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とらっくばっく

2007-12-17究極存在論と行動原理 - 究極に関する論理概説

はじめに

私が通常何かを表現する際には、なるべく他者の思考の文脈に沿った表現になるようにしている。そうしなければその内容が理解されないためだ。しかし、今回の記事は私が最も興味を持っているテーマなのだが、それは殆どの人にとってまったく馴染みのないものであるだろうし、私も自分の思考の文脈に沿った形でなければ書きにくいので、分かりやすさを犠牲にして書きやすいように書いた。その点をご理解頂きたい。


1.存在の究極に関する論理


1.1 完全無限

何事に関してもあらゆる見方が可能であるが、どの見方であってもそれが絶対的な見方だというものはなく、すべて相対的である。つまり、ある現象が他の現象よりも絶対的にリアルだということはなく、ある見方が他の見方よりも絶対的にリアルだということもない。例を挙げれば、あるゲーム内の仮想空間を現実だと考える見方と、自分の見ている夢を現実だと考える見方と、目を醒ましているときに見るいわゆる通常の世界現実だと考える見方は、どれも同等の正当性を持つ見方であり、絶対的には差異はない。(もちろん相対的には大いに差がある。地平線から月が昇るという見方と、月平線から地球が昇るという見方は、絶対的には差が無いが、地球に住んでいる人が利用するのに適しているかどうかという観点から見れば、前者の方が遙かに強い正当性を持っている。)

さて、実際に存在することと、存在する可能性はあるが存在していないことは、絶対的には等価である。それらは単に見方が異なるに過ぎない。(強引に例えれば、パラレルワールドの住人にとってはこの世界は可能性の上でしか存在していないが、それはお互い様であり、絶対的にはどちらの見方も同じ。)

では、存在する可能性のあるものはすべて存在するという見方で考えていくと、存在というものはどこまで広大になっていくだろうか。これは、あらゆる方向に、どこまでも無限に広がってゆく。我々が思い描きうる全ては存在し、我々が思い描きえない全てもまた、それを思い描きうるものが存在しうることによって存在する。このようにして存在というものを拡大して見ていくと、ついにはあらゆる方向に無限に広がる究極のものとしての、存在というものの在り方が見えてくる。これを私は完全無限と呼ぶ。(ここで、何者によっても思い描き得ないもの、完全無限体における穴とでも呼ばれるべきもの、いわゆる、無、が存在するのか、それらが存在する場合どの程度の分布になるのかという問題があるが、これは今は重要ではないので取り上げない。)

私が完全無限体と呼ぶものがどれほど広大であるかは分かってもらいにくいと思うが、あらゆる素粒子存在しうるパターン全て、あらゆる人が考えうる物事とその派生などについて、全ての可能性とその可能性の在り方のパターン全て、ありえる全てと考えうる全てとそれらでない全てが含まれたものであり、完全にあらゆる方向に対して無限である。(これに対し、他の無限は部分無限とでも呼べるだろう。部分無限なものは無限にあり、例えば自然数の数列は無限である。しかしそれは無限である範囲がある部分(自然数列の方向かつ整数)に限定された無限であり、整数の数列という無限の半分しかない。しかしどんな数列も数学体系という領域内における無限であり、数学体系といえど人間の考えうることという領域に収まっている。こうしてみていって、最終的にあらゆる方向に対しても無限である最終最大の無限を完全無限(体)と呼び、完全に(あらゆる方向に)無限なものはこれだけである。)


1.2 完全無限体の性質と時空間

完全無限体には全てが含まれ、それを完全無限体として眺めると全ては止まっている。そしてただ完全無限体のみが存在している。全ては分割されておらず一体である。(何かが動いたり変化したりしているように見えたら、それは完全無限体を見る見方ではなく、その他の特定の部分を見る相対的な見方である。)

完全無限体の中のある領域を眺める見方に、物質が存在する、という見方があり、その見方の中に、多元宇宙論という見方があり、その見方の中にこの宇宙存在する、という見方があり、その見方の中に、時空連続体、という見方があり、その見方の中に、一定方向に断面を動かして眺めるという見方があり、その見方を採用すると、時間というものが存在するように見える。

時間が存在するという見方は間違いでもないし悪いことでもないが、正しいということもない。絶対的には、単にそういった見方も可能であるというだけである。

過去は戻らないのか?未来は未知なのか?という問題についても、そういう見方も可能である、ということになる。完全無限体の中には、全てのパターン過去と、全てのパターン未来は、全てのパターン現在と同様に存在している。あなたの主観という見方では、そのどれか一つを体験することになるのかもしれない。しかし絶対的には、あなたが全てのパターンを体験した場合が同様に存在している。あなたは主観的には、右の箱か左の箱のどちらを開けるかを自分で選べると思うかもしれない。しかし絶対的にはあなたは何も選ばず、全ての場合があるだけだ。そしてあなたはあなた自身の意識や意志が存在すると思っているかもしれないが、絶対的には、そして多くの相対的な見方においてもそれらは存在しない。単にそれらが存在するという見方も可能であるというだけだ。その場合、あなたは自分に意志があるので、何をするかを自分で選択できるという見方を採用するだろう。それはもちろん悪いことでもないし、間違いでもない。しかしあなたは自分の意識がどこから来ているのかを自覚することは無い。そしてあなたの行ったことも行わなかったことも含め、全ては完全無限体の中に永遠に刻まれている。そしてまたそれらを参照するどんな見方でも存在しうるということにより、どのようにでも参照される。つまり、あなたのこれまでの、そしてこれからの全ての行動、すべての思考、すべての感情は洩れなく記録されており、無限の数の観察者によって観察される。


2.絶対行動原理


さてここで、行動というものが存在するという見方を採用しよう。すると、あらゆる意識を有する(かのように見える)存在は、主観的には自らの行動を選択している。そしてその選択は、ただ一つの基準に従ってなされている。その基準とは快、不快である。そしてこの、快を増やし、不快を減らそうとする(トータルでの快を最大にしようとする)一定方向の行動原理を絶対行動原理と呼ぶ。

全ての選択はこの絶対行動原理に従ってなされており、これを破ることは絶対に不可能である。(例えばあなあたがこの行動原理を破るために、わざと自分の不快感を増やすような選択をしようと試みたとしよう。例えば、今から包丁で自分の腕を切断するかしないかという選択において、苦痛が大きいであろう切断するという選択をしたとしよう。しかしこの選択をした場合、あなたにとって、腕の肉体的苦痛と、私が示した行動原理を破ってやったぞという自負からくる精神快楽を足し合わせた場合、腕を切断しない選択をした場合よりトータルでの快楽が大きくなると判断したためにその選択をしたのである。)

一見どれほど複雑な動機から行われているように見える行動でも、すべてこの行動原理に従っている。ではここに一人の大学受験生がいて、嫌々ながら勉強しているとしよう。彼は一見自分の快を追及していないように見えるかもしれないが、結局のところ勉強しない場合の将来への不安感という苦痛より、勉強の苦痛のほうが小さいから勉強しているのだ。

この原理は、道徳倫理、人道、正義、善悪、法律暴力、正誤、損得、愛憎、その他あらゆる形の判断基準のベールの背後で働いている。どんな動機も良く見れば、それは結局快不快に変換可能なものだということが分かるだろう。


さて、全ての人は幸福になろうとしている。全ての人は快を最大にしようとする行動原理に従って行動している。幸福とは、トータルでの快の多い状態のことである。

しかししばしば、自分の快を最大化しようと行動すると逆に快が減少するように見えることがある。そこである人々は、自分の快不快ではなく社会規範に従って行動することが、自分が幸福になるのに良い方法だと思っている。

かしこれは単に、その行動が自分の快不快にどのような影響を与えるかの予測が間違っていただけであり、予測の精度を上げればよいだけである。

何が自己の快不快になるかが正確に分かるのは、自分自身のみである。社会規範道徳は、あなたの快が最大になるように意図しては作られていない。社会規範は、社会規範の製作者の快が最大になるように作られている。絶対行動原理により、それ以外はありえないのである。

ここから様々な事柄が演繹的に導かれるのであるが、ここではあなたが幸福になるためにはどう行動すればよいかという点だけを紹介する。


あなたが幸福になるためには

自分の行動の結果がどのように自分の快不快に影響を与えるかが分かっていない場合や、自分以上に自分の快の最大化の方法を知っている人がそれを意図して作ったものである場合には、他者の作った行動規範に従う。

そうでない場合には、自分の快が最大化するように行動する。

行動の結果の予測精度を上げる。

ようにすればよい。

これを別の表現にすれば、

あなたが充分に賢い場合、

「やりたいことは全部やり、やりたくないことは何もやらない」

ようにすると、あなたは最も幸福になる。

となる。

この状態の具体的実現方法はこの記事のテーマではないのでここでは取り上げない。


おわりに


この記事では存在と行動の根本について示したが、これは具体的なハウツーではない。だからこそ多くの人にとっては興味の無いことだと思う。しかし私にとっては極めて重要なことだ。

私は皆が大きな底の深い桶にバケツで水を入れているのを見る。皆夢中に水を入れている。そしてどのようなポーズで水を入れるかや、バケツの持ち方や、どれだけ早く水を入れるかに興味を持ち、熱心に語り合っている。そしてこれまでどれだけ多くの水が桶に貯められたかを思って涙している。しかし桶は深いので実際に水が貯まっているのかどうかは誰にも分からない。そもそも底があるのかどうかも分からない。

私は皆と水を入れながらもずっと気になっていた。この桶には底があるのか、底があっても穴が開いていたりしないのか、側面から洩れたりはしていないのか。

皆は言うかもしれない。「そんなこと考えて手を止めてないで水を入れろよ。」「水を入れるのはとにかく楽しいぜー。」「手を止めて考えるにしてもせめて、どうすればもっと効率よく水を入れられるかを考えてくれよ。」

彼らは桶の底について考えたことはないのだろう。それどころか桶に底があるという概念すらないだろう。せいぜい、桶には深さというものがある、ということを考えることがあるくらいだ。何しろ彼らは桶の内側は殆ど覗こうとせず、稀に覗いてもせいぜい縁から10cmくらいの深さまでしか見ない。

多くの偉大な人々は桶の深い部分に関する色々な情報を教えてくれるが、私が最も気にしている点は話題にならなかった。彼らは知っているのかもしれないが。

皆は本当に底があるか気にならないのだろうか。穴が無いか不安ではないのだろうか。それを確認せずに本当に桶に水を入れることを楽しめるのだろうか。意識せずとも少しは不安があるのではないだろうか。底がどうなっているかは分からないとは限らないのではないか。

そこで私は一人で桶深くまで降りていった。桶の底を確認しようとすることは、底を知らずに水を貯めようとするよりもずっと楽しいことだった。

そして思ったよりも早く底に到達した。そして確認できた。私はすっかり安心した。

私はいずれこのことを桶の底を知らない皆に伝えようと思ったが、上手く伝えられるとも思えないし、皆興味もないだろうからしばらく黙っていた。そして水を入れる作業を一人で心から楽しんだ。

しかし今日は気が向いたのでちょっと話してみることにした。もしかしたら私と同じように底がちゃんとしているか心配している人がいるかもしれないし。

「みなさん、私は桶の底がしっかりと塞がっていることを確認しました。底からも側面からも水が洩れる心配はありません。どうぞご安心下さい。」


みなさん、あなた方の全ての行為は最大のものから最小のものまで全て永遠に失われず、滅びません。また、全ての行為は完全に肯定されます。私はこれらの事を確認しました。明日宇宙燃え尽きるとしても、特に不安はありません。みなさんもどうぞ安心して好きなように生きたり死んだり、幸福になったりして下さい。

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