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とらっくばっく

2007-05-27妄想のレビュー

ノッフ! - ぼくばなのレビューを書いて損をしよう


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これが僕が君たちのためにハックしたアマゾンページなんです。

だからして君たちのブログにこれを奇麗に表示したりして、レビューをしようにも内容が分らないからレビュー出来ませんね。

だから想像レビューを考えて、妄想レビューを書くこと。

asin:4862390358

さっきこの本を想像でちょっと読んだら

おおーぅい!イカリを上げろぉーう!森が出るぞー!こなたこなた、えっへんばっくの外、シューガーダックゾーン。胃・リテバラシクテ・青い空。なんと!それはまことか・フミ。しゅ・しゅ・しゅのばびっち。ぜいだ~い、そうだ~い、クークー。か・カ・カペナッツォ。振りかぶった第一投は右から左へ駆け抜ける淡く美しい大型4輪自動車アイシャドーの咲き乱れ。話せば喋る。ぞーりんごーごーやうだーじょ、あるはんげりすくはうだーじょ、フム。そうかと思いきやこれはどうなんだ?イカリはまだかー!!

とか書いてあったよ。なかなか楽しげですね。

でも実物にはもっと意味の通る文章が書いてあると思う。

今なら買わなくても予約するだけで、アマゾンブランドの注文確認メールがもらえるみたいだから、みんなも予約すればー?

トラックバック - http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20070527

2007-05-03どんなに科学技術が進歩して生産性が向上しても人々が長時間労働から

[]どんなに科学技術進歩して生産性が向上しても人々が長時間労働から解放されない7つの理由

 人々の生活が便利で豊かになり皆が幸福になれることを願って多くの人が努力を続けてきた結果今日科学技術の発展がある。便利な道具、機械、新技術、新エネルギー、等々。

 これによって人間生産性は飛躍的に向上し、一人の人間が生み出すことが出来る価値の生産性は何十倍にも、何百倍にもなった。(例えば、単純比較は出来ないが、360馬力のトラックを運転する人間は、およそ馬360頭分の荷物運搬能力がある)

 それならば、人間生きるために働かなくてはならない平均時間は、原始時代の数十分の一、数百分の一になっていてもおかしくないはずだ。ところがそうではなく、


狩猟採集民族―1日2時間労働*1

現代の日本人―1日6時間労働*2 


というように、逆に大きく増えている。これがなぜなのかを、7つの要因から説明する。



理由1 お金お金のあるところに集まるから

歴史上のあるときから、通貨が使用されるようになった。これによって生産した価値(食料等)を容易に運搬、貯蓄できるようになった。すると必然的に、富の集中が起こる。一人の人間が食べられる量には限界があるし、食べ物はすぐに腐ってしまうため、それほど多くを所有していても意味が無い。しかしお金としてなら、理論無限に蓄えることが出来る。(1万円札、100万円札、1億円札・・・と作っていけばよい)こうして力のある者は、自分が使う以上の価値を集めるようになった。

 お金の性質と人間の性質から、資本主義経済というものが生まれた。この仕組みには、基本的に次の性質がある。

お金お金のあるところに集まる」

これは、地球上では水が高きより低きへ流れるのと同じように、資本主義経済という状況における基本的性質である。お金があると、人を雇い、その人が生産した価値の一部を回収することで、自分で働かなくても元のお金より増やすことが出来る。また、土地の所有権を得、その土地を人に貸すことで、自分で働かなくても元のお金より増やすことが出来る。このようにして、一定量を超えたお金雪だるま式に増えてゆく。

 お金とは、社会的権利である。それは、社会において他の価値と交換できることの保証である。そしてその権利は、自分の子ども相続することが出来る。従って、お金持ちの家に生まれた子どもは、確実ではないながらも、生まれながらにお金持ちであり続ける権利を持っているといえる。ではその権利とはなにか。それは他の人々から価値の提供を受ける権利である。

 さて、お金持ちの家に生まれなかったあなたがたは、生まれながらにお金持ちの家の子に対して社会的に借りがある。これを一生のうちで、知らず知らずのうちに返していくことになる。こうして、富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなり、貧富の格差は大きくなっていく。

 日本の国土は約38万k㎡である。これを人口1億3千万で割ると、約3000㎡になる。つまり、土地の個人所有をやめ、赤ん坊が生まれたら国が土地を無償で貸し与え、死んだら国のものに戻るという公平な方式にした場合、あなたの所有する土地は3000㎡である。

 道路や役場等、公共の目的のために使われる部分はあらかじめ差し引いておくことにすると、日本の国土の3.5%は道路であり*3、国土の1/4が国有であり*4、その他産業活動のための土地もあらかじめ考慮すれば、個人が自由に使う分は半分くらいになるかもしれない。それでもおよそ40m四方の土地があなたのものだ(そのうちの半分以上は森林だが)。

 ではあなたは、生まれながらに1500㎡ほどの土地を得られたであろうか?或いは、4人家族に生まれたなら、その一家は6000㎡ほどの土地を持っていたであろうか?もしこれより少ないならば、公平分配の場合に比べ、あなたはその分だけお金持ちに価値を搾取されることになる。もしこれより多いならば、あなたはその分だけ貧乏人から価値を搾取できる。家賃、土地代などの形で。

 これは土地を例に上げての非常に大雑把な説明だったが、それ以外でも資金が多いほど資金を増やすのに有利になっている。例えば投資においても、同じリスクとリターンの金融商品でも、大きな額を投資することにするだけで、利益率は大きく設定されている。税においても、持っている資金が多いほど、多くの多様な節税が可能になり、実際に払う利率を低く抑えることが可能になる。

 このようにして富を集めた人々は、権力を持つようになる。そして権力を持つものが、経済制度を作る。では彼らはどの程度の搾取加減にするだろうか。それは、暴動や革命が起きずに治安が保たれる程度、すなわち人々がなんとか耐えられる程度の長時間労働をすれば、そこそこの生活を送れる程度の加減に設定する。昔風に言えば、百姓は生かさず殺さず、ということだ。どの程度が生かすで、どの程度が殺すにあたるかは、時代によって変わってくるが、制度を安定して保てる限りにおいて最大限に搾り取ることになる。

 これらは人間の基本的性質であるので、良心に期待する、等というのは不可能だ。例えば次のようなボタンを思い浮かべて欲しい。そのボタンを一回押すと、全ての日本人から本人が知らないうちに1円ずつ徴収し、あなたの貯金が1億3000万円ほど増える。さて、あなたがこのボタンを持っていて自由に押すことが出来るとき、あなたは押さずにいられるだろうか。どんなに貧乏な人とはいえ、1円取られたくらいでは別に彼の生活に何の影響も無いだろう。むしろ気付きもしないだろう。そしてあなたがボタン押したことを、あなた以外の誰にも知られないとなれば、あなたが幸福になるだけで、だれも不幸にならない。正直に言って、私といえどもこのボタンがあったら一度も押さないとは言い切れない。むしろ、軽い気持ちで5,6回は押してしまうのではないだろうか。そのボタンを押す権利を、ライバル達と競争して手に入れたり、努力努力を重ねて手に入れたり、あるいは先祖代々受け継いできたりしたという場合には、なおさら押すことに抵抗は少なくなるだろう。そして是非ともその権利を手放さないようにしたいと思うし、自分の子どもにもそのボタンを押す権利を引き継ぎたいと思うだろう。

 さて、公共事業に関する利権を持っているということは、このボタンを持っているということである。また、1億円を節税する施策を講じるというのは、このボタンを押すということである。このボタンを押すことは、非合法である場合もあるが、合法な場合も多い。そして、このボタンは多くの人が持っており、皆がたくさん押している。自分の家族や周りの人がたくさんこのボタン押している場合、自分だけが押さないでいることが出来ようか。

 こうして多くのボタンを所有する人がたくさんボタンを押すために、だれもボタンを持たない場合に比べ、あなたの賃金は今の水準まで下がっており、あなたの払う税は今の水準にまで上がっている。


このように、いくら生産性が上がっても、余剰分はすでにお金が集まっている場所に集まるので、人々は長時間労働から解放されない。

 相続税率を高くすることによって富の集中を緩和することも可能ではあるが、組織における権力等、様々な課税されない形に権利を置き換えて相続していくことも可能だ。また、世界に複数の国家があると簡単にはいかない。

武富士元会長長男の追徴課税、1330億円を処分取り消し : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

このように、税率の低い国へ移住すれば良いだけなので、税率を上げるだけでは金持ちが日本から逃げてしまい、トータルでの税収が減ることになってしまうためだ。



理由2 価値破壊技術進歩するから

科学技術進歩によって価値生産の効率が飛躍的に高まると、同時に価値破壊の効率も飛躍的に高まる。

 この世に武器が石オノしか存在しなければ、自己防衛の為には石オノを一本準備すればよい。

 自国と利害の対立している国が、自国を射程に入れた大量の核ミサイル群、強力なミサイル防衛機構、最新の設備を備えた大規模な陸海空軍、情報機関、等を配備している場合、自己防衛の為には同等のものを準備しなければならない。さらに相手が毎年軍事技術研究と軍備拡大を行っている場合、自己防衛の為にはそれと同等のペースで自国の軍備を強化しなければならない。

 又、ひとたび戦争が始まれば、そこで使用される兵器の破壊力が高いほど、破壊される価値は大きくなる。莫大な価値がつぎ込まれた兵器を使って、莫大な価値がつぎ込まれた相手の兵器を破壊するのだ。

 また、兵器以外で破壊されるものも、非常に価値が高いものになっているため、そこで失われる価値も大きくなる。

 ある町の建物がすべて竪穴式住居であれば、その町が敵に焼き払われても事前に住民が避難していればそれほど多くの価値は失われない。

 ある町の建物がすべて地上300m以上の高層ビルであれば、その町が敵に焼き払われると事前に住民が避難していても非常に多くの価値が失われる。

 そして、人間一人が殺された場合の経済的損失にも違いはある。人間の命自体の価値は同じであったとしても、その人に対してそれまでにつぎ込まれた経済的価値は異なる。10年以上の教育という経済価値をつぎ込み、その後何年間も莫大な費用をかけて軍事訓練をした兵士を、同じように価値をつぎ込んで訓練されてきた兵士が殺すのだ。

 このように、対立する国家がある限り、それぞれの国家軍事費用どんどん増やしていかなければならない。では軍事費用はどこまで増えるのだろうか。それは、「これ以上多く働くくらいなら、多少軍事費用を削って他国から侵略される危険性を増やすほうがマシだ」と多くの人が思う程度、つまり人々がそれなりに長時間労働をすれば賄える程度までだ。こうして、いくら技術進歩しても、浮いた時間は軍事費用捻出のための労働に当てられるために、全体としての平均労働時間は短くならない。


 そして、科学技術進歩すると、環境破壊技術進歩する。

小規模な生産活動では、それが与える地球環境への影響は、地球の自浄能力の範囲に納まる。しかし生産性が上がり、大規模な生産活動が可能になると、地球環境破壊の影響が無視できなくなってくる。大気汚染、水質汚濁、砂漠化オゾン層破壊、等等。そしてこれら地球環境の修復には多くの資金、技術、労力が必要とされ、しかもそのための技術を開発するためにはさらに多くの価値を投入しなければならない。

こうして、生産性の向上自体が、さらに多くの価値を生産する事を要求するようになる。



理由3 生産性が上がると無駄も増えるから

 生産性が上がると、少ない労力で価値生産が出来るようになるために、多様な製品が作られる。それらの多くは、必要だから作られるのではなく、まだ作る余裕があるから作る、ということになる。

 殆ど使われていない高速道路や大きな橋を見たことがあるだろうか。それらは必要だから作られたのではない。作れるから作ったのだ(そしてそれを決定する人に個人的に利益になるから)。それらを作るために消費された経済価値はどこから来たのか。それは、生きていく為に必要な分以上に生産された余剰価値から来た。

 市場には、人々にとって必要という訳ではない商品で満ち溢れている。あなたは、必要というわけでは無いけれどとりあえず、なんとなくある商品を買ったという経験を持っているだろうか。その商品を買うための価値、その商品を作ることを肯定することになった経済価値はどこから来たのか。それは、あなたが生きていく為に必要な分以上に生産された余剰価値から来た。

 このような例もある。

2千円札、なぜ使われない?…日銀に8割の7億枚眠る

新紙幣に読み取り機械を対応させるため等で経済効果が数兆円あったとしても、その資金の出所は人々の長時間労働による余剰価値である。結局これは、長時間労働してゴミを作ったということだ。

 このように、生産性が上がると無駄生産活動と無駄な消費活動も増えてしまうために、全体としての労働時間は短くなりにくい。



理由4 要求される価値の量も増えるから

 人は、売られていないものは買おうとしないが、売られているものは買いたくなる。

 人はだれしも、出来ることならもう少しいいものが欲しいと思っている。まずい水しかないならそれを飲むが、おいしい水もあるならそちらを飲む。たとえ少し高くても、それが支払える金額であるならそちらを選ぶ。

 もう少しいい家が買えるなら、そちらを買う。もう少しいい演奏が聴けるなら、そちらを聴く。もう少しおいしいものがあるなら、そちらを食べる。もう少し面白いものが見られるなら、そちらを見る。たとえもう少し高くとも。

 ではどこまでだったら高くても支払うのだろうか。それは、自分がそれなりに長時間労働をすれば買える程度の値段のものなら買うのである。あまりにも長時間働かなくては買えないほど高いものなら買わない。

 そしてこうした消費者の要求に応えるため、生産者も常によりよいものを開発、生産していかなくてはならなくなる。そのためには、自分がなんとか我慢できる程度の長時間は働くことが要求されていく。

 又、人間には好奇心がある。世界の全てを、どんどん広く、どんどん詳しく知りたいと願っている。そこで、非常に細かく、非常に広い範囲を探索していくことになる。別に、遠く離れた宇宙のどこかに何があろうとなかろうと、殆どの人にとってはどうでもいいことなのだが、一部の人にとっては興味のあることだ。そしてその一部の人お金を持っている。そのため、何万人もの飢餓を救うことが出来るお金を投じて、遠くの宇宙を探査する機器が飛ばされる。研究費用に予算を割く。宇宙の全てをマッピングし、全ての謎を解くためには、どれほど多くの研究費用を投じても足りないのだ。芸術というものも、生きるために必要な分以上の価値があるところで盛んになる。オペラでもバレエでもコンサートでも、観客の一瞬の幸福感のために莫大が価値が投入されている。経済的時間的余裕があればその分多くの芸術活動に投資することが出来、実際にそうするだろう。そのため、芸術活動が盛んな文化ほど余裕があると見ることも出来るが、結局生産性が上がって余剰価値が生み出されても、それらは趣味的活動に使われることになるため、労働時間短縮にはならないことになる。

 そしてまた、病気医療というテーマがある。人間には共通して、病を避けたいという欲求があるため、それを可能にする医療技術の向上に余念が無い。そして可能であれば、多少高くても出来るだけいい医療を受けて、長く生きようとするのである。高度な医療にはそれだけ高度な技術や設備が要求され、それだけお金がかかる。では、どの程度までなら高くても払おうと思うのだろうか。それは、「ある程度長時間働けば払える」くらいの金額までである。あなたの愛する人が病気にかかった。手術をすれば治る。手術の費用はいくらだったら払うのだろうか。あなたが毎日8時間20年間働けばなんとか払える金額だったら払う人が多いだろう。しかしあなたが毎日16時間50年間働かなければ払えない金額だった場合、あきらめる人が多いだろう。こうして平均的医療水準は、人々がそれなりに長時間働くと支払える程度の金額が要求される水準に落ち着くことになる。

 このようにして人々は、医療費を支払うためにも長時間労働からは解放されないことになる。



理由5 非生産年齢にあたる人の割合が増えるから

 科学技術進歩すると医療技術進歩し、平均年齢が上がる。すると、生産活動終了(定年)から死亡するまでの期間が長くなる。また、科学技術が進んだ社会では、そこで生産活動をするために要求される技術水準も高くなる。すると、生まれてから生産活動開始(就職)までの訓練期間(就学期間)が長くなる。つまり、全人口における非生産年齢の割合が高くなることになる。

 学校存在せず、子どもは家事や畑仕事を手伝い、大人も大抵40歳になるまでには怪我か病気で死ような文化程度の社会においては、5人の人間を養うためにそのうち3~4人が働いていた。しかし科学技術進歩すると、5人を養うためにはそのうち1~2人しか働けなくなる。しかも、5人の要求する経済価値は科学進歩に比例して高まっているために、生産性が向上していても楽にはならない。さらにまた、老人の要求する医療は高度化していくために、そのための資金はどんどん高くなる。

 こうして、科学技術進歩しても生産年齢に当たる人の労働時間は長いままとなる。



理由6 競争相手も進歩するから

 ある意味で、生存は戦いであり競争である。

科学技術進歩すると、競争相手の科学技術進歩する。あなたがライバルとこれまでと同等に戦うためには、技術進歩しても相手が労働時間を短縮しないようなら、こちらも短縮するわけにはいかない。

 軍拡競争の例でもあげたが、少なくともライバルと同等の時間働くようにしないと、勝負に敗れて滅びることになる。他の条件が同じ企業同士なら、社員の労働時間が長いほうが有利になる。1商品あたりの人件費が安くなるからだ。この原則がある以上、企業は出来る限り社員の労働時間は長くしようとする。従って労働者労働時間は短くなるどころか、逆に長くなろうとする。資本主義的自由競争を廃止し、計画経済にすればこの競争を無くすことは出来る。しかしそれは、技術進歩、商品の質の向上、を著しく阻害するために、他の資本主義の国々との貿易競争において敗北し、ソビエト連邦のように崩壊することになる。経済的に完全に鎖国するならばその問題も回避することが出来るが、それはつまり自国を守る軍事力を放棄することになる。計画経済の下では勤労意欲は低下するので、経済の発展は鈍くなる。すると、軍事開発に割ける費用も減少し、軍拡競争で遅れをとるためだ。

 武力無しで国の安全が保障されるならば、実際のところ非常に理想的な社会を作ることが可能だ。しかし人類歴史を見ると、非常に幸運な場所にあった小さな地域でないかぎり、国防力を持たない国は滅ぶか、植民地とされた。侵略的気質を持つ国家は、見逃してもいいほど小さなものでない限り、価値ある土地は手に入るものなら手に入れようとする。野生動物王国だった土地も、そこが人間が住むのに適していると判断されれば動物達を駆逐し、人間の街を作った。動物は僅かに柵の中に入れて、その希少さを眺めて楽しむだけになる。北米に広く居住していたネイティブアメリカンは、住みよい土地から駆逐され、僅かに居住区に定められた貧しい土地に残るだけだ。オーストラリアに広く居住していたアボリジニは、住みよい土地から駆逐され、住みにくい土地に残るだけだ。それらの土地も、もし石油や貴重な資源が埋蔵されていると分かれば、すぐに別なもっと魅力の無い土地へ追いやられるだろう。帝国主義的気質が減った第二次世界大戦以降も、国境線を引き替える為の戦争は後を絶たない。チベット中国に取り込まれてしまったが、それ以外でも世界中で紛争はあり、軍事力で勝ったものが多くの土地を得られる点は同じだ。朝鮮半島38度線現在の場所にあるのは、朝鮮戦争での両国軍事力バランスがそこでせめぎ合う強さだったからであるし、カシミール地域の分け方も、インドパキスタン軍事力バランスで決まっている。仮に日本が完全に武力を放棄してアメリカとの同盟も解除すれば、竹島問題はその領有を主張する韓国に占領されて決着するだろう。そして中国や他の国々が本州の領有を主張する日も遠く無いだろう。

 個人レベルで見ても、生存競争はある。より多くの資源と、よりよい異性を獲得する戦いだ。

 同等の条件で働く能力が等しい2人の人間が居た場合、より長く働いたほうがより多くの収入を得る。さて、他の条件が同じである場合、一日4時間働き月収が20万円である男性Aと、一日8時間働き月収が40万円である男性Bがいた場合、どちらが多くの女性の目に好ましいと映るだろうか。尚、Aは浮いた4時間で昼寝をするとしよう。

 通常、収入は多いほど好ましいとされる。そして他の能力が同じなら、収入は長く働くほど多くなる。よりよい異性を得るためには、自分の負担になりすぎない中では、なるべく多く働くほうが有利となる。長時間働くことが出来るということは、それだけ勤勉で体力があることの証明にもなる。また、他の要素が同じなら、長時間働くほうが出世しやすい。こうして、他の能力が同じでも労働時間と地位の開きから、収入の差はさらに大きくなる。

 収入が多いほど、子ども教育にかけられる費用も増える。よりよい教師、よりよい技能、より豊かな体験を与える機会を、金銭的理由で逃すことが少なくなる。学費さえ払えれば子ども希望する大学に行けるという状況でも、お金が無ければあきらめるだけだ。

 こうして、より長時間働くという性質をもった遺伝子なりミームなりは、そうでないものより生き残りやすいがゆえに、全体として長時間働くという傾向は減少しにくい。



理由7 仕事をしないと暇になる人がいるから


 一端長時間労働習慣化してしまうと、それをしていないと何をしていいか分からなくなってくる人がいる。また、仕事自体が楽しくて仕方が無い人もいる。こういった人々はそもそも労働時間を短くしたいと思わないし、しようともしない。従って、自発的に長時間働くようになる。すると、競争原理によって同じ職場の人も、競業他社の人も、長時間働かざるを得なくなってくる。そして又、ある程度長時間働くことが当然という文化も生まれてくる。こうして、労働者自らが、労働者に対して長時間働くことを要求するようになってくる。これでは労働時間が短くなるはずは無い。



まとめ

これまで見てきた理由によって、科学技術進歩しても人々は長時間労働からは解放されず、むしろ労働時間は長くなっている。

 では労働時間を短くするにはどうすればいいのだろうか。

働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ

働かなくても生きて行ける煉獄


等で描かれている働かなくてもよい未来は、来ることは無いだろう。仮に遠い将来殆どの作業を機械コンピュータ自動化して、人間が何もせずに衣食住を手に入れられるようになっていても、人間たちは更なる科学進歩のため、宇宙の探査のため、高品質の生活のため、寿命をのばすため、そして他人との競争に勝つための仕事からは解放されないからだ。(餓死者は居なくなるかもしれないが)

科学技術が究極的に進歩して、全ての人類が不老・不病・不死を手に入れることが出来たならば、さすがに労働時間は0になり得る。しかしそれは待ち続けるにはあまりに遠すぎる未来だ。

  現実的な提案として


むき出しの自由競争では人々は疲弊し貧困が拡大。自由競争を否定すると欲望が抑圧される。この矛盾を解決してみなが素直な気持ちで豊かに生きられる社会。

日本が人々が将来の不安なく暮らせる国家を作れない、世界構造的な理由


等がある。少しずつ努力していくことにより、段階的に現状を改善していくことが期待できる。


 さて、科学進歩しても、社会制度が変わっても、社会を構成する人間の意識、価値観が同じならば労働時間の短縮は難しいだろう。人間に他人を出し抜き、制度を悪用し、自分が一番上に行こうとする性質がある限り、そして他人と死に怯える限り。

私は、労働時間を短くするために必要なものは「労働時間を短くしようという意志」だけだと思う。もちろん制度的に改革すべき点はあるだろうが、それらはすべてこの「意志」への付随物だ。ではその「意志」はどこから来るのだろうか。単に、労働から逃れたい、楽になりたい、何もせずに暮らしたいという逃避的な動機から来るのであれば、それは力を持たないだろう。その意志は力が弱いため、他人を支配しようという他者の意志に捕われて、長時間労働を「させられて」しまうことになる。労働時間が短くなってできた時間で、あなたは何をしたいのだろうか。人々は何をしたいのだろうか。労働時間が短くなっても単に暇を持て余すだけであるなら、その分労働していても同じだろう。逆に、自分が真にやりたい創造的活動をするために今より労働時間を短くしたい、という動機から「意志」が来るのであれば、それは強力なものとなる。その強さは他人からの支配しようという意志に影響を受けない。そして結果的に、その活動はそれまでの労働以上の価値を生み出すことになる。経済的なものではないかもしれないが、人類幸福貢献するという観点から見た場合の価値だ。(子供と遊ぶ、等)

そして実は、そういった活動をする人や組織は、経済的価値ばかりを重んじる競合相手よりも競争上有利になる。なぜなら本来人間が求めるのはお金よりも幸福なのであり、創造的活動をする者はより多くの幸福を人々にもたらすために人々に好まれるためだ。

結局のところ、社会制度が今のままであっても、あなたにその「意志」さえあれば、すぐにでも労働時間は短くなるのである。人々も、その「意思」さえ持てば、長時間労働から解放されるのである。そして人々がその「意志」を持ったとき、社会制度はそれに付随して変わるのである。そしてその「意志」をもつために、「とりあえず労働時間を短くしよう」とする前に、「労働時間が短くなった分で何をしたいか」を探ることを推奨する。

時間とお金と状況が揃ってから何をするか考えようと思っても、その機会は来ないだろう。何をするかが決まると、その機会がやってくるのである。

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2007-04-22神の存在証明

[]神の存在証明

神はいる、と論理的に説明できるかた、お願いします。


まず、論理1、論理2、で簡単に説明します。


論理1初め

存在する全てをEと置く。

Eを作り出した者を神と定義し、Gと置く。

Eは全てであるので、GはEに含まれるか、もしくはGとEは等しい。

この世は完全な無ではない。

従ってEは0ではない。

よってGは0ではなく、存在する。

従って神は存在する。

論理1終わり


論理1を異なる形で表現するための論理2を以下に示します。


論理2初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2は存在しない。

従って神は存在する。

論理2終わり


次に、論理1においてE=Gである場合、或いは論理2においてE=E1、すなわちE2=0である場合の説明をするための補足的論理論理3を紹介します。


論理3初め

論理1においてE=Gであるならば、存在する全ては自らを原因として存在する。

このときGでないものは0であるので、全てはGである。

従ってこの場合全ては神である。

論理3終わり



次に、神はどのような性質を持っているか、ですが、少なくともこの宇宙を生み出し存続させるだけの力はあることは分かります。又、どのような意識、意図を持っているのかという点については、人間の意識と同じように

意識の謎を解いてみました


で述べられている通りです。(人間には意識があることを論理的に示すことは不可能であることが示されています)



次に、どうすれば神の存在を実感できるか、ですが、2つの方向性を示します。


1 状況から論理的に推察する。

神がこういう性質を持っているなら世界はこのような性質を持っているはずだという仮説を持ち、この世界を観察し、それを検証する。もしくは、世界がこのような性質を持っているということは、神はこういう性質を持っているのかもしれないと推察する。こうしたことを様々な状況に対して様々な角度から繰り返していくことにより、神の存在と性質に対する実感を深めていくことが出来る。あなたも火が熱いという実感を、火に近付く体験を通して深めてきたはずです。


2 直接に体験する

これは、こちらの記事を参考にしてください。

人間が生まれ、死ぬ理由


以上です。

sasadasasada2007/04/22 20:08 おぉ、すごい!!
 でも、私にはちょっと分からないところが有りました。
 以下、単なるチャチャ入れですので、無視していただいて結構なのですが。。。

論理1について。
 時空間のうち、時間が扱われていません。

 定義1「存在する全てをEと置く」
 定義2「Eを作り出した者を神と定義し、Gと置く」
 推論1「Eは全てであるので、GはEに含まれるか、もしくはGとEは等しい」

 ココで破綻するのでは。なぜなら、

 推論1a「Eは存在する全てであるので、GはEに含まれるか、もしくはGとEは等しいか、*もしくは既にGは存在しない*」
 推論2 「この世は完全な無ではない/従ってEは0ではない」
 推論3a「よってGは存在するか、存在したかである」
 結論1a「従って神は存在するかもしれない。」

となるから。変でしょうか・・・?

論理2について
 論理1と同じ、すでに神が存在しない可能性とは別に。。。
 E2が集合であることが考慮されていません。

 定義1 「存在する全てをEと置く」
 定義2 「Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く」

は良いとして、推論1以降は、

 推論1a「E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、それはE1あるいはE2内の他の存在による」
 推論2a「よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。が、E2が互いを原因として存在する可能性を排除できない。後者をE2Eと呼ぶ」
 定義3a「そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。E2Eを独在物と呼ぶ」
 推論3a「E1が存在しなくてもE2(E)は存在しうる」
 結論1a「従って神は存在するかもしれないが分からない」

となってしまうような。
 ま、私のは単なるチャチャ入れですので、お気になさらないようお願いします。
 何といっても、garyoさんにご紹介いただいた、ゲーデルの存在証明すらよく分からない身ですので。失礼いたしました。f(^^;

IWAKEIWAKE2007/04/22 22:40コメントありがとうございます(^^)
確かにもう少し私の中にあった前提を説明しないと、ご指摘の点で分かりにくくなってしまいますね。

時空間について。
相対論的には時間と空間は物理的に等価です。また、どちらの存在も、人間がそれが存在すると解釈する考え方を採用した場合にのみ存在します。そして、時間的に離れていることと空間的に離れていることは等価です。
小説「我輩は猫である」の作者は存在しないのでしょうか。通常の言語の意味では、「作者は存在するが2007年時点では生存していない。」と表現されるでしょう。
あなたが今「おにぎり」を作ったとします。そしておにぎりを残して部屋から出ます。そしてそのおにぎりと共に部屋に残った人は、そのおにぎりの作者は存在しないと言うでしょうか。「作者は存在するが、この部屋の中には存在していない。」と言うのではないでしょうか。
この例から、空間的隔たりと、時間的隔たりが本質的に同じものだと分かってもらえれば幸いです。物理的には、1光年の隔たりと、1年の隔たりが等価です。

このように時間と空間が等価である観点から「存在する全て」と表現されたEには、あらゆる時間におけるあらゆる場所が含まれています。(私の中では、この宇宙の外の宇宙や異なる次元領域やその他あらゆる想像可能、そして想像不可能な存在全てを意味しています。)

そして「今」という瞬間に限定して考えてみた場合でも、例えば「今」目の前にディスプレイがあると思いますが、そのディスプレイは何らかの原理によって存在しています(重力や核力や人間が知っているものも知らないものも含めてもろもろ)。そういったディスプレイを存在させている原因、あるいはその原因を今存在させている原因、これを辿っていって自らの原因によって存在している原因(ここまでくれば既に時間という在り方を超越しているものでしょうが)のことをE1と置いたのです。


次に独在物について。

これはE1とE2の線引きの仕方の問題だろうなと考えていました。
つまり、E2aとE2bが互いを原因として存在している場合、それらを合わせてひとくくりにしてE2cと呼び、E2cは己を原因として存在していると解釈してE1に含めてしまうのです。従ってE1の中には、E2の原因になっているものと、E2の原因にはならずに自分の原因にだけなっているものがあることになります。

ここのところは、「AとBが一体であるか別個のものであるかはどうやって決まるのか」という問題が絡んでくるのですが、結局AとBが別のものであるというのは人間が勝手にそう解釈することが出来るというだけの話であり、「全ては一体である」という考えを採用するか、「区分は自由に決められる」という考えを採用するかのどちらかですので、ここでは後者を採用し、E2aとE2bは一体としてE2cと捉えてE1に含めています。(全ては一体であるという考えを採用すると、言語で何かを論じるということは不可能になりますからね)


というようなことを考えていました。不親切な本文でごめんなさ~い。

neyorawaneyorawa2007/04/23 00:23おそくなり失礼しました、neyorawaです。
うーん、すごい。お二人とも。
はてなの回答の35およびその回答に、論理1に対するコメントとなりえそうなことを書いています。よろしければご覧になってみてください。

IWAKEIWAKE2007/04/23 00:46>「人間の行いに判決をくだす意志をもった存在」としての神を、なぜ多くの人が信じるのか。ここをもうすこし掘り下げたいです。


「神は存在するか」ではなく、「ある性質を持った存在をなぜ人は信じるか」が問題であれば、視点はまったく変わってきます。それは「信じるとは何か」という、人間の心理機構の話題だからです。その観点からの説明は今のところ予定していませんので、ご了承ください。

sasadasasada2007/04/23 03:17 IWAKE様、御丁寧な解説をありがとうございました。とても分かりやすかったです。
 さて、せっかくここまで来ましたので、ダメを詰めさせてください。(無論無学な素人のたわごとですので、スルー大歓迎です)

 まず、論理1の『存在』についてですが、『時間と空間が等価である観点から「存在する全て」と表現されたEには、あらゆる時間におけるあらゆる場所が含まれています』とのこと。
 私は、これを、『過去に存在したもの(Eb)、現存するもの(En)、今は無いが未来に存在する(事が決定している)もの(Ea)』の総和と解釈しました。つまり、『Eaは将来必然的に存在する』と。また、『消滅によって、存在が滅することはない。Eb,Enは存在し続ける』と解釈しました。

 ところで、この場合、時空間は無限なのでしょうか。
 空間も時間も無限であるなら、上記は矛盾しません。ただし、熱力学の法則によるエントロピーの増大が無限大になった以降も、時空間が無限に続き得ることを証明する必要を感じます。私には、「あらゆるエネルギー反応がなくなった世界で、何かが存在する。それ(のひとつ)が神だ」といわれてもピンと来ません。無学ですみません。

 逆に、空間も時間も有限だと仮定します。(その他のパターンは時空の等価性に違反するのでスルー)
 だとすれば、神が扱える創造力も知能も能力も有限であることになります。(そのせかいで一番優秀だとしても)

 えーと、僭越な言い方で恐縮ですが、Eの存在を時空間に広げた時点で、「『一般に言う神』の存在ではなく、『創造主』の存在」の証明になるがします。
 ゲーデルの存在証明を見ていても、ここが一番分からないところです。アホですみません。

 次に『独在物について』。
 ご自身でおっしゃるとおり、『結局AとBが別のものであるというのは人間が勝手にそう解釈することが出来るというだけの話』なので、『E2aとE2bは一体としてE2cと捉えてE1に含めて』しまうのは、人間による定義であり、これこそが信仰なのでは無いでしょうか。(信仰者がこの定義を選択するのは当然として) 無信仰者がE1の介在を認めないために『E2aとE2bは別のものと捉えてE2(E)に含めて』しまうことを論理的に禁止できないと『独在物E2(E)』を否定できず、困っちゃうのかな、と心配になりました。気が弱くてすみません。

 以上、門外漢のたわごとですので、世の中にはこんなアホもいるという参考にして、スルーしてください。f(^^)
 二度にわたる長文コメント、大変失礼いたしました。m(_ _)m

IWAKEIWAKE2007/04/23 22:07せっかくですのでどうぞどしどしコメントなさってください。対話は互いに理解を深め合うよい方法だと思いますから出来る限り回答していきますので。

>「『一般に言う神』の存在ではなく、『創造主』の存在」の証明になるがします。

その通りです。そして私は「一般に言う神」なるものは千差万別で、その語が何を意味しているのか特定不能だと考えています。仮に、「キリスト教でいうところの神」等と特定しようとしても、キリスト教徒が抱いている神のイメージは漠然と似たところはあっても、その実キリスト教徒の数だけ異なった神のイメージがあると思われます。「神」という言葉ほど、多くの意味で使われている単語は無いほどですから。
そこで私は、自分の論理の中で「神」を定義し、その存在を証明しました。それは、「Eを作り出した者を神と定義し」や「自らを原因として存在する部分をE1」と書いているように、創造主としての存在です。逆に言えば、「創造主」の存在しか証明していません。それ以外については一切触れていないのです。

私にはsasadaさんが「一般に言う神」という言葉で表現しようとしたものが何なのかは分かりませんが、きっと創造したということ以外の性質もたくさん持っているのでしょう。その場合例えば、「死んだ人間の生前の行いからその人間に審判を下すような性質を持つ存在はいるか?」等という風に個別に考えていかなければ、説明のしようがないように思えます。或いは、「創造主にはこれこれの性質が備わっていることを示せ」などと書くとか。ゲーデルの存在証明も、肯定的性質とは何なのかを明らかにしてもらわないと、意味があるものには思えません。究極的には肯定も否定も善も悪も無い訳ですし。

要は私は、「神はどのような性質を持っているか」は「神は存在するか」とは分けて考えないといけないと思っている訳ですね。

独在物について

それではこちらに、本文では見苦しくなりそうだから書かなかった部分も入れた、論理2の長いバージョンを書きましょう。

より厳密な論理2初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

尚このとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
また、3つ以上の部分についても、それらが相互依存の関係にある場合には、それらを一体とみなしてE1に含める。(例えばEaはEbの原因であり、EbはEcの原因であり、EcはEaの原因である場合、その三者は一体とみなす。又、EaとEbがEcの原因であり、EcはEdの原因であり、EdはEaの原因である場合は、EbのみがE1に、他の3つはE2に含まれる。)

さて、E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2及びEは存在しない。

ところで、この世は完全な無ではない。

よってE=0でなく、Eは存在する。

ゆえにE1は存在する。

従って神は存在する。

より厳密な論理2終わり

sasadasasada2007/04/24 13:32 再び丁寧な解説をしていただき、ありがとうございます。m(_ _)m
 では、せっかくですので、お言葉に甘えて、もう一度。。。

 IWAKAさんのおっしゃる「E1=創造者・神」は、「苦しいときの神頼み」とかの神様のイメージでなく、純粋に「万物の創造者」を指してらっしゃるものと理解しました。それは、一神教の神かもしれず、多神教の神々かもしれず、ビッグバンから始まる未だ人の理解の及ばぬ物理法則かもしれないですね。それなら同意できます。

 あと、EをE1とE2に分けるとき、IWAKAさんのおっしゃる定義なら独在物は存在しない点は理解しました。
 しかし、その場合、Eの定義である「原始の過去から永遠の未来までの間に、この宇宙の内外に存在する(した/これからする)もの全て」について、「(E2にはE1を原因としない存在はない)」という定義を当てはめることになります。
 となると、「全ての結果(存在)には、*そうなるべき*原因がある(神はサイコロを振らない)」ことをEの定義と同じスケールで証明せねばならず、私はこれが証明されたという話を過分にして知りません。
 これが証明できるまではIWAKAさんの定義は仮説に過ぎず、それを信じることは“信仰”なのかな、と思います。

 もちろん、「全ての結果(存在)には原因があるが、そこには偶有性がある」という解釈、つまりEが存在するのはE1の“意思による必然”の産物ではなく、(例えば量子力学的な)確率を伴う結果論的存在であるとする考え方も有ると思います。
 この場合、創造者は自らの意思を持たないか、持っていてもその通りに創造できるとは限らないことになります。
 あるいは、創造するつもりの無かったものが偶然出来てしまうことも。(この場合、私の解釈では、これは独存物ですが、「創造主がいることによって出来た」という(対偶ではなく)逆の論理を許すなら被造物です)
 これなら“信仰”というよりは“(量子力学的)常識”で済ますことが出来るのかもしれませんね。

 いずれにせよ、相対性理論が検証途上に有り、量子力学もまだまだ未成熟だった時代に、この問題にとりくんだゲーデルは尊敬に値します。
 また、この難解な証明を分かりやすく解説することの出来るIWAKEさんも尊敬します。(^^)

通りすがり通りすがり2007/04/24 18:43神の存在論的証明の段階では、全ての事物の結果には原因があって~、といった証明の仕方で十分だろうね。
何故なら、事物の結果の遇有性は因果律を破るものではなく、必然であれ偶然であれ結果は結果だからね。

IWAKEIWAKE2007/04/24 19:58更なるコメント、ありがとうございます。

1 私が定義した神の性質について

神という言葉に対する定義の仕方は無数に可能であり、その中で私が自分の論理の中で採用する神の定義は、その存在の証明が私にとって可能なものである必要がありました。つまり、私が神をそのように定義したのは論理的必然性によるものではなく、私の都合によるものです。従って、神=E1などという神の定義は認めない、という人にとっては、私の論理は何の意味もありません。まぁこれは、いかなる神の定義を採用した論理でも、その定義を認めない人にとっては無意味なので仕方ありません。
次に、その定義がどの程度多くの人が抱いている神のイメージに近いかによって、その定義を採用した論理にどの程度意味があるのかが決まってきます。路傍の石を神と定義しその存在を証明してもあまり意味は無いでしょうから。さて、私の定義した神は次のような性質を持っています。

「我は我たるもの・我は在りて在るもの(I am that I AM)」と宣言する資格がある。(自らを原因として存在している訳ですから)

「我は万物の創造主なり」と宣言する資格がある。(存在する全てを作った訳ですから)

それなりに、いわゆる神のイメージに近いと思いませんか?
そしてまた、私の定義した神はこれら以外の性質については全く不明となっています(一切言及していない訳ですから)。神頼みに応えてくれるかどうかも完全に不明です(笑)

そして、このような性質を持つ存在が存在することを示した私の論理がどの程度の意味を持つのか、それは読む人の主観に委ねられているわけですね。


2 全ての結果に原因は必ずあるのか、について

この問題は、次の一文を論理2の3行目に入れることで解決しましょう。

「尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める」


これでいずれの場合にも対応可能だと思いますが、せっかくですので偶有性について少し付け加えますと、私は多世界解釈を採用しておりまして、偶然は存在しないと思っており、Eは全ての多世界を含んでおり、量子的にどんな観測が得られようとその全ての結果に原因があると想定していました。もちろん多世界解釈は証明されていませんので、上の一文が加わったほうが安心して論理2を読めますね。


論理2(ver.3)初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める。

またこのとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
また、3つ以上の部分についても、それらが相互依存の関係にある場合には、それらを一体とみなしてE1に含める。(例えばEaはEbの原因であり、EbはEcの原因であり、EcはEaの原因である場合、その三者は一体とみなす。又、EaとEbがEcの原因であり、EcはEdの原因であり、EdはEaの原因である場合は、EbのみがE1に、他の3つはE2に含まれる。)

さて、E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2及びEは存在しない。

ところで、この世は完全な無ではない。

よってE=0でなく、Eは存在する。

ゆえにE1は存在する。

従って神は存在する。

論理2(ver.3)終わり

sasadasasada2007/04/25 10:12 多少、私の理解の範囲外に残った疑問もありますが、そろそろお開きにさせていただこうと思います。無学な私の為に、余りお時間をいただくのも僭越ですし。

 私は、IWAKIさんのおっしゃる神は「万物を創造したナニモノか(単複不明)」であり、たとえば、ビッグバンから始まる未だ人の理解が完全には及ばぬ物理法則かもしれず、そうではないかもしれない、具体的な事象としては証明も反証もできない存在だと理解しました。

 たとえば、Ea,Ebが互いの存在に寄って存在する場合、例を挙げるなら、ビックバンのときに大量の粒子(Ea)と反粒子(Eb)が対生成したり、いまでも巨大重力場の近くで電子と反電子が対生成している、とされてる部分について、これらの粒子のペアがE1に含まれ『粒子の対生成は“神=万物の創造者(の形態の一つ)”である』と理解しました。(証明も反証も私には不能ですが)

 ちなみに、私は『その生成過程には(量子力学的な)偶然が作用している』と思いますし、IWAKEさんは『多次元世界の概念の導入により偶然が作用する部分は無くなる』と解釈されています。この点も、現在の科学では、証明も反証もできていない部分でしょう。
 私は、この偶然の産物の解決に独在物を導入しようとしましたが、IWAKIさんのおっしゃるように「尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める」とするならば、偶然が作用しているかどうかは無関係になります。つまり、私の言う独在物(偶然の産物)は“神=万物の創造者(の形態の一つ)”という解釈です。

 これで、お互いの論点は整理されたと思います。
 また、上記の解釈なら、私の“常識”は満足します。
 おかげさまで、ここ数日の胸のつかえが取れました。無学な私に粘り強くご教授くださったIWAKIさんに感謝します。本当にありがとうございました。m(_ _)m

IWAKEIWAKE2007/04/25 21:28胸のつかえが取れたところに大変申し訳無いのですが、少し誤解がありそうですので説明させてください。尚、全ての誤解の原因は、私が一般的な考え方から非常にはずれた考え方をしていることと、それを説明するためには充分な長さの文章が必要なのに、それをつい省略してしまうことにあります。コメント欄まで不親切な文章でごめんなさい。

私が原因という言葉でイメージしている事柄について

通常、手を叩いて音を出した場合、その音が出た原因は手を叩いたことだ、という風に「原因」という言葉を使うと思います。しかし私は論理の中で、「原因」という言葉を「あるものが存在するために必要な全ての要素」、という意味で使っています。もちろん、原因が複数ある場合もあるでしょうから、その場合一つの要素については「原因」の一部、などと考え、普通に「原因」と言った場合には、「複数の原因全てを集めた集合」を指しています。
 手を叩いて音が出た場合、その音が存在する原因には、もちろん手を叩いた事があげられますが、それ以外にもたくさんの原因があります。例えば空気(音を伝える媒介)が存在したこと、空気分子が音を伝えるような性質を持つような法則が働いていること、誰かが手を叩こうという意思をもったこと、その誰かがそこに存在するために必要だった全ての物事、等等。これらの他にも私が想像できないような要素も全てあわせて、その音が出た「原因」と呼んでいます。
 つまり、この宇宙に存在する物質で「原因無しで」存在しているものはありません。ビッグバンという要素が無くても、或いは宇宙に働いている法則という要素が無くても存在していたと思われるものは無いからです。そこで「基本的には」全ての物質はE2に含まれると考えられます。粒子の生成に量子的偶然が働くという見方の場合、粒子の生成の原因の一つにはビッグバンはあるはずなので粒子はE2です。そしてその時働いた「偶然」というものが、ビッグバンにも依存せず、宇宙の法則にも依存せず、その他一切のものにも依存せずただ自らのみに依存して存在しているというのなら、その「偶然」自体はE1に含まれます。(しかしその「偶然」が存在するためには少なくても粒子を生成するに充分なエネルギーが必要な気がしますし、そのエネルギーが存在する原因の一つにはビッグバンがあるはずで、となるとその「偶然」の存在はE2でしかないかもしれません)。
 ではビッグバンの原因は何でしょうか。或いは宇宙がこのような性質を持って存在するに至った原因は何でしょうか。その原因が存在するために必要だった全ての要素は何でしょうか。それらは今宇宙に働いている法則が存在するために必要だった全ての要素の原因とは別物でしょうか。それらをどこまでも辿ると一つの原因に行き着くのでしょうか。それとも複数の異なる根本原因に行き着くのでしょうか。或いは原因を辿る作業は永遠に続くのでしょうか。
 私の論理において、これらの問いへの回答は不要です。なぜなら、それらがどこまで続くものだとしても、とにかくこれ以上原因を遡れないというところまでいったものをE1と定義しているからです。無限に続くなら、とりあえずビッグバンから先全部をひとくくりにしてE1とすると規定しましょうか。
 さて、私がこのように考えているのならば、「独存物」や「原因なしに存在する物」などあるはずがないと私は主張しなければならない、と思われるかもしれません。しかし、そう言い切ることは出来ないと思います。この宇宙の外に、そしてなおかつこの宇宙や他の宇宙やそのほか様々な可能性の様々なあり方のどんな体系にも属さず、しかもそれら全てを存在させているどんな原因群にもよらず、ただ自らの原理のみによって存在している存在。或いは相手を存在させるのに必要充分な要素だけを持つ存在同士のペア。正直に言って、こういった存在がどんなものか私にはまったく検討もつきませんし、想像も出来ません。仮に存在してもそれらは決して他の如何なる体系の存在からも観測されません。(観測されると観測した存在に影響を与えるため、何かの原因になってしまい、それは独在物ではなく普通に規定されるところのE1になってしまいますから)。そんなものがあるとはとても思えないほどです。しかし、私がまったく想像も出来ないからといって、そういったものが決して存在しないと言うことは出来ないのです。そこで私としては、「万万が一そういうものがあった場合は、そうしないと証明がすっきりいきませんからとりあえずE1に含めることにさせてください」というような一文を入れることにしたわけです。これをE1に含めても、規定されるE1としての性質は特に影響を受けませんから。
また、原因無しに存在する存在についても、それが存在するのに必要な全ての要素が0でありながら存在しているわけで、普通に考えると何だか定義上ありえない気もしますが、完全になんらの要素にもよらずに自分自身にもよらずに存在するということを私が思い描けないからといって、絶対にそういうものがないと言うことも出来ないだろうとも思うのです。
 ですから昨日
>多世界解釈は証明されていませんので、上の一文が加わったほうが安心して論理2を読めますね。
と書きましたけど、実は私の見方では多世界だろうと何だろうとこの宇宙内での量子的偶然はE2であるので、その一文によって安心して読めるようになるのは上のようなことを考えている私のような人間だけなのかもしれません。ただあの一文によって、私の考えているようなことを説明しなくても、コペンハーゲン解釈や多世界解釈かによらず幅広い考え方の人にとって論理2の証明が有効になるという効果は期待しました。

 また、なぜ『「基本的には」全ての物質はE2に含まれる』と、「基本的には」をつけたかといいますと、究極の原因が明らかでない以上、その究極の原因がこの宇宙の物質をその原因として持っている可能性を否定できないためです。つまり、例えば宇宙が膨張と収縮を繰り返しまったく同じ歴史を無限に紡ぐ環のような構造になっている場合、宇宙内の全てのものは宇宙内の全てのものの原因になっていると言えます。そして宇宙が外部になんらの原因も持っていない場合、この宇宙は全体として独在物であると言えます。するとこれはE1であり、存在する全てがこの宇宙だけであるならE=E1となります。こういった場合も考え、存在証明には直接関係のない論理3も書いておきました。


・・・これで説明は終わりなのですが、なんだかsasadaさんが聞きたくもない話を無理やり聞かせているような気もしてきました。殆どの人にとってどうでもいい事柄に関する私の勝手な自己満足用理論の話だと思って、面倒でしたら軽く聞き流してやってください。
sasadaさんが的確にコメントをしてくださったおかげで、不十分だった点の多くについて説明ができました。今後ここを読む人の中にも、それが参考になる人が居ると思います。どうもありがとうございました。
 最後に、科学的に証明されていないことを信じるのは信仰だというような話がありましたが、私はある意味科学も、常識も、殆ど全てのものが信仰だと思っています。その辺を意識して書いた記事がありますので、よろしければどうぞ。

http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20061102 人間が死ぬという考えは錯覚という記事
http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20070219 現実と幻覚の本質は同じという記事

Y.M.Y.M.2007/05/29 19:29はじめまして
ゲーデルの神の存在証明なるものを初めて目にしてここに来たんですが、
IWAKEさんの証明はゲーデルの証明とは独立ですよね?
ゲーデル流の神の定義とマッチするかどうかわからないのですが、
IWAKEさんの集合EにあえてゲーデルのPなるものを想定すると
「Eの要素である」、「E1に含まれる」、「神という要素である」、「E2に含まれない」、「人に含まれない」、「地球という要素ではない」、、、「Eの全要素の原因である」、「E2の結果ではない」、、、「Eの要素でありかつE1の要素である」、、、
のような性質をふくむと考えればいいのでしょうか?
(Pの要素は非可算無限個かもしれませんが。)

IWAKEIWAKE2007/05/29 22:43こんにちは。

>IWAKEさんの証明はゲーデルの証明とは独立ですよね?
その通りです。私が勝手に考えた説明なので、ゲーデルの証明とは何の関係もありません。

>IWAKEさんの集合EにあえてゲーデルのPなるものを想定すると
P(肯定的性質)がどういうものなのか彼は詳しく定義していないので正確には分かりませんが、私の理解では

「Eの要素である」、「E1の要素である」、「E2の要素であるかは不明」(被造物の中に肯定的性質を持つものがあるかどうか判断しかねるため)、「人の要素であるか不明」(人が肯定的性質を一切持たないのか判断しかねるため)、「Eの全要素の原因とは限らない」(肯定的性質によらずに存在している要素があるかもしれないため)、、、

のようになるのではないでしょうか。
結局Pが何なのか、そしてPによって定義される神が何であるのかが明らかでない以上、判断はできないように思います。
おそらく、彼の定義と私の定義はあまりマッチしないでしょう。
無理に対応させず、別個に考えてみるのがいいのではないでしょうか。

Y.M.Y.M.2007/05/30 18:22ご返答ありがとうございます。

言葉足らずで意図が伝わらなかったところがあると思います。すみません。

>P(肯定的性質)がどういうものなのか彼は詳しく定義していない
>Pが何なのか、そしてPによって定義される神が何であるのか
ゲーデルが具体的な神をどう想定していたかはこの際考慮してません。
私はゲーデルの証明あるいはその公理系を「利用」したいだけであり、
その中の神の制限についてはゲーデルが示した5つの公理しか考えてません。

実際考える系が{0,1}集合であっても適用できるんじゃないでしょうか。例えば
G=「0である」
P:「0である」,「1でない」,「0または1である」等(Gからの帰結の全て)
もしここに「0は1より偉大である」という要素間の関係が定義されていれば、
「最も偉大である」も肯定的性質になるでしょう。
もちろんG=「1である」というケースも別の世界あるいは定義としてありえます。
G=「0または1である」の場合はPを構成できずありえないと思います。
この場合G(0)もG(1)も真ですが、例えば「0である」という性質を考えて
P(¬「0である」)⇔¬P(「0である」)
よりP(「0である」)かP(¬「0である」)のどちらかは必ず真でなければなりません。
言い換えれば「0である」か「0でない」かのどちらかは肯定的性質でなければなりません。
それが「0である」の場合、神である1は「0である」という肯定的性質を持たなくなり、
もう一つの場合も、0が神として困ることになります。

ゲーデルの証明の中の神は上の例も含むような形式上のものとして扱っています。
現実の創造主たる神はゲーデルの神と考え得るかどうか、ということです。

>被造物の中に肯定的性質を持つものがあるかどうか判断しかねる
神でないものが肯定的性質のいくつかを持つことは構いません。
全ての要素のうち、肯定的性質を全て持つもの=神、全ては持たないもの=その他の要素、です。
例えば「Eの要素である」はIWAKIさんの系では「存在する」とも同値であり、全存在が等しく持つ肯定的性質の一つといえるでしょうし、ゲーデルの神の要請でもあります。
「E2の要素でない」をPに加えたのは、公理から「E2の要素である」または「E2の要素でない」のどちらかは肯定的性質であり、「神はE2の要素である」は「神はE1の要素である」と矛盾(E1∧E2={}より)するためです。

>人が肯定的性質を一切持たないのか判断しかねる
人である存在は肯定的性質をいくつか持つはずですし、前述のようにそれは問題とはなりません。
人はE2に含まれると考えて「人に含まれない」を加えました。
我々全てがE1に含まれる繰り返しの世界だとしたらこれはふさわしくないかもしれません。

>肯定的性質(を全て持つ存在)によらずに存在している要素があるかもしれない
「Eの全要素の原因である」は
>「我は万物の創造主なり」と宣言する資格
を単純に与えるわけですが、
我々の創造主から派生する我々の世界の存在物をEのサブセットE’として
「E’の全要素の原因である」
ではどうですか?

結局のところ、Pの構築の上で避けられない矛盾があるかどうかが知りたいわけです。

IWAKEIWAKE2007/05/30 20:30なるほど。そういうことであれば、人や地球がE1に含まれるかどうかは別として、

Pは

「Eの要素である」、「E1の要素である」、「神という要素である」、「E2に含まれない」、「Eの全要素の原因である」

となると思います。さらに、Eの全要素の原因であるためにはE1の全要素を持たなければならないため、E1はPに含まれることになるでしょう。


>結局のところ、Pの構築の上で避けられない矛盾があるかどうか

属性 「全てを内包する」 について考えてみると、これを肯定するもののほうが否定するものより偉大であるように思われます。Gの全てを内包しつつG以外の全ても内包している訳ですから。すると結局G=E、即ち全ては神である、神で無いものは存在しない、と言うしかなくなりそうな気がします。するとこれは神の偉大さを讃えはしますが「存在する全てを神と定義する。よって神は存在する」という、証明としては無意味なものになってしまいます。

また、別のある属性 「大阪より東京に近い」 などについて、どのように解釈していくかが問題になりそうです。

このような問題を避けるため、私の証明では「存在する」という単純な属性についてのみ考えました。

Y.M.Y.M.2007/05/30 22:36ゲーデルの神とみなせることの恩恵は存在の証明というよりは
考えている神が論理的に矛盾無く扱えるものであることが保障されることにもあると思います。

おっしゃるとおり属性についてはきちんと定義されたもののみを使わないといけないでしょうね。
「要素○○である。」や「部分集合○○に含まれる。」は集合論的に考えて自明に定義されると思いますが、
「○○より偉大である」などは要素間のある順序関係としてきっちり決められていないといけないでしょう。
例えば「xがyの原因であるときxはyより偉大である」とか。言葉を変えただけですが。

ところで神が複数存在したら(Gが複数の要素をもったら)Pに矛盾が出ると思うんです。
なぜなら神g1とg2がともにGに含まれるとして、Pは「g1である」と「g2である」を含まなければならないが、神g1は「g2である」という肯定的性質を持たない。
この場合はこの創造主はゲーデルの神とはみなせないというだけで、ゲーデルが設定した条件がやはり強すぎるのかもしれません。
あるいは個別の存在物の部分集合も全存在物Eには要素として含まれると考えて、「全創造主の集合」という一つの要素をゲーデルの神とみなせばよいのかもしれません。
{0,1}集合で例えれば{{},{0},{1},{0,1}}というべき集合を改めて扱うことになります。これなら神を{0,1}ともできそうです。

ここで思いついたのですが、素粒子の状態の集合を使ってその部分集合として全存在物の集合を構成できないでしょうか。素粒子は「存在物の不可分な構成要素」という素朴な定義です。

Y.M.Y.M.2007/05/30 22:50すみません。ちょっと訂正します。

>その部分集合として全存在物の集合を
その部分集合の集合として全存在物の集合を

IWAKEIWAKE2007/05/31 04:29私も神が複数の要素により構成されていたら(神が分割可能であったなら)、矛盾が生じると思います。ゲーデルの神が矛盾しないためにはE1が一体でなければならず、その解釈を採用する人にとってのみ有効な存在証明なのでしょう。そして単一の原因からは単一の結果しか生まれず、それはつまり「唯一の神の他に存在するもの無し」ということになってしまいそうです。(ゲーデルはそう言いたかったのかもしれませんが)(ついでに言うと私はそう考えていますが。何かと何かが別個のものであると考える利便性はあっても必然性はないため)
意味のある存在証明の為には、これは確かに強すぎる要請に思えます。

>素粒子は「存在物の不可分な構成要素」

素粒子の振る舞いが従っているところの物理法則を、素粒子自身を使って表現するのが難しいかもしれませんね。また、素粒子を基本構成要素として考える場合は、素粒子が無い世界や、素粒子が出来る前・宇宙はどのように出来たのか、などについては取り扱えないでしょう。

Y.M.Y.M.2007/05/31 17:16集合論上の「要素」と物理的な「要素」とは別です。神は物理的に分割可能だとしても集合の一つの要素とします。
存在物の集合の取り方を変えても世界が変わるわけではありません。

>単一の原因からは単一の結果しか生まれず
例えば一つの十分なエネルギーをもった光子から電子と陽電子あるいは陽子と反陽子など多くのものが生まれ得ると思います。神が一つの光子であったと思ってるわけではありませんが。

>素粒子は「存在物の不可分な構成要素」
ここまでの議論で存在物の内容が具体的でないので、素粒子の定義も具体的なものではありません。
私はいわゆる唯物論者に近いので存在物には物質あるいはエネルギーのようなものしか含まれないと考えていますが、
物理法則も「存在物」に含めるなら物理法則を切り分けた一つ一つの法則が素粒子と定義されるでしょう。
「存在物」が無数に分割できるものでない限りは有効な定義だと思います。
ちなみに私は存在物は有限個数だとも思って(信仰して)ます。

>「唯一の神の他に存在するもの無し」
もし「世界が分割できない一個のものである」と考えたとしても上の定義からの否定はしません。

IWAKEIWAKE2007/05/31 20:171.存在物は分割可能だと仮定する。
2.存在物はどこまでも細かく分割し続けることは出来ず、分割できる限界の細かさがあると仮定する。
3.その限界まで細かくされた破片を、素粒子と定義する。

このような条件の下で、有意義な分割方法を用いて考えていけば、有意義な理論が作れるかもしれませんね。

>単一の原因からは単一の結果しか生まれず

ここは今の話題と直接関係ないので無視して頂いても構わないのですが、少し説明します。
私は原因という言葉を「あるものが存在するために必要な全てのもの」という意味で使っています。つまり光子のみがあれば電子と陽電子が存在できるというわけではなく、他にも様々な物理法則やそれを維持する力が必要なはずです。1グラムのアルミがあるだけでは1円玉は出来ず、それを作る機械や設計する人間やそれらの機械や人間を存在させるに至った全ての原因がなければならないはずです。また、時間を一定方向に流して観測する必然性もないことから、光子と電子陽電子のペアのどちらがどちらの原因かもわかりません。私の見方では、原因と結果の線引きは非常に特定しにくいということですね。ただし、そういった様々な要素を含んでいるようなある存在物を存在させるに至った「原因の総体」を単一だととらえる見方があるなら、その原因から来る「結果の総体」も単一だととらえることになるだろうという意味で
>単一の原因からは単一の結果しか生まれず
と書きました。

関係無いのですが、Y.M.さんが唯物論者に近いのであれば、私の一番古いエントリの「意識が消滅するという仮定が無謀な件 」から始まる話も楽しんで頂けるかもしれません。

IWAKEIWAKE2007/05/31 20:34ところで、
>「全創造主の集合」という一つの要素をゲーデルの神とみなせばよい

というのは、あらゆる属性についてそれかそれの否定が肯定的性質を持つという公理は無しにして、それ以外の公理は残して考えるということですか?

又、素粒子の部分集合の集合として全存在物の集合を構成するというのも、一体何を目的とした理論なのか分からないので、具体的にイメージ出来ないでいます。よろしければ今何をメインテーマとして話を進めたいかを示してくれませんか。

Y.M.Y.M.2007/05/31 21:01>時間を一定方向に流して観測する必然性もない
いわゆる物理の因果律でいうところの原因と結果を指しているわけではないということでしょうか。
>あるものが存在するために必要な全てのもの
例えば
もし「私」の存在が世界の存在に必要不可欠だったとしたら「私」も世界が存在する原因(=神)の一部分
という論理でよろしいですか?

>唯物論者に近い
もちろん割と信じているという程度なので、それ以外を否定しているわけではありません。正確には不可知論者といえるでしょうか?

この議論をふっかける上で過去のエントリはある程度拝見させてもらいました。
知り得ないことがあると認識した上で、何が知り得て何が知り得ないかを論理的に探求しようとする姿勢に共感しております。
この神の議論については、「存在するもの全て」という概念を持ち出したことに感じ入りました。存在するものの原因は存在するものの中に含まれるという前提に立てば、根本原因の存在を否定することはできないでしょう。

IWAKEIWAKE2007/05/31 21:18>いわゆる物理の因果律でいうところの原因と結果を指しているわけではないということでしょうか。
はい。通常の意味より広い意味で原因と言う言葉を使っています。このコメントで説明しているような感じです。
http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20070422#c1177504088

>もし「私」の存在が世界の存在に必要不可欠だったとしたら「私」も世界が存在する原因(=神)の一部分

私の証明の定義では、神の一部であるためにはその「私」を存在させるために必要な要素が「私」自身のみである場合だけですね。そうでないなら、何かの原因ではあるけれど自分自身を原因として存在はしていないのでE2(被造物)になります。全てが全ての原因である共依存関係である場合(E=E1)を除けば。

Y.M.Y.M.2007/05/31 21:22>「全創造主の集合」という一つの要素をゲーデルの神とみなせばよい
神は「全創造主の集合」とします。
Pは例えば
「「全創造主の集合」という存在物である」、「「ある特定の創造主」という存在物ではない」、「「ある特定の創造主」という存在物を含む」、、、
という感じで公理に矛盾なく構成できると思います。ポイントは存在物という集合のとりかたを都合のいいように数学的に変えたということです。

>素粒子の部分集合の集合として全存在物の集合を構成する。
現代物理学の立場で例を挙げると、素粒子qの状態を時空上の座標pや内部自由度sで指定し、
{q1(p1,s1)}は一つの素粒子という存在物、
{q1(p1,s1),q2(p2,s2)}は二つの素粒子からなる存在物
のように存在物を定義します。
その任意の組み合わせが存在するとは限らないので、存在するといえるものだけを存在物に含めます。

メインテーマですが、論理を進める上で矛盾が生じ得るか得ないかという疑問です。
IWAKEさんはIWAKEさんの神の無矛盾性を証明出来ますか?
ということです。(無限がからむとやっかいな問題が出るので存在物が有限に留まることを個人的に期待しているのですが。)

IWAKEIWAKE2007/05/31 21:38>素粒子の部分集合の集合として全存在物の集合を構成する。
今のところ、その方法は物理状態の記述には有効かもしれないな、という感想です。その方法を用いて何かを記述する利点は私には分かりませんが、何かあるかもしれません。

私は自分の定義した神の無矛盾性を証明しようとしたことはありません。だれかが矛盾を疑う指摘をしてくれれば考えようと思っていた程度です。ところで、私のE1という神の定義は、まさに「全創造主の集合」です。Y.M. さんがこの定義の神の無矛盾性を証明して下されば、大変うれしく思います。

Y.M.Y.M.2007/05/31 21:57>この定義の神の無矛盾性を証明して下されば
私自身アマチェアにすぎないのでそう大それたことは出来そうにないのですが...

素粒子の例を持ち出したのは現代物理学への期待ですね。
例えば物理で使う「初期条件」といった概念が神を表現し得るかどうか。ここにはいわゆる因果律の意味での原因を想定しています。
あるいはもっと広い意味での素粒子としては先に出てきた法則のようなものもありますが、存在物という以上それを構成する単位があるだろうという仮定に立った上で、物事をより整理して考えられないかという試みです。

IWAKEIWAKE2007/05/31 22:11物理学はビッグバンの特異点を超えて考えることは出来ませんが、初期条件を考えるのも楽しいですよね。初期条件における粒子の振る舞いの中に、現在の宇宙の持つ全ての要素が(私が今これを考えるているというようなものも含めて)潜在的に内在しているのか。初期条件はどこから来たのか・・・

物事をより分かりやすく表現できるような体系を考えられるといいですね。

IWAKEIWAKE2007/05/31 22:22蛇足かもしれませんが、参考までに昨日考えたゲーデルの公理を採用すると困りそうな質問を紹介します。

属性「存在が無限に広大である」。肯定なら、神は万物を内包するので存在証明の意味が無くなる。否定なら神は大したこと無い。
属性「現在の人間の知力でその存在を言語で証明することができる」。肯定なら神は大したこと無い。否定なら存在証明不可。
属性「存在するという概念を超越しているため、存在するかどうかを論じることが不可能」。肯定なら存在証明不可。否定なら神は大したこと無い。

Y.M.Y.M.2007/05/31 22:40>初期条件はどこから来たのか・・・
それがE1に含まれるとすると「自ずからそこにあった」ということですよね。私はそれでもいいんじゃないかとも思っているわけです。

>神は大したこと無い。
結局、神が偉大かどうかなんて決めなくて良いと思うのです。ある人が考える「偉大さ」は他の人と違うでしょうし、所詮人の価値観に過ぎません。
IWAKEさんの論理では「原因であること」が最大の基準なのでそれに従ええばよいと思います。

ところで私としては、物理法則やエネルギーは物質が持つ性質であり、法則それ自身は存在物ではないという解釈も考えています。ですから物質それ自体が他の何者にもよらず他の物質の原因たり得ると考えています。前述の光子の例です。
あるいは、「法則は我々物質が存在することにより生じている。」と言えるかも知れません。どうやって生じているかは説明できませんが、それは別問題です。

IWAKEIWAKE2007/05/31 23:06>結局、神が偉大かどうかなんて
神の存在証明をしようとする場合、どの程度多くの人が神と認めるものの存在を証明するかによって、その存在証明の価値が変わってきます。以前のコメントでも書いたのですが、路傍の石を神と定義しその存在を証明してもほとんど意味がないのです。理想的には万人が神と認めるものの存在を証明できればいいのですが、そうでなくとも、なるべく多くの人が認めるものであるほどその証明の意味は大きくなります。従って、誰も神と認めない矮小な存在が存在することを証明しても仕方ないので、これから存在を証明しようとしているところの神が大したことないということになるのは大問題です。

初期条件が他の何者にもよらず自らのみを原因として生じた、初期条件を発生させるような何らかの「場」や「要素」(超時間や超物質)も何もなく、完全なる「無」から「有」が生じたということですか。それは私の感覚では、今目の前で無からビッグバンが起こってもいいというような、何の秩序もない状況に思えます。もちろんそう考えるとしっくりくるのであればその考えを採用されればいいのですが、私には無から有が生じるのはちょっと想像できません。

Y.M.Y.M.2007/06/01 07:03>結局、神が偉大かどうかなんて
言葉が乱暴だったかもしれません。そもそもゲーデルの公理は「偉大さ」について具体的な形で規定していないということです。
今はIWAKEさんの論理に従って議論しているので、「神は最も偉大である」としたら「何かの原因であること」や「存在すること」に矛盾するような「偉大さ」を定義することは許されないはずです。

>何らかの「場」や「要素」(超時間や超物質)
素粒子という言葉が具体的なイメージを与えてしまうのかもしれませんが、私は現在の標準理論で定められている物が必ずしも「素粒子」であると考えているわけではありません。それらはもっと沢山ありえるし、もっと分割できるかもしれないし、宇宙の状況によっては性質の変化も(いわゆる宇宙の相転移)するだろうと考えています。時空の性質についても宇宙の状況によって変わるだろうと思います。

>完全なる「無」から「有」が生じたということですか。
「無」とはなんでしょうか?少なくとも我々の周りの時空は「存在物」で満ちていると思います。
例えば量子論でいう「真空状態」は必ずしも物質が一つもない状態として定義される訳ではありません。準安定な「真空状態」は様々な状態に変化する可能性を持っています。ビッグバン仮説でもそういう「真空状態」から始まったという説もあります。(Wikipediaの”宇宙のインフレーション”に解説あり)
物質世界の「外部」に時空があることを前提とする必要はないと思います。空間が無いなら外部という言葉はもはや意味を持ちませんが。

始状態は一つの「真空状態」であるかもしれないしそうでないかもしれませんが、E1であることの帰結として他の何者にもよらず存在していたというだけです。
IWAKEさんは”聖火の同一性とはなんだったのか”で物理状態が変わらなかったら時間が流れないという可能性を考えてらっしゃいましたよね。
それは物質の変化の結果として時間あるいは時空が生じるということではないでしょうか?
時空は「神」の自発的な変化によって「初め」に生まれた。その時空上の現在の地球の周りで宇宙内部の物理法則が人類によっていくつか検証されているにすぎないというような感じの仮説です。
自発的な変化はランダムに起こったのかもしれませんし、起こりうる全てが多世界で起こったのかも知れません。

短くまとめると、
「原初に」秩序を備えた何者かがあらかじめ実在し、「後に」それが現在の形に変化した。我々の周りの時空や物理法則はその秩序に従って生じている。
納得いきませんか?

IWAKEIWAKE2007/06/01 22:50コメント欄の容量がオーバーしました。
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2007-03-25ゲーム、人生、メタ視点

なぜオタは自分のステ振りをやらないですか?――プレイヤー視点の自己管理が出来ないMMO廃人達

その要約


なぜオタは自分のステ振りをやらないですか?


そっちは難易度が高すぎるから。


人は誰しも、自分の能力が程よく発揮される領域を好む。簡単すぎると飽きてつまらないし、難しすぎても能力を発揮しようがなくてつまらないからだ。

大人はあまり滑り台で遊ばない。簡単すぎるからだ。一般人はあまり吊り輪で遊ばない。難しすぎるからだ。

これは全ての人が持っている性質だ。

例えば私がこの世を理解したいと思った場合にも、いきなり世界それ自体を把握しようとすることは自らの知的能力を超えて難しすぎる。そこで、まずは世界の限定された小領域についてのみ考え、理解しようとする。例えば「ゲーム人生メタ視点」などと領域を限定し、それのみについて考え、そうして理解を深めた小領域を組み合わせることで世界を把握していこうとするわけだ。もし自分の能力に絶対の自信があるのなら、「私とは何か」という問いのみに正面からじっと取り組んでいればよく、細かな問題を考える事に逃避する必要はない。

このこと自体は自然なことだし、適応的でもある。能力が程よく発揮されることをしているときにこそ効率良く価値創造が出来るし、能力の伸びも大きくなるからだ。


MMOレベル上げなど、難易度としては本当に簡単なものだ。要求されるのは時間のみで、作業の難易度自体は小学生でも出来るものだし、うまくすれば自動化も出来る。最大効率の方法を探すという作業にしても、使う時間は僅かなものだし、最適解を求めるにも高校レベル数学の知識で充分だ。単純作業を続ける根気があるなら誰にでも出来る。

肉体的な労力が殆ど要求されていないのも大きい。実際に自分の筋力を上げようと思った場合に生ずる筋肉の痛み、疲労、故障、などは本当に大きな難易度上昇要因だ。


つまり、リアルタイムで能力が明示され、努力結果はすぐにフィードバックされ、投資から報酬を得るまでのスパンが極めて短い領域で効率化を図る能力があっても、それが人生にすぐに応用できないのは当然のことだ。現実では、能力を明示する、すなわち人が人を正確に評価するということだけでも永遠の難問の一つだというのに。


MMOキャラクターを効率よく成長させることができるという能力は、人生においても無意味ではない。ゲームとて人生の一領域なのだから、その事に関する能力が高ければ、その他の領域にも応用できる可能性がある。

しかし、ゲームキャラを成長させることと、自分自身を成長させることの間には、本質的な違いは無いながら、その難易度には大きな隔たりがある。

算数の暗算が速く出来ても、人間関係を深く理解出来るようにはならない。人間関係数学的に完全に記述することは可能かもしれないが、それはあまりにも複雑すぎて暗算では解けない問題だからだ。現代のコンピュータ活用しても、人間関係よりも幾分数学記述がしやすいであろう経済学においてさえ、計算できる形にするために大幅に要素をそぎ落とした簡易モデルが使われており、なかなか正確な解が求められないような状況だ。

同じように、ゲームキャラを効率よく成長させることが出来ても、自分自身を効率よく成長させることが出来るとは限らない。


よってまずは、オタが自分のステ振りをやらないことはもっともなことだと認めるところから始めなければならない。彼らがリアル人生の難易度に戸惑い、しばし呆然とし、そこに積極的に取り組まずに萎縮してしまっていることを誰が責められよう。彼らは彼らの能力が発揮される場で活動しているのだ。

しかしもちろん、やがてはその領域を人生という領域にまで拡張していくことが多くの場合望ましいだろう。


ここでポイントとなるのは、キャラ成長と自己成長の違いは、単に難易度だけにあるという点だ。つまり、難易度について見ていくことで、ゲーム人生に応用したい、あるいは誰かに応用して欲しい場合における有用な示唆が得られる可能性がある。


方法1 人生の難易度を下げる


難しすぎて出来ないなら、簡単になるよう工夫すればよい。つまり、人生ゲームを比較し、ゲームにあって人生に無い要素を出来るだけ人生に取り入れていくようにする。

例えば能力値、成長度の明示化がある。

例としてダイエットをしたい場合について考えるが、ここでその難易度を下げるために、次のようにすることは有効だろう。

起床直後や入浴後など毎日決められた時刻と状況で体重を測定し、そのデータPC入力グラフにして常に更新する。

逆に、ダイエットの難易度を上げたいならば、一切体重を測定しないようにすればよい。

この例からだけでも、同じ食事制限と運動という方法でダイエットに取り組む場合にも、能力値の明示化だけでどれほど難易度が変わるか分かるだろう。いわゆる見える化というものだ。

持久走のタイムを縮めるでも、英語の能力を上げるでも、出来るだけ能力が明示化されるよう工夫すると、その難易度は下がってやりやすくなる。


能力値の明示化以外にも、要素を細分化して取り組む(大きな問題も細かなステップに分けて考える)、イベント達成には正のフィードバックを与える(自分にご褒美)、結果よりも過程を重視する(取り組み自体を楽しむ)、等、よく知られている人生に取り組むコツというものは、人生ゲームに近づけ、難易度を下げて取り組みやすくするためのものだ。


こういった工夫を自分で使う、あるいは機構を作り他者にも使わせることにより、ゲーム人生に応用しやすくなる。



方法2 ゲームの難易度を上げる


逆に、人生に近い難易度のゲームを作ることでも、そのゲームノウハウ人生に応用しやすく出来る。


例えば、次のようなMMO便宜上ここではIと呼ぶ)を作った場合を考えてみる。

Iは、無料プレイできるMMORPGだ。しかし、アカウントは一人一個しか作れない。指紋か網膜か何でもいいが、とにかく一種類のDNAを持つ人間につき一種類のアカウントしか取得できないような生体認証システムを使う。そして、1アカウントにつき1キャラクターしか作れない。そして、最初に作ったキャラクターが死んだら、一年間は別のキャラクターは作れない。つまり、その人は一年間Iで遊ぶことが出来なくなる。

 キャラメイクは、ランダムで行われる。初期能力や能力値の限界スタート時の所持金や所持アイテム、スタート場所もランダムだ。キャラの性別はプレイヤーの性別と自動的に同じになる。

Iでは、ステータス画面を開いてもパラメータは数値では表示されない。しかし、間接的にパラメータを類推できるような情報は表示される。例えば腕力がいくつかは数値で表現されないが、腕周りの太さや、過去ベンチプレスを持ち上げたことがあればその際の何キロまで上げられたかのデータは表示される。


Iでは、幾つかのMMOがそうであるように、絶対的な目的というものは設定されていない。強いてあげれば、Iという仮想世界を楽しむということぐらいだ。そして、当面の目標として、ある程度の資金を貯めて家を買うことや、自分のレベルを上げて強い敵を倒したり難易度の高いダンジョンを探索できるようにしたり、他のキャラクターとの交流を楽しんだりすることが提示されてはいる。非常に自由度が高く様々なことが出来るようになっているので、自分の気に入ったことをずっとやっていてもよい。例えば鍛冶スキルをひたすら上げる等。


空腹システムが導入されており、ある程度食物を食べないとキャラクターの動きが悪くなっていき、やがては死んでしまう。食料はゲーム中の通貨で購入したり、自然になっている木の実を食べたり、野生の生き物を狩って肉を食べたり出来る。


キャラクター毎に特性や才能が異なっているために、まずは自キャラの性質を知ることが大切になる。様々な活動をしてみて、自キャラの能力値を推し量り、どんな風に育てていくかという育成プランを考える。ある種のスキルは簡単に伸ばせるが、ある種のスキルは一向に伸びないというようなこともあるだろう。


理想的には、トータルリコールやマトリックスで描かれるような、五感全てを再現できる完全な現実シミュレーターが望ましいのかもしれない。


Iの攻略法やヘルプや初心者用チュートリアル等は、もちろんゲーム内でもリアルでも、皆で知恵を出し合って作っていき、ノウハウを共有することが出来る。


さて、こうしたIのようなMMOに熟練したプレイヤーは、今あるMMOに熟練したプレイヤーよりも、ゲームノウハウ人生に応用しやすくなる。ゲームの難易度は微調整できるので、楽しく遊べることと、人生に応用しやすいことのバランスを考えて色々試して作ってみればいいだろう。



これまで見てきたことから私は、

MMO廃人や、他にすることが無いからゲームアニメの日々を送っている人が自分自身をメタ視する場合には、少しメタ視点の質と目指すところが異なっている


というよりは、メタ視点自体は同じもので、対象の難易度のみが異なると考える。同じスーファミのRPGでも、ドラクエは自分の能力に合って楽しいから熱心にやるしレベル上げもするが、ウルティマは難しくて楽しくないからやらないというのと同じように。


そうであるなら、MMO廃人人生にも積極的に取り組んでもらいたいなら、次の方法があるだろうと考えた訳だ。

1.人生の難易度を下げる方法の提供

2.難易度は高いが人生に応用しやすいゲームの提供

3.人生の難易度はそのままでも、それに取り組むモチベーションが上がる正の要因の提示


そして以前3の一例と、それに対する私の解釈を人生神ゲーのエントリとその追加エントリに書いた。

本当に総合的に見た場合、MMO廃人人生にも積極的に取り組んだほうがいいのかどうかは、私には分からない。しかし、そこに活用されていない価値や能力があるように見える場合に、私は少しもどかしさを覚えるためである。

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2007-03-19人間が生まれ、死ぬ理由

人間が生まれ、死ぬ理由(わけ)を教えなさい!

http://anond.hatelabo.jp/20070312014115


私の人生は私のためにあるのだろうか。それとも誰かのために用意されたのだろうか。例えば高い場所から見下ろす誰かのために...


あなたにも個別の意識がある以上、あなたの人生はあなたの為にあるともいえる。どんなものでも、誰の為にあるとでもいえる。あなたの人生はあなたの人生認識する誰かのためにあるともいえる。太陽はあなたの為に輝いているともいえるし、太陽自身の為に輝いているともいえるし、誰かの為に輝いている訳ではないともいえる。ただし、太陽はあなただけの為に輝いているとはいえないだろう。ではあなたの人生は、あなたの人生存在させるために必要なすべての能力を持ったある存在が、あなた以外の誰かの為に用意したといえるだろうか。


科学やら何やらが発達して、あらゆることを知り、作ることができるようになったが、肝心なことだけは未だに分からない。


今までに科学が知ることが出来たのは、外側の世界に関しての、それもごく一部だけだ。それに、自分の外側をいくら探求しても、自分自身についての真の理解が深まることはない。私とは何か、ではなく、私を外界はどう解釈するか、に関する知識が増えるだけだ。


本当に知りたいと思うことに限って答えが用意されていない。まるで誰かに都合の悪い情報だけ故意に隠されているように。


これは故意に隠されている。


もし人類を設計した存在がいる(いた)として、その存在は我々に何を期待しているのだろうか。

その何者かによる期待は現在、何らかの形で実現できているのだろうか。


設計者はいる。

また、設計者が我々に何を期待しているかは、「我々が何をしたいと感じるか」を観察することにより、知ることが出来る。

設計者が十分な能力を持っていると仮定する。(設計者がどれほど凄い能力を持っているかは、この宇宙を見れば分かってもらえると思うが。)そして設計者が、例えば意識をもつ存在Aを創造する際に、AにはBという行動をして欲しいと期待したとしよう。その場合設計者は、AがBをしたくなるように設計するだろう。もしAには絶対にBをして欲しいと思うなら、AはBをしなければ消滅してしまうように設計すればいいだけだ。

つまり設計者はあなたに、何としても呼吸をして欲しいし、かなりの強さで異性を求めて欲しいし、時には自分が生まれ、死ぬ理由を考えて欲しがっている。

設計者による期待は、過去現在未来において完全に実現されている。なぜなら設計者の期待しない事柄は起こらないからだ。

これは運命決定論に聞こえ、自由意志の否定に思われるだろうか。しかし、全てが決まっていることと、あなたが何でも自由に出来ることは矛盾しない。それは単に見方が違うだけだ。


また、人類が生き、子孫を残すことについて理由など存在しない、という可能性もある。


どんなことにも原因はあるが、究極的にはどんなことにも意味はない。これについては、

絶望回路のその先へ http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20061103

を読んでいただきたい。


宇宙について研究する学者の中には、約50億年後、太陽は膨張し地球を飲み込んでしまうと言う者がいる。

飲み込まれないとしても太陽現在と同じ役割を果たせなくなり、どちらにしても現在人類のままでは完全に絶滅するだろう。

実際に地球上で人類をはじめとする生物が生息できるのは、残り約20億年もないという意見もある。

その人類の危機が到来するまでに、他の星(惑星)に移住、もしくは宇宙空間で暮らす技術が登場したとしても、

そのまま人類永遠に生存していけるとは言えない。地球で生きられなくなるのと同様の問題がそこでも起こる可能性がある。


人類絶滅の可能性については

シミュレーション・アーギュメントとオメガポイントについて

http://transact.seesaa.net/article/24590167.html

意識が消滅するという仮定が無謀な件

http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20061102

等を読んでみてはどうだろうか。人類絶滅する可能性は0である。


この世から人類が完全に消え去るということは、これまでの歴史すべてがゼロになるということである。

もし我々が生きることに何らかの意志が関係し、意志の持ち主が存在するとするならば、人類を滅ぼすような選択はしないのではないか。

人類が完全に消え去った時、それは人類生きることに理由などなく、何者かの意志も関わっていないという答えになる。


存在の真の性質上、通常認識される時間というものは存在せず、過去未来もない。

一瞬存在することと、永遠存在することは本質的に同じことだ。宇宙燃え尽きても人類歴史ゼロにならない。かつて存在したもので失われるものは一つもない。


私は今、知りたい。人類誕生の理由、そして死ぬ理由を。また、なぜそのように設計されているのか、それを設計したのは誰なのかを。


言葉で端的に言ってしまえばそれは探求のためだ。しかしこれらのことを深く知るためには言葉によってではなく、直接に知るしかない。特に設計者が誰なのかについては、最も言語が及ばない領域だ。あなたもまた設計者であるのだが、このことの理解が全ての疑問への鍵となるだろう。

繰り返すが、本当に知るためには探求の矛先を自分自身の内側に向けて、直接に知るしかない。そのための手引きとして参考図書を挙げる。


あるヨギの自叙伝 http://www.amazon.co.jp/dp/4627999313

解脱の真理 http://www.amazon.co.jp/dp/4760500243/

解脱の真理 完結編 http://www.amazon.co.jp/dp/4915497070/



上から順に読むと読みやすいだろう。

本当に知りたいのであれば、健闘を祈る。


しかし、それほど肩肘張らずに、のんびりとやっていくのもいいだろう。日々の小さな出来事にも喜びを見出し、毎瞬毎瞬を楽しんで生活してほしい。真理は逃げも隠れもせず、あなたに発見されるまで待っていてくれるのだから。


何者の意思が根底にあるのか


それが唯一の実在としての愛であることを、いずれ理解できるだろう。


例えばこの曲の底に流れる本質、バッハがこの曲を通して表現しようとした事の本質、に意識を向けていくと、ヒントが得られるかもしれない。

Jesu Joy of Man's Desiring  http://www.youtube.com/watch?v=iPeVIuRjUi4



最後に、なぜ言語では理解出来ないのかを少し説明しよう。

例えば、砂糖は甘い、ということを、生まれてから一度も甘いものを食べたことが無い人に、言語で説明することは難しいだろう。砂糖を食べるとどんな味がするのかは、言語による説明で理解することは出来ず、直接に体験することを通して知るしかない。甘い、というのはどういうことなのか説明しようとして、頬が落ちるようだとか舌がとろけるようだとか言ったところで、相手は甘いとはどういうことかを知ることは出来ず、ただ甘いとはどんな感じなのかを勝手に想像するだけだ。

砂糖の味ですらそうなのだから、全世界の究極的原因が何であるのかを、言語による説明で理解しようとすることが、どれほど無謀であるかが分かってもらえただろうか。

実在としての愛、と言ったところで、それが何であるのかをこれまでに体験して知っている人でなければ、それはただの意味不明な単語に映るか、もしくはそれに勝手な意味づけをして解釈するだけだ。

このように、ある種の物事は言語での説明が不可能であるし、今話題にしている、五感や時間や通常の思考を超えた事柄に関しては特に、有効な例えも出来ないので、ただ直接に体験することにより知ってもらうしかない。

先ほど挙げた音楽にしても、砂糖の匂いを一瞬だけ嗅ぐことが出来るかもしれない、という程度のものだ。砂糖の味を少し正確に想像する助けになるかもしれないが、味を理解することにはならない。

しかし、紹介した本のほうには、砂糖の食べ方が書かれている。うまく活用すれば、甘いとはどういうことなのか、砂糖はどれほど甘いのか、知ることが出来るかもしれない。

トラックバック - http://iwake.g.hatena.ne.jp/IWAKE/20070319

2007-03-08自由、制限、調和

ノッフ![仕事] 成果主義よりも大切なもの http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20070308/1173309263

以下の文は去年の1月にダイアリに書いた記事で、なんかむやみにいかめしい文体なのですが、関連がありそうなので使わせてもらいました。自分の意識を高めよう!という内容で、ちょっと長めですが、よろしければお読みください。

────


ここにA,Bという二人の人間が居るとする。このとき、人物Aが完全に自由であるとことと、人物Bが完全に自由であることは、矛盾するだろうか。

 これは、自由という言葉意味によるであろう。「自由」という言葉が、「あらゆることが可能であることを保証する」という意味で用いられるならば、明らかに矛盾している。AはいつでもBに話しかけてよいという状態と、BはAが自分に話しかけることを制限してもよいという状態は両立しない。

 しかし、「自由」という言葉が、「自らが望むことを為すことが出来る」という意味で用いられるならば、必ずしも矛盾しているとはいえない。矛盾するかどうかは、Aの望みとBの望みは競合するのかにかかってくるであろう。この話は後でまた取り上げたい。


 衣食足りて礼節を知る、という言葉がある。A・H・マスローが示したように、人間は低次の欲求が満たされるとより高次の欲求を満たしたいと望むようになる。

安全欲求>生理的欲求>社会的欲求>高度な自己実現欲求

というように。

 現在日本は、かなりの程度で国民の安全と生理的欲求が満たされている。不意に殺される事も、避け得ない餓死ほとんどない。その状態が続けば集団としての性質も、生活の物質的な側面の安定を求めようという傾向に対して、より精神的な側面の充実を求める傾向が強まってくる。その要素の一つには「より各人の個性、自由、創造性を発揮できる社会構造にしていく」というものがあるだろう。

 さてここに、その要素を実現していく過程で生じてくる問題がある。それは、「これまでその要素を制限することによって組織の方向性を統一し生産効率を上げてきたというのに、その制限を取り除いたら効率が落ちてしまい、競争社会において不利になるのではないか」というものだ。


この問題について述べる前に、次の事柄について考えてみる。


 「組織の規模、規則の長さ、構成員の意識の高さ」の関係


 尚ここでいう組織とは、2人以上の人間からなる集団を指す。そして意識の高さについては、「真、善、美、愛」に意識が近いことを相対的に意識が高い、「偽、悪、醜、恐怖」に意識が近い事を意識が低いと表現する。(極端に言えば、利己的か利他的か)

 どのような組織においても、これら3つの要素は相関関係にある。即ち、組織が健全に機能していくためには、組織の規模が大きいほど、また構成員の意識が低いほど長い規則(強い制限)が必要になる。

 これを例をあげて見てみよう。例えば、父、母、子、という3人家族があったとする。この家庭が、夫婦が共に仲が良く互いに信頼し合い、子に愛情を注ぎ、子もまた両親を愛し信頼していた場合、明文化された規則は必要なく、また強い取り決めなども必要ないであろう。しかし、同じ父、母、子という構成要素が3人の家族という組織であってもそれぞれの意識が低い場合、つまり夫婦が互いを信頼せず、忌み嫌い、隙あらば相手を貶め自分の利益を確保しようとし、子を邪魔者と見なし、子もまたそういった両親を嫌っている家庭では状況が異なる。家庭にあるものはそれぞれ誰に所有権があるのかを明確に決めないと問題が起こり、夫婦は互いに離婚に備えて自らの法律上の財産が相手よりも多くなるよう準備をし、小さな事でいちいち揉めないように細かい事も規定しなければならず、子にもいろいろな事を約束させ自分を煩わせないようにしなければならない(例えば門限を定め、それを守らないようであればどういう罰を与えるかを定め、場合によっては明文化するかもしれない)。

 次に組織の規模について見てみると、構成員が3人の家庭より、構成員が千人の企業の方が明らかに長い規則(社則)を必要とし、構成員が1億人の国家はそれよりも長い規則(憲法法律政令)を必要とする。

 では、同じ構成員数一億人である2つの国家がある場合、その構成員の意識の高さによって必要となる規則の長さが変わるかを見てみる。

 文化や時代によっても規則に対する要請は異なるのでここでは現在日本について考えてみよう。仮に明日いきなりすべての日本人が、最大多数の最大幸福を心から願うようになり、かつまたすべての日本人の心にそういう変化が起こった事をすべての人が理解した場合、法律は減らしても良いのだろうかをイメージしてみる。(便宜上、国内の外国人外交問題については考えない)

 この場合、刑法を始め、ほとんど法律は不要になるであろう。最大多数の最大幸福を願っている人が、どうして犯罪を行うだろうか。仮に物を盗んだ人がいたとして、その人の最大幸福を願うその他の人々が望むことは、その人がしかるべき刑事罰を受けることではなく、その人が盗むに至った経緯や、そのような状況にその人がならずにすむためにはどのようにすれば良かったのかを知り、実行することだ。そもそも、周りのすべての人がそのように自分に対して力になろうと心を開いている状況では、その人は盗みを犯すことはないであろう。民事訴訟についても、両者が互いの最大幸福を願っているならば、法律に頼らなくても互いに妥当だと思う一致点が見つかるだろう。このように考えていけば、最終的には規則というよりも参考基準のようなものだけがあればよいと認められるだろう(この道は60キロくらいで走るのが良さそうですよ、等)。*1 これはもちろん極論であるが、程度の問題であり、構成員の意識が高いほど組織の規則は少なくて良くなるということは分かっていただけたと思う。



 ここでもう一度、冒頭のAとBの自由は競合するかという問題についてみてみれば、両者の意識が高いほど両者の自由は競合しないという私の考えを理解してもらえるのではないだろうか。つまり、両者が互いを尊重し、自分だけの利益を求めるのではなく2人の総合の利益を求めるような意識の持ち主であるほど、両者の願いは調和したものとなり、その結果AもBも自分の欲する行動ができるという自由を得られるのである。


 ここまで、「組織の規模、規則の長さ、構成員の意識の高さ」の関係をみてきたが、それをふまえて先ほどの問題、「各人の個性、自由、創造性を制限しないと組織としては弱くなるのではないか」について私の考えを述べてみる。

個人の個性、自由、創造性を侵害しない強い組織などというものは「原理的に」ありえない。

と、fromdusktildawn氏は言っているが、私がこの言葉に賛成する為には、文頭に「その構成員の意識がある程度低い場合には」を付け加えなければならない。表現を変えれば、

「構成員の意識が低いほど、その組織が力を発揮するためには多くの制限を設ける必要があり、構成員の意識が高くなるほど少ない制限でも強力なパワーを発揮できる組織になる」

ということになるだろう。


 では次に、人々の意識は高まっているのかについて少しみていくとしよう。そもそもここまでの話は、人々の意識の高さがずっと進化しない場合には無意味となるわけだ。

 結論から言えば、人々の意識はこのところ急速に高まって来ている。その要因としては、生まれた時から物質的には満たされている、より精神的な価値に重きを置く世代が世に増えていることや、インターネットの普及による情報の共有化等があるだろう。しかしそれ以上に、世界的な規模でより価値の高いものを生み出そうという流れがある為だと個人的には考えている。だがそれについてはここでは詳しく論じないことにし、ただこのところ人々の意識が高まっているのをメディアネットや会う人の中に感じると言うに止める(反動で意識の低い人の表現も増えているが、総合的には高まっている)。


 最後に、構成員の意識は低いが強い制限を設けることによって組織的に強い企業と、構成員の意識が高く制限は少なくとも組織的に強い企業について考えてみる。

 これは当然後者が理想だが、これまでは人々の意識の程度によって、個性や自由を制限していかなければ強い組織たりえなかった。しかし今後は人々の意識が高まって行くにつれて、徐々に制限を少なくし、各人の個性、自由、創造性を発揮させつつも組織としての強さを維持できるようになってゆくだろう。なぜなら意識が高くなるほど、異なる考えや嗜好を持っていても各人が調和して働く事が出来るようになるためだ。同一の性質を構成員に求めることによって組織としての一体性を保つ企業と、種々の性質を持つが高い協調性によって調和して働く構成員を持つ企業。市場で競合した場合も、どちらが優勢かは明らかだろう。尚、拝金主義を取り入れると、短期的には低い意識でも自由がある強い企業を装えるが、遠からず内部崩壊を起こすだろう。なぜならそこには刹那的にしか人を惹き付けるものがない為である。



 以上をふまえると

個性・自由・独創性と、組織の効率性を両立させるような、そういう理想の組織を作れるのではないだろうか? そういう未来の理想組織の可能性はないのだろうか?

という問いに対する私の答えは

Yes!」

であり、

私の主張は、

「個性、自由、創造性を発揮したいならばそれに見合うだけ自らの意識を高めよ。そして経営者組織の構成員の意識向上に努め、その最善策は自身の意識を高める事と知り、自らを向上させよ。さすれば汝の組織は個人の自由と組織の強さが調和して存在する理想的な状態に近づくであろう。そうして共に皆でより良い社会をつくってゆこうではないか」

ということになる。

 ここまで私の話は極論が多く、到底実現不可能な理想論に思われるかもしれない。しかし、現在の状況と理想的状態とは、ひとっ飛びで行き来するものではなく、一歩一歩近づけていく類の、程度問題である。よって、仮にその理想が遠いとしても、その方向へ顔を向け一歩でも半歩でも進むことは、価値あることと思う。

*1:このように見ていけば、例えば死刑制度の是非についても、人々の意識が低いほどたくさん死刑を適用して恐怖によって犯罪を抑えなければならないが、ある程度以上人々の意識が高いなら死刑制度を廃止することができるということになる。(残念ながら日本人の意識は死刑を廃止できるほどには高まっていないともいえる)
 又、以前日本では書面契約が徹底されていなかったのは、書面で契約せずとも世の中がうまく回る程度に信頼を重視する人々の意識が高かったとも言える。そこに、信用を失おうとも金をせしめられるならば口約束は破るという考えが入って来たため、書面契約を整備していく必要が強まってきた。

04042007/03/12 12:53貴文にせよ、ノッフ!さんの文にせよ、こういった、本当の意味での建設的な意見を持っている方がこんなに身近にいるのだと思う反面、社会生活の中では、その意識の高さが見えることが異常すぎるほど少ないと感じます。小さな一歩を、みんなどうして実行しないか、それが大きな問題なのかな。

IWAKEIWAKE2007/03/12 20:10旧態依然とした環境で、一人だけ一歩を出すと叩かれる、又は、どちらへ一歩を出せばよいのか・その一歩に意味があるのか分からない、というような理由があると思います。
しかし確実に、その一歩を踏み出したいという気持ちが人々の中で高まっています。最初は徐々にですが、自分以外にも皆が一歩を出そうとしているそぶりをしていることを、お互いに気付くにつれて、加速度的にその流れは速まるでしょう。
例えば21世紀になるころから、どんどん隠し事ができなくなってきています。インターネットの登場もありますが、それと同時に「隠すのは良くない」という気持ちが人々の意識の中で高まっているためです。汚職でも横領でも、「それを皆で隠しておきましょう」という共通合意がなければ、隠しておくことはできません。以前では、とても表に出ることは無かったであろう事件が、次々に明るみに出ているのをニュースで見かけませんか?その多くは、それを表に出さなければという意識を持った人によってなされています。内部告発受付コーナーなど、以前では考えられもしなかったことです。
もちろんこの例に限らず、教育でも、社会でも、まず膿をだしてから新しいよりよいものにしていくという流れが起きています。
激動の時代ですが、未来は明るいものになるでしょう。そのためにも、まずは自分自身とその周りのことから、取り組んでいきましょう。

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