


愛は全宇宙の中心である。この中心より絶えざる愛の流れがすべての魂、生きとし生けるものを通じて流れている。花々を通じ、動物たちを通じ、人間天使たちとを通じて、この愛が中心の泉より絶え間もなく流れ、愛自身の真実の姿を永遠に現している。

「1-2」

愛について理論を立てるのは、愛の一側面にしか過ぎない知的面を論うにすぎない。愛とは何かと理論を捏ねることは愛の力を失わせることである。あなたたちは愛なる無限生命によって創られた者なのである。愛をこのように理解し、把握して始めて愛はその真性を現すのである。

「1-5」

地上における偉大なる魂たちは、処は異なり生き方は違っても、すべてこの愛を現しているのである。

「1-6」

たとえあなたたちがどれほど雄弁に語ろうと、ハートに愛がなければ、あなたたちはやかましいシンバルにすぎない。

「13-89」

たとえあらゆる知識を得、どんなことでもなしうる信仰を習得しようと、ハートに愛がなければ、あなたたちのなすことは何らあなたたちの為にはならない。

「13-90」

幸うすき人々に施しをし、貧しき人々に食を与えても、愛がなければ、何もしたことにはならない。

「13-91」

わたしは世にあるすべての人々を愛する。わたしはあなたたちと共に世にあり、天国を地上にもたらすために働く、この事をなすためにわたしは遣わされたのである。

「8-135」

あなたたちに対するわたしの愛は極大である。故にわたしの愛をあなたたちの中に生かすがよい。愛は天上と地上とにおける一切の力であるからである。

「7-116」

愛を求めるな!愛を与えよ!これこそが霊の真の栄養である。

「3-72」

あなたたちの愛に対して利得や報酬を求めてはならない。又あなたたちの愛を人々の前で見せびらかしてはならない。ひそかに愛を為せ。人を喜ばすためではなく、神の愛のために、手の届く限りのことをすべて為せ。

「13-105」

神とは人間の姿を取った愛であることを知れ、愛が敗れることは決してなく、愛はすべてのものを新たならしめる。

「5-85」

愛は神なるが故に、愛はあらゆるもののうちでも最大の力でなければならぬ。愛はすべてを調和ならしめる。愛が大自然の中にある何ものかより背離することはありえない。なぜならそれはすべての真実なる現象の背後にある動因であり、他のあらゆる状態がなくなっても愛のみは存続するからである。

「1-96」

すべてのものへの愛の思いの中に生きよ。

「3-93」

あなたたちが真に愛するならば敵は一人もいなくなる。このことが十分に認識されると、それがどんなに真実であるかが分かるようになる。利己心と無智とが融け去って始めて真理である愛が顕現するのである。

「14-60」

わたしの平安とわたしの愛とを以てわたしはすべてのものを祝福する。

「11-39」

あなたたちの中に宿っているわたしの沈黙の愛を求めよ。すべてのものを愛せよ、すべてのものを愛を以て祝福せよ。そうすればわたしはあなたたちをその百倍も祝福しよう。

「13-103」

愛によってわたしは癒し、愛によってわたしは生きる

「1-109」


と言う。


ニーチェイエスは共に、

「ただ愛のみを動機として行為せよ。」

と主張している。


終わりに


これまで見てきたように、ニーチェイエスは多くの点で同様の主張をしている。ニーチェは神の不在を前提とした立場であり、イエスは神の存在を前提とした立場にいる。これはつまり、両者が同様に主張した事柄は、神が居ようが居まいが関係なしに推奨される処世術であるといえるということではないだろうか。ある項目について正反対の立場からの意見が一致した場合、その意見の信憑性は高くなるのだから。

両者の主張の詳しい内容を知るにははそれぞれの出典を読む必要があると思うが、ここに引用した彼らの言葉の中にも、読者の方々が生きる上で参考になる知恵があれば幸いである。

*1:尚、この記事で私が「ニーチェ」と呼ぶ対象は、書籍ツァラトゥストラ」の主人公を通して表現されているように私に感じられるある人格のことである。従って、19世紀に実在したであろう人物ニーチェや、ニーチェ研究者が考えるニーチェ像や、あなたが考えるニーチェイメージとは直接の関係はなく、それらと大きく異なっている可能性もある。又、この記事で私が「イエス」と呼ぶ対象は、書籍心身の神癒」及び「新約聖書」の主人公を通して表現されているように私に感じられるある人格のことである。従って、1世紀に実在したであろう人物イエスや、ローマカトリック教会が考えるイエス像や、あなたが考えるイエスイメージとは直接の関係はなく、それらと大きく異なっている可能性もある。私にはそれらのイメージを統一しようという意思は無いのでその点はご了承頂きたいが、私の抱くイメージと読者の方が抱くイメージがそう遠くないことを期待している。両者の発言の出典の表記については、ニーチェの発言で「3-新旧の表-3」という表記は「ツァラトゥストラ第三部の新旧の表の3節」を意味する。イエスの発言で「12-10」という表記は「心身の神癒の第十二話の10節」を意味し、「マタイ-7-9」という表記は「新約聖書マタイ福音書の第7章の9節」を意味する。又、イエスの発言では一部、「心身の神癒」の原著Divine Healing of Mind & Body」から私が訳出した箇所もある。

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2007-10-04簡易メモ1

心に愛があれば色々と上手くいくしいい事が多くある。

→どのようにすれば愛を持てるのか?

理解することによって。(対象を、自己を、世界を、理解することによって。)

→どのようにすれば理解できるのか?

断定しない自由な態度で見ることによって。(断定、自己限定、既存の信念体系の盲従的採用マインドコントロール等を避ける事によって)

→どのようにすれば自由な態度をとれるようになるのか?

自らの思考を観察し、その拠って来る源まで辿ることによって。(その思考の元、そしてその元の元、そしてその最も先の源はそもそもは何処にあるのか。それによってその思考の根拠が不確かであることが分かり、その思考に囚われなくなる。)

→どのようにすれば自らの思考を観察できるのか?

繰り返し練習することによって。

→どのようにすれば繰り返し練習するやる気が出るのか?

心に愛が無いために苦しかった経験、心に愛があるために喜びとなった経験、を重ねることによって。

→どのようにすればそのような経験が得られるのか?

この世に生きていると自動的に得られる。


みなさん本当によかったですね。

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2007-08-21育児の基本

子供幸せ人生を歩んでもらうために、守るべき育児の基本があります。

1.必須項目

・生きていけるだけの環境(食事・空間等)を与える。

・たくさん抱きしめる。

2.基本項目

・成長段階に見合ったバランスの良い食事を与える。

危険についての情報を与える。(赤信号は止まれ、ベランダの手すりは乗り越えるな、等)

・日常生活の方法を教える。(箸は食事のための道具である、等)

言葉を教える。

3.努力項目

・その子の存在に意識を集中し、その子が本当にやりたがっていることを探り、出来るだけそれをさせてあげるよう努める。

・親も、自分自身の人生を最高のものにするために精一杯生きる

・分からないことは分からないと言い、それについて知っていることだけを話す。



さて、子供が持つ基本的性質に次の2つがあります。

・親がしろと言うことはしない。親がする通りのことをする。

・自分が幸福になるための情報を自分の内に備えている。

そこで、もし子供勉強して欲しいのなら自分が勉強する様を見せればよく、友達と仲良くして欲しいのなら自分が友達と仲良くしている様を見せればよいです。

又、子供幸福になってほしいのなら、子供が自分自身の中にある自分が幸福になるための情報・欲求を、なるべく歪ませずに外に表現出来るように助けてあげればよいです。それと共に親自身も、自分が幸福になるために自分の内にある真の欲求に従って行動している様を見せれば尚よいです。

花の種の内には、花を咲かせる為に必要な情報がすべて備わっており、水や土や空気などの環境が整えば自然に美しい花が咲きます。水が無ければ花は枯れてしまいますが、水が多すぎても腐ってしまいます。又、外からの力で無理に花を咲かせようとすることには意味がありません。花のつぼみにピンセットを差し込んで、無理矢理花弁を開いても、美しい花にはなりません。

本来人間子供に必要なものは、基本的環境自然な愛情だけです。余分な肥料を与えるためにもっと大切なことが欠けてしまわないよう、気をつけたいものですね。



おいお前ら、絶対過保護過干渉で子育てするなよ

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2007-08-12

さきほどコトリコちゃんを大笑いさせる方法を思いつきましたのでご報告致します。


ぼくの描いた絵とか文章は勝手に使っていいよー。

よくわからんけど僕の絵とか文章で、8億とか儲ける人とか出てきたら大笑いなのになーとか思う。

もちろん僕には一銭も収入はない。


その方法を一言で言いますと、コトリコちゃんの文章に誰でも自由に絵を付けて手軽にオンデマンド出版できるようにすれば良いです。

例えば、童話「コトリ・コ・トリコ」 は良いお話しですが、絵を付けて絵本風にするともっと良くなります。

もちろん絵心のあるコトリコちゃんが自分で絵をつけるのもいいのですが、それでは8億を儲けるのは難しくなります。そこで、このお話しに絵を付けてくれる人を募集して描いてもらい、同じ文章に異なる絵が付いた絵本を何種類も出版します。元になるお話しが良いので、多少絵が悪くても本自体は良いものになるのでそこそこは売れます。もちろん、一種類出版するためには準備の費用が発生しますので、全種類の絵本ウェブ上で公開し、人気ランキング形式にして上位のものから出版していきます。1円でも黒字になるなら出版して問題ないでしょう。コトリコちゃんは印税が要らないということなので、その分も絵を描いた人の印税に加算されます。8万人が絵を描いて、それぞれの本が平均して1万円分売れれば、世界的には8億円の効果があったことになります。簡単ですね。

さて、利用者の手間は極力減らすべきですので、あらかじめページ割りはしておきます。そして、どのシーンごとに絵が必要なのかわかりやすくしておきます。表紙用、裏表紙用、シーン1用、シーン2用、・・・、シーン10用、の合計12枚等。そうすれば、絵を描く人がすることは絵を12枚描いて分かりやすいファイル名にしてコトリコちゃんに送るだけです。何のリスクも無く、コトリコちゃんの素晴らしいお話しに絵を付けて公開することができて、しかも人気が出そうなら出版までしてもらえて印税が入るのです。やることはただ絵を送るだけです。絵心のある人ならだまっていません。もちろん、一つの例としてコトリコちゃん自身が描いた絵のバージョンも作っておくと分かりやすいはずです。

お分かりのように、このシステムは「コトリ・コ・トリコ」に限らず、絵を付けると良いものになるどんな文章についても機能します。絵本によさそうな良い文章をどんどん書けば、大勢がそれに絵を付けてどんどん本も売れることになります。良かったですね。

さて、このシステムは何もコトリコちゃんの文章についてだけ機能するわけではありません。つまりこのシステムで、絵を付けてオンデマンドで出版できたらいいなと考える人の文章すべてが対象になります。(自分の文章がネットで公開されていいと考える人だけではありますが。)

すると最終的に、次のような絵本2.0的ウェブサービスサイトが考えられます。

1.自分の文章に絵を付けて本にして売りたいなと考えている人が文章を投稿する。(小説挿絵を入れるという形式にしたいのか、絵本という形式にしたいのかは決めておきます)

2.自分の絵を素敵な文章に付けて売りたいなと考えている人が、そのサイトに投稿されている文章の中から気に入ったものを選んで、自由に絵を付ける。

3.2の段階まで経て絵が付いた「挿絵つき小説」なり「絵本」なりがサイト上で公開されており、観客は紙の本で読みたいなと思うものに投票していき、人気が高まったものから逐次オンデマンド出版。


このサービスの良い所は次の通りです。

1.自分の文章を多くの人に読んで欲しいなと思っている人は、現在は誰も来ないような自分のサイトに文章をアップするくらいしか方法が無いけれど、このサイトに投稿すれば多くの人に見てもらえる上、素敵な挿絵を付けてもらえるかもしれず、さらには出版される可能性もある。そして自分がするべきことは、会員登録した後文章をそのサイトにアップするだけ。

2.自分の絵を多くの人に見て欲しいなと思っている人は、現在は誰も来ないような自分のサイトに絵をアップしておくくらいしか方法が無いけれど、このサイトを見れば挿絵を募集している素敵な文章が多く存在しており、その内容に沿った絵を描いて投稿すると、その文章と共に自分の絵も多くの人に見てもらえるし、人気が出たら出版もされる。自分がするべきことは会員登録した後に、自分が気に入った文章に挿入箇所を指定して絵をアップするだけ。

3.サイト運営者は、黒字になると分かっている作品だけをオンデマンド出版すればいいだけ。文章の作者と絵の作者両方が勝手に宣伝もしてくれるので、広報も楽。




さて、素晴らしい文章と素晴らしい絵をどちらも書ける人というのはいるかもしれませんが、いてもごく少数です。そして多くの人は、文章か絵のどちらかしか良いものは作れません。しかし、良い文章と良い絵が合わさった時に、それぞれが独自に持つ良さを何倍にも高めあって素晴らしい作品に昇華されることも珍しくありません。(ハルヒとか。)これまではそのような機会は、特にマイナーな人にとっては稀でしたが、このサイトではそれが主流になります。絵を付ける人は、自分の感性マッチした文章についてだけ、自分の好きな絵をつければいいのですから。また、与えられたテーマに沿って絵を描くというのも、絵師が非常に好むことの一つです。

これまでは商業的に出版しようとした場合は期待部数が厳しかったけれど、オンデマンドならかなり緩くなるうえ、予めネット上で人気ランキングにかけられているので安全です。また、絵本であれば少々本の単価が上がっても紙で読むことの意義が増えるために買う人が居るというのもポイントになります。

このようなサイトサービスが完成するまでの流れは次のようになります。

1. 自分で童話に絵を付けて絵本風にして公開。

2. 僕の文章に絵をつけて出版してみませんかーの呼びかけ。

3. 他の人の文章にも絵を付けられるような、文と絵のマッチングサービスのようなサイトを作りたいので協力してくださーいの呼びかけ。(コトリコちゃんには新しいものを造るのが大好きなプログラマの友達がたくさんいるので、恥ずかしがらずに頼めばいいだけなので、かんたんですね。)

4. サイト構築と運営はボランティアじゃ無理な規模になりそうなら、事業化。(コトリコちゃんのお友達には詳しい人もいるでしょうから、これまた教えたり協力してくれるよう頼めばいいだけなので、かんたんですね。)

5. 最初はあまり人が集まらないかもしれないけど(利用者の絶対数重要サービスなので)、その場合はコトリコちゃん自ら素晴らしい文章を提供しまくれば大丈夫です。(文才には溢れているので、かんたんですね。)

6. このサイトが大人気になり、すばらしい文芸作品が世の中にたくさん生み出され、多くの眠れる文章書きと絵描きが発掘されて万々歳。


文章の人と、絵の人の印税の取り分は、このシステムだと同じ文章に複数の絵が付いて出版されることは可能だけれど、その逆は無理であることを考えると、小説の場合文章と挿絵の人で5:5、絵本の場合は文章の人と絵の人で2:8くらいがいいかもしれませんね。


それで、このサイトのことはまあ、思いついたから書いてみたというだけですけれど、もっと大切なのはコトリコちゃんがお金を避けないようにすることかなと思っています。お金は、水や空気と同じで、本当は悪い子じゃなくて、コトリコちゃんと友達になってもっと仲良くなって遊びたいと思っている無垢な子なんです。コトリコちゃんに避けられて寂しいんです。コトリコちゃんを通って流れると、世の中のお金はもっと健康になれるんです。だからお金にもっと自分を通して動かせて遊ばせてあげてください。お金を持たないのが自然なのではなくて、自分を通って行きたいと言っている分だけお金を通してあげるのが自然なのです。そういうわけですので、仮にこのサイトが完成したら、コトリコちゃんも自分の文章には正当な分の印税を得るほうが良いし、サービスを運営するなら正当な分の手数料を取ってください。


最後にこのサービスが出来た場合だれが喜ぶかをみてみますと

・文章書きは自分の文章が大勢に読まれるし、良い絵をつけてもらえるし、複数の種類の絵がついたバージョンが出版されて印税も入り嬉しい。手間もかからない。

絵描きは自分が気に入った文章に絵を付けられて、大勢に見てもらえて出版もされて印税も入り嬉しい。手間もかからない。

・コトリコちゃんは自分が作ったサービスが利用されていい作品が出るのを見られるし、自分の作品もついでに世に出るし、サイト運営で大金も入るし、眠れる凄いやつもたくさん発掘できるので嬉しい。

・コトリコちゃんに協力してサービスを作った人は、自分が作ったものが世に出てブレイクして、たくさん報酬も得られて嬉しい。

・コトリコちゃんの家族はコトリコちゃんがお金持ちになって嬉しい。

・ 出版業界は新たなジャンルが出来て売り上げが増えて嬉しい。

・ 読者は良い作品をたくさん読めるようになり嬉しい。

・ 私はアイデア料をもらえるかもしれないし、皆が嬉しいので嬉しい。


ということになります。

皆さんお喜びのご様子で、たいへんよかったですね。

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2007-06-06原因と結果はひとつである

bが存在するために必要な全ての要素がaであるとき、

「aはbの原因である」

と定義する。

aがbの原因であるとき、明らかに

「aが存在しなければbは存在しない」

また、aはbが存在するために必要な全ての要素であるので

「aが存在すればbも存在する」


ここで上の2つの対偶をとると

「bが存在すればaも存在する」

「bが存在しなければaは存在しない」

となる。

よって、aがbの原因であるとき、bもaの原因となっている。(aの存在はbの存在必要十分条件


これはどういうことであろうか。

宇宙存在しなければ私は存在しない。宇宙存在するなら私が存在する。」

これが正しいとき、

「私が存在しなければ宇宙存在しない。私が存在するなら宇宙存在する。」

というのが正しいということになる。


よく、「私が死んでも世界は何も変わらない。」や、「私が初めから存在していなかったとしても世界は今とまったく同じような様相を呈していただろう。」などと言われるが、一体どこがおかしいのだろうか。

これらは、「自分が存在しなかった場合には自動的にそれに変わるようなものがその空いた場所を埋めている」ことを無意識に想定している。また、これから死ぬことと、今存在していないことはまったく別の話だ。

例えば、「今」あなたがこの文章を読んでいるディスプレイ存在しなかった場合について考えてみる。ディスプレイ存在しない未来過去やの状態ではなく、「今」ディスプレイ存在していない状態だ。

この場合、ディスプレイ存在していないことに付随して、幾つかの事柄が存在していないことになる。例えばあなたがそのディスプレイでこの文章を読んでいるという行為が存在しなかったことになる。また、そのディスプレが今の場所に来るまでに運ばれてきた行程が存在しなかったことになる。そのディスプレイの原料があった産地にそのディスプレイ分の原料が存在しなかったことになる。その原料がそこにあるために辿ってきたすべての事柄のうち幾つかが存在しなかったことになる。そしてこの連鎖を辿っていくと、ついには宇宙存在しなかったことになる。

さて、「そんなことはあるはずがない、このディスプレイ存在しなかったとしても、他の同じようなものがその位置を占めていたはずだ」、というのは誤りである。これは、「万有引力の法則が存在しなかったとしても、私は同じように存在しているだろう。万有引力の法則が存在しなかったとしても、他の同じようなものがその位置を占めていたはずだからだ。」というようなものだ。

これに対し、

「その例えは同等ではなく、間違っている。なぜなら万有引力の法則は私が存在するより先に存在しているために私の存在する原因の一部であるが、ディスプレイ宇宙よりも後に出来たために宇宙原因にはなっていない。」

という反論が考えられる。

しかしこれは、時間は一定方向に流れるという勝手意味づけを採用している考え方だ。それはつまり「時間が一定方向に流れているように私が感じるから時間は一定方向に流れているのだ」、と主張するようなもので、それなら最初から、「aがbの原因のときでもbはaの原因ではないように私が感じるからbはaの原因ではない」と主張してこの文章を読むのをやめればよい。

物理的には時間に決まった方向などは無く、前後対称である。熱力学第二法則によって一方向に定まるという説もあるが、この法則は証明された訳ではない単なる経験則であり、宇宙が膨張から収縮に転じれば逆転するかもしれないような弱い経験則であり、時間の方向を決定するような力は無い。

したがって、過去未来の一方的な原因であるとはいえず、それと同等に未来過去原因である。存在には、「先」や「後」はないのである。

偶然という考え方があるが、「偶然」とはつまり「その事柄について私には規則性が見出せない」ということである。そもそも全知者しか「偶然」が存在することを示せないが、仮に「偶然」が存在する場合、無から有が無秩序に生まれることも肯定しなければならないため、存在しないと思われる。)

つまり、原因結果は同一であり、ひとつである。

そしてこのことから、次のようなことが分かる。

存在するものは全て相互依存関係にあり、どれかが欠ければ全てが存在できない」

この世界となんらの関係を持たない存在があれば、その部分とは因果関係を持たないが、そのような部分は決して観測されることは無い(観測できたら影響を受けるため)ので、気にする必要はない。

これはつまり

神の存在証明においては、E1=Eである」

ということである。

また、

「私が存在しなければ、宇宙存在しない」

「私の存在は、宇宙存在する原因である」

ということから、宇宙内の関係性において、又、宇宙と私の関係において、類似性が見られることが推察される。

(上にあるが如く下にもかくあり)(as above so below)

人間宇宙の縮図である)


「神が存在しなければ、私は存在しない」

「私が存在しなければ、神は存在しない」

「私が存在する為、神は存在する」

これらのことから、神の性質から私の性質が帰納的に導かれるように、私の性質から神の性質も演繹的(帰納的)に導かれる。

(父は子を知り、子は父を知る。)

(神を見た者は誰もいない。しかし私を見た者は父なる神を見たのである。)

(何者も神から離れては存在しない。)

(あなたたちは神の中に生き、神はあなたたちの中に生きてい給う。)

(私と父なる神とはひとつである。)


「私が存在しなければ、あなたは存在しない」

「あなたが存在しなければ、私は存在しない」

「私が存在する為、万物が存在する」

存在において、そして生命において、分離というものはどこにもないのである。

(私は生命である。)(I am the Life.)

(神の中に分離はない。多の中に自己自身を表現しているすべてなるものがあるだけであり、神の意識がその創造物のひとつひとつに顕れつつあるのであって、その創造物のひとつひとつは神の意識の中に生存している。)

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2007-06-01コメントまとめ2

ここは、神の存在証明 のコメント欄からの続きです。

IWAKEIWAKE2007/06/01 22:48>今はIWAKEさんの論理に従って議論しているので

私はずっとY.M.さんがゲーデルの論理を応用しようとしているのだと思っていました。属性についての私の発言はすべてそのためのものです。私の論理についての説明は、原因という単語をどう使うかという話だけですね。私の論理でなら、もちろん「存在する」と「原因である」という属性のみが問題になりますね。

>「原初に」秩序を備えた何者か

「物質それ自体が他の何者にもよらず他の物質の原因たり得ると考えています。」ということから、その何者かは物質であると考えられているのだろうと考えて発言しました。その「何者か」を物質に限定せず、例えば「様々な状態に変化する可能性を持った真空状態」というようなものを想定してよいのなら、
>「原初に」秩序を備えた何者かがあらかじめ実在し、「後に」それが現在の形に変化した。我々の周りの時空や物理法則はその秩序に従って生じている。
というのは正に私の考えている通りのことです。

なんだか少し話がかみ合っていないようです。
「論理を進める上で矛盾が生じ得るか得ないか」という点に関してでも、その他のことでも、Y.M.さんが取り上げたい話題がまだあれば再度示してくれませんか。

Y.M.Y.M.2007/06/01 23:52>Y.M.さんがゲーデルの論理を応用しようと
IWAKEさんの与えた条件とゲーデルの与えた条件を共に成り立たせて折り合いをつけれるかどうかを確認したかったのです。
ゲーデルの証明とIWAKEさんの証明で本質的に何が同じ部分で何が異なる部分かを詳しく確認したかったのです。

物質という言葉が語弊を生んでしまったと思います。反省しています。
私がそう呼んでいる物はより正確には量子論で言う状態ベクトルで表現される対象です。私の唯物論的な立場での存在物はそういったものになります。長々とご迷惑をお掛けしました。

>「論理を進める上で矛盾が生じ得るか得ないか」
についても、いろいろ考えていたのですが、
IWAKEさんの証明には「ツォルンの補題」と呼ばれる物が含まれていると思います。
「ツォルンの補題」とは、Wikipediaによると
「任意の空でない帰納的順序集合は極大元を持つ」
という定理なのですが、
「帰納的順序集合」は順序関係で作られていくような集合で、因果関係により存在物の間の順序を定めた場合、Eはまさに帰納的順序集合になると思います。この場合「極大元」は根源である神にあたります。この定理はIWAKEさんの証明の内容と同じですよね。
しかし、「ツォルンの補題」を無限集合に適用した場合には現実的に非常識な結果を招く可能性もあるそうです。
これについてはゲーデルの証明の方も含めて引き続き調べてみたいと思います。

IWAKEIWAKE2007/06/02 00:54なるほど、了解しました。

私の証明は、ゲーデルの証明における肯定的属性を、あらゆる属性についてではなく、「存在する」「原因である」という属性に限定した場合と言えるかもしれませんね。属性を限定しない場合、存在を証明しようとする神に様々な望ましい性質(例えば愛情深い、等)を想定することが出来ますが、同時に矛盾無き状態を保つためにはいびつな形を想定せざるを得なくなる危険があるように思います。私は安全の為と、証明を簡単にするために、属性を限定したと言えるかもしれません。

ツォルンの補題についてはお任せします。おそらく極大元が部分的創造主に対応し、創造主全体の集合=E1を一つの要素と見れば最大元にあたり、Eが全順序集合か部分的順序集合かは不明、ということになるでしょうか。
バナッハ=タルスキーのパラドックスについては、「Eを存在する全て」と定義していることにより問題にならないのではないかと楽観しておりますが、何か問題が見つかりましたらご連絡下さい。

Y.M.Y.M.2007/06/02 08:42対象が有限だったら何も問題ないと思うのですが、無限が絡むと論理の本質もがらっと変わってくるような感じがします。現実に対する問題が絡むだけに慎重に考えたいところです。

Y.M.Y.M.2007/06/02 08:56>ツォルンの補題について
Eが有限集合と決まっていれば極大元があるというのは自明で、IWAKEさんの証明自体に問題はまったく無いのですが、無限集合でもありうるという場合には選択公理を前程としない限り証明は成り立たなくなるということになると思います。

IWAKEIWAKE2007/06/02 11:10Eの定義が「存在する全て」であるため、例えばEの元から別の同じE’が作れても、それは最初のEが実は「存在する全て」ではなかったということになり、新たに「E+E’」をEとみなして、・・・、という操作を無限に繰り返した場合の全集合が真のEだと捉えればよい、ということになるのではないかと思います。
又、仮に極大元が無くとも、その場合極大元を持たない部分集合全体を一つの要素とみなしてE1に含める定義なので問題ないと思います。

Y.M.Y.M.2007/06/02 17:04「この証明が数学的にどう表現されうるか」という点で悩んでいます。
仮に数学で表現できるとすれば、それに含まれる公理は現実の真理の一つでなければならないはずです。(単純に選択公理を真理としてよいかどうか?)
仮に数学では表現できない証明だとしたら、その正当性をどう評価すればよいのかわかりません。(言葉遊びは常に矛盾を生じます)
細かいことに拘ってて申し訳ありません。

>仮に極大元が無くとも、その場合極大元を持たない部分集合全体を
ツォルンの補題の待遇を取ってみると、
「極大元を持たない集合は空でない帰納的順序集合でない」
ことを主張します。
これを仮定しないと元のEが「帰納的順序集合でない」かどうか分からないため、「極大元を持たない部分集合」が必ず取れるとはいえません。
言葉で書くと詭弁に見えるんですが、式で表現されてしまいます。

無限に関する純粋に論理的なパラドックスに、「全ての集合の集合」(カントールのパラドックス)や「自分自身を要素として持たない集合の集合」(ラッセルのパラドックス)があります。これらは所詮は机上のパラドックスにすぎないのですが、Eに何かパラドックスが生じたらそれは現実の物になってしまいます。
個人的には現実の事柄に対しては「無限」というものをばっさり切り捨ててしまえないかなあと思っています。

Y.M.Y.M.2007/06/02 17:20訂正です
待遇→対偶

IWAKEIWAKE2007/06/02 18:13私の証明では、Eは必ずしも帰納的順序集合でなくともよいのです。極大元を持たない集合があっても、そこは(独在物として)そのままE1に含めてしまうという定義なのです。
>またこのとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
で説明している部分にあたります。


カントールのパラドックスについてですが、これは「存在するすべてをEと置く」と、現代の数学では取り扱えなくなる、ということなのかもしれませんね。

Y.M.Y.M.2007/06/02 20:46証明に用いる論理体系がはっきりしないことは問題ではありませんか?

>Eは必ずしも帰納的順序集合でなくともよいのです。極大元を持たない集合があっても、そこは(独在物として)そのままE1に含めてしまうという定義

ともかくそういう改良を重ねて最後に集合Eが完成出来たとします。
そのEは帰納的順序集合ではないのですか?

帰納的順序集合は、
任意の全順序部分集合E’をとった場合に、
Eの要素でE’の全ての要素より大きな物が存在する
という性質を持っています。
言い換えれば、
因果関係で繋がった部分系列を任意にとった場合、それら全ての原因となる要素をいつでもEの中に見つけられる
という性質です。
問題はこの性質を根拠としても、Eの極大元を見つけられるかどうかは一般に自明ではないということです。

IWAKEIWAKE2007/06/02 21:23>そのEは帰納的順序集合ではないのですか?
帰納的順序集合であってもよいし、なくてもよいと考えています。

>帰納的順序集合は、任意の全順序部分集合E’をとった場合に、
Eの要素でE’の全ての要素より大きな物が存在する

E’の要素と大小の比較可能な要素がEの他の部分に無い(因果関係が無い)ようなE’がEの中に存在しても構いません。そのようなE’はE1の中へ含めてしまいます。そうしたとしても、結局E1とE2の関係には影響ありませんから。

Y.M.Y.M.2007/06/02 21:56あげられた根拠
>E’の要素と大小の比較可能な要素がEの他の部分に無い(因果関係が無い)ようなE’がEの中に存在しても構いません。
は帰納的順序集合であること
>>帰納的順序集合は、任意の全順序部分集合E’をとった場合に、Eの要素でE’の全ての要素より大きな物が存在する
の否定にはなっていないと思います。
Eの他の部分とは言っていません。E’の中でも外でもよいがE’のそれぞれの要素より大きなEの要素が必ずあるということです。

極大元が複数あるかどうかは問題にしていません。
極大元(=他の原因によらないもの)の存在が、この性質だけからは言えないということです。

Eに対し、
どんな因果系列を見てもその根源は存在する⇒他に因らない存在がある
という論理を使うならばそれには選択公理が含まれているのではないかと思います。

IWAKEIWAKE2007/06/02 22:26ということは
>それぞれの要素より大きなEの要素が必ずあるということです。
ここでいう「より大きな」は、「より大きいか等しい」と考えていいのですね?

つまり問題は、
1.私の証明は選択公理を前提としている。
2.選択公理はEが無限の場合バナッハ=タルスキーのパラドックスを抱えている。
3.Eは無限である可能性がある。

ということでいいでしょうか。

私としてはEは当然無限だろうと考えています。そして、2のパラドックスも特に問題だとは思っていません。それは、同じ初期条件から無数の異なる宇宙が生まれたという多世界解釈を示唆するものではないでしょうか。

Y.M.Y.M.2007/06/02 23:07>>それぞれの要素より大きなEの要素が必ずあるということです。
>ここでいう「より大きな」は、「より大きいか等しい」と考えていいのですね?
そうです。
つまり有限集合に関しては非常に当たり前の論理です。
しかしそれは無限集合に対しては当たり前でないということです。

私としては無限というものが人間の想像の産物に過ぎず、さらにはまともな概念ではないという気さえしているので、Eが有限に収まるような解釈も探しているのです。
多世界解釈についても起こりうることは非常に沢山あるが無限ではないという解釈も出来ます。
他には、例えば水が連続体に見えても有限個の水分子の集まりであるように、時空が連続体に見えてもそうでなく、ミクロには不連続で統計的にごちゃごちゃしたものなのではないかとも考えています。水分子はランダムな運動をしていても水は流体力学に従って秩序ある運動をしますから。

IWAKEIWAKE2007/06/02 23:32確かに、多世界解釈でもEが有限になり得ますね。私も今のところ、Eが無限である必然性は示せません。
ただ、Eの定義が「存在する全て」である以上、カントールのパラドックスと無限の問題は避けられない気もします。

IWAKEIWAKE2007/06/03 10:44これは、Eは集合ではなく(集合を超えた)クラスだ、ということになるでしょうか。

Y.M.Y.M.2007/06/03 12:33>ただ、Eの定義が「存在する全て」である以上、カントールのパラドックスと無限の問題は避けられない気もします。
>これは、Eは集合ではなく(集合を超えた)クラスだ、ということになるでしょうか。
なんにしてもそこに用いられる概念をはっきり定義しなければ論理は展開できないと思います。
クラスなる概念を用いてうまく定義できるかは分かりません。

少なくとも人間の立場からは「無限にあるもの全ての実体」など捉えようもない概念ではないかと思います。
例えば、可能性が無限にある以上、ある存在の原因をさかのぼってもいつまでも根源にたどりつかない可能性があります。そもそも確認が原理的に不可能な物をEと置いて扱うことに無理がないでしょうか?

Y.M.Y.M.2007/06/03 12:50>ある存在の原因をさかのぼってもいつまでも根源にたどりつかない可能性
もうちょっと正確にいうと、
「任意の数Nに対し、N回直接の原因をさかのぼるまでに根源E1にたどりつけない可能性がある」

IWAKEIWAKE2007/06/03 15:23>そこに用いられる概念をはっきり定義しなければ

私がEを定義するために用いている概念は「存在する」と「全て」の2つだけです。そしてこの2つの言葉はどちらも非常に基本的であり、その意味は自明だと考えます。非常に基本的な幾つかの言葉の意味は自明であると考えないと、何かを言語で表現することは出来ませんからね。そして、これらの言葉をよりシンプルな他の言葉を用いて定義するというのは不可能に思われます。ある意味、言語の限界ではないでしょうか。

>ある存在の原因をさかのぼってもいつまでも根源にたどりつかない可能性があります。

この場合は、
>無限に続くなら、とりあえずビッグバンから先全部をひとくくりにしてE1とすると規定しましょうか。
と言っている通りです。
念のために証明に付け加えておきましょうか。

神の存在証明(ver.4)初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める。

またこのとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
また、3つ以上の部分についても、それらが相互依存の関係にある場合には、それらを一体とみなしてE1に含める。(例えばEaはEbの原因であり、EbはEcの原因であり、EcはEaの原因である場合、その三者は一体とみなす。又、EaとEbがEcの原因であり、EcはEdの原因であり、EdはEaの原因である場合は、EbのみがE1に、他の3つはE2に含まれる。)

又、この宇宙はこの宇宙自身の原因となっておらず、かつその原因を辿る操作を無限に行うことが出来る時、この宇宙の外にありこの宇宙の原因となっている部分全てをE1に含める。又、この宇宙の外にありこの宇宙と因果関係のない部分のうち、その原因を辿る操作を無限に行うことが出来るものがあれば、その部分はE1に含める。

さて、E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2及びEは存在しない。

ところで、この世は完全な無ではない。

よってE=0でなく、Eは存在する。

ゆえにE1は存在する。

従って神は存在する。

神の存在証明(ver.4)終わり

Y.M.Y.M.2007/06/03 16:16集合という言葉も自明な物であると考えられたために矛盾が生じたのです。
私には「存在する」という言葉の意味が人の数ほどあると思います。
そしてそれが矛盾概念であれば論理はもはや成り立ちません。

>無限に続くなら、とりあえずビッグバンから先全部をひとくくりにしてE1とすると規定しましょうか。
「存在するものは無限に続く」場合は都合が悪いから
「存在する」という意味を作りかえて、「存在するものは無限には続かない」としたのですか?

IWAKEIWAKE2007/06/03 16:56「存在する」という言葉を、存在するという意味を持たない言葉の組み合わせで定義する方法は私には今のところ思いつきません。「在る」と「無い」は互いに依存しているでしょうから、「無くは無いこと」と定義しても仕方ないでしょうし。

>「存在するものは無限には続かない」としたのですか?
いいえ。単に原因を無限に辿れる場合について、E1とE2の線引きを定めただけです。これを付け足さないと、有限回原因と辿れば第一原因に行き着く場合についてしか述べていないことになりますからね。

Y.M.Y.M.2007/06/03 17:09全ての前程から推論を経て結論に至る過程を論理記号で表現するすることは原理的に不可能な種類の証明ということでしょうか?

IWAKEIWAKE2007/06/03 17:22「存在する」「全て」「原因である」「この宇宙」を論理記号で表現できるなら、証明全体も表現できるのではないでしょうか。それが可能なのか、現代の論理学では不可能なのか、原理的に不可能なのかは分かりませんが。

Y.M.Y.M.2007/06/03 17:43それなら少なくとも私には証明を否定する術も肯定する術も持ちません。お付き合いいただきありがとうございました。

IWAKEIWAKE2007/06/03 18:23「全ての集合の集合」が「集合」ではなく「クラス」になるといったあたりの話がまとめられていました。ご参考までに。
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_024.htm
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_028.htm
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_032.htm
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_036.htm
貴重なご指摘を頂き、ありがとうございました。

IWAKEIWAKE2007/06/06 21:46「全ての集合を含む集合」は「集合」ではなく「クラス」になる。
「全てのクラスを含むクラス」は「クラス」ではなく「メタクラス」になる。
「全てのメタクラスを含むメタクラス」は「メタクラス」ではなく「メタメタクラス」になる。
・・・
と続いていくことから、存在する全てであるEはメタメタメタ・・・と無限に続く「無限メタクラス」と言えるかもしれません。或いは、有限回数メタをつければそれ以上続けずとも全てを内包するような最終最大の状態になり、それがEといえるのかもしれません。
いずれにせよ、現代の論理学で取り扱えるものではなさそうです。

Y.M.Y.M.2007/06/07 11:15無限は論理学と相性が悪いようです。
現代数学では無限に関する性質をいくつか仮定として定めていますが、
それらの仮定が正しいかどうか証明することは出来ないようです。

tmcatbirdtmcatbird2010/02/13 01:47神は存在するか。では神とは何でしょうか。その問いに答えるには、まず私とは誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱い悲しいとか感じている存在が私です。では、赤いとか熱いとかは物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。心の外の世界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている音はありません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭い感覚は外の世界にはありません。硬い柔らかいと言う事は、在るでしょうか。それもありません。次々に心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。仏教では色即是空と言います。貴方が見ているものは、心が作り出したもので、決して心の外にある存在ではありません。心が作り出したものは、消えたりもします。現れたり消えたりするので、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。物質は無から有は生じません。有か無かのどちらかです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空であると言っています。概念や意思も空なる存在です。ですから、赤いとか熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花瓶を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花瓶に対応する動きをします。私は、その花瓶に対応する物質の動きを感じて、花瓶を感じるのです。カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが自分です。決して、テレビが自分なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花瓶を感じているのが、自分なのです。脳と言う物質そのものが、花瓶を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。熱いとか悲しいと言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。同様にもし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
仏教ではこの事を、不生不滅・不増不減・不清不穢と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。清くなるものでも、穢れるものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りませんが。
私が感じている感じは感じ取る事が出来ます。しかし、それを感じている私自身を感じる事ができるでしょうか。達磨はインドから中国に来て、皇帝に「お前は誰か。」と尋ねられました。すると「そんな事は、私は知らない。」と答えました。私自身はどの様にしても感じ取ることは出来ません。
心の中の世界そのものが、私の一部なのです。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。仏教では、その1人を小さい私と呼びます。心の中の世界に居る敵も、私の一部なのです。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言ったのです。
人間より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は私の一部にしか過ぎないのです。限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。仏教では、仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えないと言いました。

IWAKEIWAKE2010/02/13 03:01コメントありがとうございます。
この記事ではとても限定的な神について論じていますが、このサイトの左上からリンクを貼っている他の幾つかの記事を読んでもらうと、もう少し広い意味での神についての私の考えなどを楽しんでいただけるかもしれません。

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