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2007-10-21 ニーチェとイエスの主張の類似性

[] ニーチェイエスの主張の類似性

「神は死んだ」と言うニーチェと「私と父なる神とは一つである」と言うイエス*1両者の主張は正反対であり、さぞかし大きく異なっているだろうと思われるかもしれない。しかし両者の主張をよく見てみると、多くの点で類似していることに気付く。そこで、いくつかの問題について、両者はどのように主張しているのかをここで順次比較検討し、その類似性を示していく。


0.目次


 1.価値ある物をどのように与えればよいかという問題について

 2.どのような考えに従って生きるべきかという問題について

 3.自分の思考が作った神という観念を崇拝し、自分の肉体を軽視するという態度について

 4.どのように書き、どのように読むのがよいかという問題について

 5.神を知るのは喜びを通してか悲しみを通してかという問題について

 6.高みを目指す者は内外からの妨害にさらされるという問題について

 7.自分の敵をどのように捉えるかという問題について

 8.細々とした妨害にはどのように接するべきかという問題について

 9.性欲をどのように捉えるべきかという問題について

10.隣人を愛するとはどういうことかという問題について

11.どのように自己の価値を評価すべきかという問題について

12.自分自身の飛躍的な進歩には何が必要かという問題について

13.人間の犯した罪をどのように裁けばよいかという問題について

14.偶像、信条、その他観念上の神を崇拝する人々について

15.柔和であることについて

16.過去現在未来、時間、永遠について

17.愛という動機


1.価値ある物をどのように与えればよいかという問題について


ニーチェ


かれらはわたしを理解しない。わたしはこれらの耳に説くべき口ではない。

かれらはわたしが冷ややかであり、すさまじい諧謔を弄する嘲笑者であると思っている。

そしていまかれらはわたしに目を向けて、笑っている。そのうえ、笑いながら、わたしを憎んでいる。かれらの笑いのなかには氷がある。

「1-序説-5」

ツァラトゥストラは民衆に語るのではなく、伴侶たちに語るのだ。

わたしは民衆を相手にけっしてふたたび語るまい。死者に語ったのは、これが最後だ。

創造する者、刈り入れる者、ことほぐ者と私は結ぼう。

「1-序説-9」

君が手をさしのべてはならぬ人間が多くいるのだ。かれらにはただ前足を与えればいい。そしてその前足にはまた猛獣の爪がそなえられてあるように!

「1-創造者の道」

そこでおまえは学んだのだ。

よく贈るということは、一つの技術であり、善意の究極の離れ業、狡知をきわめる巨匠の芸であることを。

「4-進んでなった乞食


と言い、イエスは、


聖なるものを犬たちに与えたり、あなた方の真珠を豚たちに与えたりしてはいけない。彼らがそれらを足の下で踏みつけ、向き直ってあなた方を引き裂くことのないためだ。

マタイ-7-6」


と言う。


この問題については両者共に、

「価値のある贈り物はその価値を理解する者にだけ与えるべきだ。理解しない者に与えても相手の役に立たないばかりか、逆に害となる場合もあり、恨まれることにもなりかねないのだから。」

と主張している。


2.どのような考えに従って生きるべきかという問題について


ニーチェ


どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。

しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神獅子となる。精神は自由をわがものとしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。

「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。

しかし獅子精神は言う、「我は欲す」と。

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができることがある。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。

そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

「1-三様の変化」

ほとんど揺藍のなかにいるときから、われわれは数々の重いことばと重い価値とを持ち物として授けられる。「善」と「悪」――これがその持ち物の名である。この持ち物をたずさえているのを見とどけて、人々はわれわれにこの世に生きることを許すのである。

そしてわれわれは――人々から持たされたものを、忠実に運んで歩く。こわばった肩にのせ、険しい山々を越えて。われわれが汗をかくと、人々はわれわれに言う、「そうだ、正は担うのに重いものだ」と。

だが、重いのは、人間がみずからを担うのが重いだけの話である。そうなるのは、人間があまりに多くの他者の物をおのれの肩にのせて運ぶからである。そのとき人間は、駱駝のようにひざまずいて、したたかに荷を積まれるままになっている。

ことに、畏敬の念のあつい、重荷に堪える、強力な人間がそうである。かれはあまりに多くの他者の重いことばと重い価値の数々を身に負う。――そのとき生はかれには砂漠のように思われるのだ。

人間は、その真相を見つけだすことがむずかしい。ことに、自分が自分を見つけだすことが、最もむずかしい。しばしば精神が魂について嘘をつく。

しかし、次のような言を発する者は、自分自身を見つけだした者である、「これはわたしの善であり、悪である」と。

「3-重さの霊-2」


と言い、イエスは、


種々様々な意見が外部から来る――しかし自分自身以外から出てくる意見によっては真理を把握することはできないのである。

「1-7」

これまでのあなたたちの心は外からの誤った考えを詰め込まれ、かくて聖なる内奥、即ち、唯一の実在を閉ざしていたのである。

「9-46」

あなたたちが他人の云うことを闇雲に信じたり、他人の信じていることを丸呑みすれば、模倣者にはなっても考える人にはなれない、従ってあなたたちは束縛されているのである。

「9-47」

立ち返って幼子たちのようにならなければ、あなた方は決して天の王国に入ることはないだろう。

マタイ-18-3」

外を観るな、内を観よ、そして自分が実在であることを知るがよい。

「3-65」

天とは何かの場所ではなくて神の意識である。あなたたちは何を意識しているか。暫く考えてみるがよい。ただ自分自身のことだけを意識しているのか、外部のことを意識しているのか、目に見え耳で聞こえるものを意識しているのか。それとも内なる声を意識しているのか。この内なる声は自分自身の存在を啓示しようとして、かつ又その強大なる力をあなたたちの生活の中で啓示しようとして、待機している。

「2-3」


と言う。


この問題については両者共に、

「外からの考えに盲従するのではなく、子供のように自由な心で自分の内からの考えに従って行動できるようになることが望ましい。」

と主張している。


3.自分の思考が作った神という観念を崇拝し、自分の肉体を軽視するという態度について


ニーチェ


わたしもわたしの妄想人間彼岸に馳せた、すべての背面世界論者のように。だが、人間彼岸に思いを馳せて、真理にはいることができたであろうか。

ああ、兄弟たちよ、わたしのつくったこの神は、人間の製作品、人間の妄念であったのだ。あらゆる神々がそうであるのと同じように。

その神は人間であったのだ。しかも人間とその「我」のあわれなひとかけらにすぎなかったのだ。

詩作し、神への渇望に駆られた者たちのなかには、多くの病的なやからがいた。

かれらは常に過去の蒙昧な時代を回顧する。

理性の狂いが神との類似であり、それを疑うことが罪だった。

現代における神の類似者たちのことを、わたしはあまりによく知っている。かれらは、自分がひとから信じられること、それへの疑いが罪になることを望んでいるのである。

わたしの兄弟たちよ、むしろ健康な肉体の声を聞け。これは、より誠実な、より純潔な声だ。

健康な肉体、完全な、ゆがまぬ肉体は、より誠実に、より純潔に語る。そしてそれは大地の意義について語るのだ。

「1-背面世界論者」

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、――その名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、彼が住んでいる。

君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。

「1-肉体の軽侮者」

まず大胆に自分自身を信ずるがよい――おまえたち自身とおまえたちの内臓を信ずるがよい。自分自身を信じない者のことばは、つねに嘘になる。

「2-無垢な認識


と言い、イエスは、


意識の中に保特されているさまざまの考えや観念は現象我を通して現れつつあるが、それは実在ではない。

「11-11」

多くの人々がその凝り固まった信仰のために妨げられている。彼らは他の者から与えられた観念以上のものは何も受け取ることはできない。かくて彼らは自分自身以外の或る権威に自分自身を引き渡し、とどのつまりが、制約され、束縛され、もはや自由ではなくなるのである。

「12-8」

人類を内から観れば、あなたたちのさまざまな信仰により、又あなたたちが掴んで離さない観念のために、どんなに多くの力が閉じ込められているかが分かる。

「12-26」

神は人の手によっては造られていない神殿である肉体を営繕し、神御自身を表現しつつある。

「1-84」

恐怖を放ち去った時、神である本性が肉体の正常な状態即ち調和を取り戻すことをあなたたちは知るであろう。

「1-85」

聖なる神殿を毎日キリストの生命の力強い、かつ断定的な波動で満たし、周囲の雰囲気を、肉の感官を超えて、昇華させよ。

「6-18」

ハートの清き者はあらゆる人々の中に神を見る。さまざまな信仰、観念、心象など、これらは心の産物に過ぎないのであって、実在そのものは久遠であり、「今」の中において実在自身を絶えず表現しつつある。

「10-47」


と言う。


この問題については両者共に、

「自分で神という観念を作り出しそれを崇拝することは、無意味であり有害でもある。それよりはむしろ、自分の本質が表現されているところの自分の肉体を大切にし、常に健やかたらしめるよう努めよ。」

と主張している。


4.どのように書き、どのように読むのがよいかという問題について


ニーチェ


いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血は精神であることを。

ひとの血を理解するのは、たやすくできることではない。わたしは読書する怠け者を憎む。

血と寸鉄の言で書く者は、読まれることを欲しない。そらんじられることを欲する。

「1-読むことと書くこと」


と言い、イエスは、


書物や言葉や文字など、すべてそれ自身としての価値は無い。み霊が思念を不可視のものに繋ぎ、かくて五官の世界を貫き通す手段として言葉を用いた時始めてそれらのものに価値が生ずるのである。

「7-11」

かくして言葉は大いなる値の真珠を内に秘めている外側の殻に過ぎない。あなたたちが或る言葉を自分の心の中に取り入れて、例えば『キリスト』、『わたしは生命である』という言葉を口に出して云うならば、その言葉は一応肉体の器官を通して出るのではあるが、それを久遠常在の霊的状態に高めることができるのである。

「7-12」

あなたたちが聖書その他何であれ天啓を受けた書、特にあなたたちの瞑想に資するためにわたしが与えてきたこれまでの法語を読む時、言葉の背後にみ霊を求めるがよい。求めなければならないのは文字や言葉ではなく、眼光紙背に徹することである。そうすればわたしはあなたたちにインスピレーションを与え、文字や言葉の真理をあなたたちの中に現す。

「7-59」

静かなる時心を静めてそれを読むがよい。そうすれば、わたしの言葉はあなたたちに留まるであろう。

「5-46」


と言う。


この問題については両者共に、

「文字や言葉自体ではなく、その背後に込められているものこそ大切であり、それを意識して読み、又書くべきである。」

と主張している。


5.神を知るのは喜びを通してか悲しみを通してかという問題について


ニーチェ


人間存在しはじめてからこのかた、人間は楽しむことがあまりに少なかった。そのことだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ。

「1-同情者たち」

わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。

わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。――この霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる。

これを殺すのは、怒りによってではなく、笑いによってだ。さあ、この重さの霊を殺そうではないか。

いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている。

「1-読むことと書くこと」


と言い、イエスは、


たいていの人々の心は罪の力という重荷をかつがされている。彼らには世の無智と世の罪だけしか見えない。しかし無智と罪を通してはキリストを見ることはできない。神の愛を通してのみキリストを見ることができるのである。

「1-71」

歓べ、恐れるな。恐れとは明確に視ることを妨げる視力の曇りである。それはあなたたちのヴィジョンを曇らす。

「13-35」

神の赦しは自然に発露するものである。従って一切のあやまちはその久遠の愛の流れによって直ちに消え去る。故に、失望、悲嘆、自責によってこの神の賜物を妨げてはならぬ。

「14-41」

このことを悟ると、ハートは開かれ、神の愛はその中へ流れ入り、やがてそれが肉体に現象化する。自分を責めて怨嗟に暮れ失望すれば、心は影に満たされる。しかし神の愛が満てば影の余地はなく、影は融け去る。

「14-42」


と言う。


この問題については両者共に、

「神は喜びの中にこそ見出しうる。」

と主張している。


6.高みを目指す者は内外からの妨害にさらされるという問題について


ニーチェ


自由な高みを君は目ざしている。星の世界を君の魂は渇望している。しかし君の低い衝動も自由を渇望している。

君の内部の凶暴な犬どもが、自由の身になろうとしている。

わたしから見れば、君はまだ捕われびとで、ただ自由を思い描いているだけだ。ああ、このような捕われびとの魂は賢く機敏になる。しかし同時に、狡猾になり、粗悪になる。

精神の自由をかちえた者も、さらにおのれを浄化しなければならぬ。かれの内部には、なお多くの牢獄と腐敗物が残っている。かれの目はいっそう清らかにならねばならぬ。

そうだ、わたしは君の危険を知っている。しかしわたしの愛と希望にかけて、わたしは君に切願する、君の愛と希望とを投げ捨てるな。

君は自分が高貴なことを今も感じでいる。そして君を不快に感じ、君に悪意のまなざしを投げる他の者たちも、やはりまだ君を高貴だと感じているのだ。高貴な者は万人にとって、妨害物であることを知るがいい。

だが、高貴な者にとっての危険は、かれが善い人の一人になるということではない。それよりも、かれが鉄面皮な者、冷笑する者、否定者になるということなのだ。

ああ、わたしはおのれの最高の希望を失った高貴な人たちを知っている。そのとき、かれらはあらゆる高い希望への誹謗者になった。

かつては、かれらは英雄になろうと志した。いま、かれらは蕩児となった。英雄はかれらにとって、恨みと恐れの的である。

しかし、わたしはわたしの愛と希望にかけて君に切願する。君の魂のなかの英雄を投げ捨てるな。君の最高の希望を神聖視せよ。

「1-山上の木」

わたしの兄弟よ、君は「軽蔑」という言葉を身にしみて知っているか。そして、君を軽蔑する者たちにたいしても公正をまもろうとする君の公正の苦悩を知っているか。

君は、多数者をして、いやいやながらも君にたいするかれらの判断と認識を改めざるをえないようにした。そのことをかれらは深く君にたいして恨みとしているのだ。君はかれらのそばに来たのに、そののちそこを通り過ぎて前へ高みへ進んでしまった。そのことを、かれらはけっして君に許すことはないのだ。

君はかれらを超えてゆく。しかし君が高みへのぼればのぼるほど、妬みの目は君を小さい者として見る。そして飛翔する者は、最も憎まれる者なのだ。

不公正と汚物を、かれらは孤独者にむかって投げかける。しかし、わたしの兄弟よ、君が一つの星であろうとするなら、かれらがそうするからといって、君がかれらを照らすことを少なくしてはならぬ。

「1-創造者の道」


と言い、イエスは、


この世にはわたしを知らないために、あなたたちを嫌い、あなたたちの悪口を云う人々がいる。わたしも又嫌われ、あなたたちの前で軽蔑されたことをよく知って欲しい。俗世の無知は今尚俗世の中に存続している。この無知を愛によって超克するのがキリストである。そのキリストはあなたたちの中に生きてい給う。キリスト吾が内に生く、とあなたたちが云えば、云うたが故に世の無知はあなたたちを嫌い、あなたたちを軽蔑するであろう。しかし誠にあなたたちに告げるが、恐れてはならない。なぜならば無知には何らの力もなく、魂とみ霊とを破壊することは出来ないからである。

「4-23」

わたしを信じ、神の愛がわたしを通じて発現すること、わたしはすべての人々、わたしを軽蔑した人々でさえも愛することを知るがよい。

「4-72」

あなたたちの仕事ははじめから自分で引き受けたものであり、あなたたちの進む一歩々々は正しい。その終末は恐らくあなたたちには見えないであろう。そのために疑惑がおこる。しかしあなたたちが疑惑しているからといって、それが創造計画を止めさせ、変更させることはできない。

「5-82」

決して見掛けに落胆してはならない。常に善なるものを見ることである。すべてはついには善なるものに到達するのである。久遠の計画は果たされなければならぬことを知るがよい、なぜならそれが神の御意志だからである。その背後に存する栄光と目的とはすべての人々に対する愛と平和と調和と善意とである。

「5-83」


と言う。


この問題については両者共に、

「内部の疑念や周囲からの軽蔑に負けず、なおかつ彼らに愛を惜しみなく贈り続け、あくまで最高の理想に向かって進め。」

と主張している。


7.自分の敵をどのように捉えるかという問題について


ニーチェ


戦いにおけるわたしの相手よ。わたしは君たちを心の底から愛する。

「1-戦争と戦士」

わたしの敵たちもわたしの至福の一部なのだ。

敵にむかって投げつけるこの槍。わたしがそれをついに投げつけていい時が来たことを、わたしはどんなにかわたしの敵に感謝することだろう。

「2-鏡をもった小児」


と言い、イエスは、


『あなたは隣人を愛し、敵を憎まなければならない』と言われたのをあなたたちは聞いた。 だが、あなたたちに告げるが、敵を愛し、のろう者を祝福し、虐待迫害する者たちのために祈りなさい。あなたたちが、天におられるあなたたちの父の子となるために。その方は、悪い者の上にも善い者の上にもご自分の太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからだ。自分を愛してくれる者たちを愛したからといって、あなたたちに何の報いがあるだろうか。徴税人たちも同じことをしているではないか。自分の友人たちだけにあいさつしたからといって、あなたたちは何の優れたことをしているのか。徴税人たちも同じことをしているではないか。だから、あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全でありなさい。

マタイ-5-43」

悲しみや困難に遭っても、喜んでそれに挨拶するがよい。それらを通じ、それらを克服することによって、あなたたちはわたしの中で生長するからである。

「12-95」

あなたたちが自分を愛する者のみを愛したところで、得るところは殆どない。しかし自分を嫌う者をも愛して始めてその酬いは大きいのである。

「14-63」


と言う。


この問題については両者共に、

「自己の成長の好機である敵を愛せよ。」

と主張している。


8.細々とした妨害にはどのように接するべきかという問題について


ニーチェ


のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの引き起こす喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。

君の隣人たちは、常に毒ある蝿であるだろう。君の偉大さ――それが、かれらをいよいよ有毒にし、いよいよ蝿にせずにはおかぬのだ。

のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。強壮な風の吹くところへ。蝿たたきになることは君の運命ではない。

「1-市場の蝿」

ささいなことに刺を逆立てるのは、はりねずみ用の知恵だと思われる。

「3-卑小化する徳-2」


と言い、イエスは、


成就の秘訣は一切の物事を云い争わず疑わずに為すことである。これが成就する創造力を発動する

「4-84」


と言う。


この問題については両者共に、

「小さな妨害は相手にするな。」

と主張している。


9.性欲をどのように捉えるべきかという問題について


ニーチェ


淫蕩な女の夢の中に落ちこむよりは、殺人者の手に落ちこむほうが、ましではないか。

わたしは君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。わたしが勧めるのは、官能の無邪気さだ。

わたしは君たちに貞潔を勧めるのではない。貞潔は、ある人々においては徳であるが、多くの者においては、ほとんど悪徳である。

「1-純潔」

肉欲。賤民たちにとっては、かれらをおもむろに焼く火。むしばまれた木材と悪臭をはなつぼろきれとにとっては、たちどころにこれを焼き、とろかすかまどである。

肉欲。自由な心情にとっては、無垢で自由なもの、地上における花園幸福、すべての未来が「いま」に寄せあふれるばかりの感謝

「3-三つの悪-2」


と言い、イエスは、


わたしは肉のものを拒否せよと要求するのではない。肉体の中に宿っている間はそれも必要である。

「10-122」

また肉のものを軽蔑してもならない、その代わりその値打ちを認め、よく知り、それに応じた用い方をするがよい。

「10-123」


と言う。


この問題については両者共に、

「性欲は自然なものである。歪んだ解釈や極端な扱いをせず適切に用いよ。」

と主張している。


10.隣人を愛するとはどういうことかという問題について


ニーチェ


君たちは隣人のもとにむらがり、そのことに美しい名を与えている。しかし、わたしは君たちに言おう、君たちの隣人愛は、君たち自身への悪い愛であると。

君たちは、自分自身と顔を向き合わせることからのがれて、隣人へと走る。そしてそのことを一つの徳に仕立てたがっているのだ。

わたしは君たちに隣人愛を勧めるだろうか。いや、むしろわたしは君たちに、隣人を避けよ、遠人を愛せよと勧める。

隣人愛より高いものは、最も遠い者、未来に出現する者への愛である。人間への愛よりなおいっそう高いものは、事業と目に見えぬ幻影とへの愛である。

君に先だって歩んでゆくこの幻影、それは、わたしの兄弟よ、君よりも美しいのだ。なぜ君はそれに君の血肉を授けないのか。だが君は恐れて君の隣人へと走るのだ。

未来と、最も遠いこととが、君の「今日」の原因であれ。君の友の内部に、君は君の原因としての超人を愛さねばならぬ。

わたしの兄弟たちよ、わたしは君たちに隣人愛を勧めない。わたしは君たちに遠人愛を勧める。

「1-隣人愛」


と言い、イエスは、


人格(personality)は感覚の幻影である。

「10-125」

人格の彼方を観よ。人格は外的現れにすぎない。自分自身の外部に真理を見い出すことはできないのである。自分の人格や、自分の周囲にある多くの人格の彼方を観なければならない。人格の中に真理を見い出すことは決してできないのである。人格とはもろもろの状態に対する個人の反動の結果である。

「11-10」

意識の中に保特されているさまざまの考えや観念は人格を通して現れつつあるが、それは実在ではない。実在はそれ自身だけで完全であり、無欠である。それは、純粋かつ完全にそれ自身を現す。それが神のキリストである。故に人格の彼方を観ることである。

「11-11」

人格を自分の心から無くせよ、そうすればあなたたちは神の栄光、永遠に君臨する神の一人子を見るであろう。

「14-36」

人格は外からつけている仮面にすぎない。人格にしがみついている限りあなたたちは妄想の中に生きつづけるであろう。

「14-37」

余りにも多くの人々がイエス人格に捉われ、その結果彼らはすべての人々の中にある久遠キリストを見ることができない。

「14-38」

キリストは父なる神、すべてを支配し給うみ霊、生ける大生命のみ子であり、すべての魂の中に宿っている。

「2-61」

キリストはすべての人類の中にある神の霊である。わたしは神の愛である。この霊を知るためには、愛である神を敬慕しなければならない。

「11-33」

神はすべての中にすべてを貫いて生きてい給う唯一無二の生命である。神こそ実在である。

「3-91」

わたしは愛によって父なる神と一体である。汝魂を尽くし、ハートを尽くし、心を尽くし、力を尽くして汝の神なる主を愛すべし。汝の隣人を己自身のごとくに愛すべし。

「2-65」

自分自身の魂とハートとに流れ入る生命と愛との流れを実際に現す時、あなたたちは神の愛を実感するのである。すべてを愛することは神を愛することである。神はすべてを愛し給う、すべては神の被造物であるからである。だからこそわたしは、あなたたちの隣人を自分自身のように愛せよ、というのである。

「11-35」

母がその子を愛するがごとくにも、すべての人々に対して愛を感じなければならない。最も高い者から最も低い者に至るまですべては神の子である。

「2-82」

すべての人々は天にましますわたしの父の子であるからには、わたしが唯一ヶ所のくにたみのためだけではなく、あらゆるくにたみのために生きていることを、あなたたちは知らないのか。

「10-98」

わたしは世にあるすべての人々を愛する。

「8-135」


と言う。


この問題については両者共に、

「真に隣人を愛するとは、周囲の人間の表面上の人格を愛することではなく、その人間の奥に輝く最高の価値を愛することである。」

と主張している。


11.どのように自己の価値を評価すべきかという問題について


ニーチェ


君は深い愛をもつ者としての道を行く。君は君自身を愛し、それゆえに君自身を軽蔑しなければならぬ、深い愛をもつ者だけがするような軽蔑のしかたで。

「1-創造者の道」

おまえたちの隣人をおまえたち自身のように愛するがいい。――しかしまず自分自身を愛する者となれ。――

――大いなる愛をもって、大いなる蔑みをもって、自分自身を愛する者と。

「3-卑小化する徳-3」

人はみずからを愛することを学ばなければならない、すこやかな全き愛をもって。――そうわたしは教える。おのれがおのれ自身であることに堪え、よその場所をさまよい歩くことがないためにである。

こういう、よその場所をさまよい歩くことが、「隣人愛」と自称しているのである。このことばで、今までに最もはなはだしい嘘がつかれ、偽善が行われてきた、ことに世界を重苦しくしてきた者たちによって。

「3-重さの霊-2」


と言い、イエスは、


あなたたち自身だけでは、あなたたちは無である。しかし神と共となれば、あなたたちはすべてである。故に、『わたしと神とは一体である』と常に云うがよい。

「3-33」

わたしみずからは無である、しかしわたしの中に宿り給う父なる神は全てであり給う。父なる神はわたしを知り給い、わたしは父なる神を知る。わたしは父なる神を知るが故に、父なる神はわたしの中において、わたしを通して語り給う。かくしてわたしは父なる神の平安と愛と癒し英智とをもたらす。

「5-8」

わたしは自分ひとりでは無である。語り給うのはわたしの内なる父のみ霊である。これらのことすべて及びそれ以上のことを父は為し給う。

「13-86」

この内奥の平安は大いなる謙譲のしるしである。この謙譲の極みが「われ自らは何事をも為す能わず、常にわが内に留まり給うは父、その父こそみ業を為すなり」である。

「7-45」

と言う。

この問題については両者共に、

「自分の表層的な人格にはあまり価値をおかず、その奥にある最高のものにこそ価値をおくべきだ。」と主張している。


12.自分自身の飛躍的な進歩には何が必要かという問題について


ニーチェ


君は君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるをえないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。

わたしは愛する、おのれ自身を超えて創造しようとし、そのために滅びる者を。

「1-創造者の道」


と言い、イエスは、


なくなりはしまいかと恐れているものに、何とまあ誰も彼も同じように執着していることか。おのが生命を得んとする者はこれを失い、おのが生命を棄てる者はこれを得る。

「2-47」

生命を再び得んがために十字架にわたしの生命をかけそれによって生命を再び得たことがあらゆる経験の中での最大のものであった。しかしそれはわたし自身のためではなく、およそ生きているすべての人々、そして又『わたしを信ずる人々が決して死なないようにするため』であった。事実彼らは久遠の生命の秘蹟をすでに得たのである。

「1-67」

次に来るのが蘇りである。死に定められたこの肉の身よりの魂の蘇りである。キリストは肉の中に顕現した神の霊であり、昇天とはこの実在を真に認識すること、久遠キリストを真に把握することである。

「1-68」

もしあなたたちが内なるキリストに目覚めるならば、全能なる、静かにして穏やかなる声が、あなたたちを通じて顕現する。この目覚めがあらゆるもの、そして又、あらゆるものである神、と自分との一体への悟りである。

「4-69」

なぜならば、それこそが、死して後蘇り、一時行方知れずにはなったが今や探しあてたわたしの息子だからである。

「4-70」


と言う。


この問題については両者共に、

「これまで大切にしてきた古い信念体系を捨て去らなければ、新しい信念体系を真に認識して進歩することは出来ない。」と主張している。


13.人間の犯した罪をどのように裁けばよいかという問題について


ニーチェ


わたしは君たちの冷たい公正を好まない。君たちのところの裁判官の目は、つねに官吏の目であり、そこには官吏の冷たい刃が隠見している。

言うがよい、明らかに見る目をもっている愛であるような公正は、いったいどこにあるだろう。

単にいっさいの刑罰を負うばかりでなく、いっさいの負い目を身に受けるような愛を、君たちは創り出してくれ。

君たちのあらゆる者――裁く者を例外として――を無罪と宣告しうる公正を、君たちは創り出してくれ。

「1-まむしのかみ傷」

医者よ、君みずからを助けよ。そうすれば君は君の患者にも助けとなることができよう。患者に与えうる最上の助けは、自分自身をいやした者を患者が自分の目でみることだ。

「1-贈り与える徳-2」


と言い、イエスは、


罪は外なる五官の「我」に結びついた虚妄である。それは分離と混乱とに属する。

「8-38」

世の罪なるものについて非常に多くの人々がお説教をしているが、罪を余り見詰めすぎてはならぬと、わたしはあなたたちに話したことがある。いつまでも罪ばかり見詰めておればどうしてキリストを観ることができようか。

「8-39」

自分の内なるキリストの方をこそ見詰めておれば、心とハートの中にあるこの分離、この混迷、この罪は溶け去るのである。

「8-40」

あなたたちは外側で判断するが、わたしは何人をも裁かない。

「1-118」

これまであなたたちは、自分の尺度で悪いことをしたと決め込んだ人々に対して愛を出し控えたことがどんなに度々あったことか。そのような断定はあなたたちの関知することではさらさらないのである。それはすべて父なる神とその子との間のことがらである。このことをよくよく銘記するならば、あなたたちは他を批判することがなくなり、批判という武器はむしろまず第一に自分自身に対して向けるようになるであろう。

「2-98」

真っ先に自分自身の誤ちに気が付けば他の人々を前より一層よく理解するようになる。

「2-99」

あなたたちはこれまでとかく人々を批難しがちであった。自分が批難されないためには、人を批難せぬことである。先ず己が目より梁を取り去るがよい。そうすれば同胞の目の棘の取り方も前より一層解るようになるであろう。

「2-100」

あなたたちは非行の上に愛のベールをかけなければならぬ。そうすれば憎しみが心に入ることはない。愛のこの強大なる力はあらゆる物事に打ち克つ。愛は神のもの、善・悪は人の心のものである。

「10-23」

たいていの人々の心は罪の力という重荷をかつがされている。彼らには世の無知と世の罪だけしか見えない。しかし無知と罪とを通してはキリストを見ることはできない。神の愛を通してのみキリストを見ることができるのである。常に現在生きる神の子こそは愛なる父の完全無欠の現れである。

「1-71」


と言う。


この問題については両者共に、

「あなたたちは自分のことを棚に上げて他者を正しく裁けると思っているのか。そしてもし仮に正しく裁けるとしても、そんなことに意味はない。ただ愛によって、自分を含む全ての者に無罪を宣告せよ。」

と主張している。


14.偶像、信条、その他観念上の神を崇拝する人々について


ニーチェ


おお、これらの僧侶たちが建てた小屋を見るがいい。甘やかにかおるそれらの洞穴を、かれらは教会と呼んでいる。おお、このまやかしの光よ、このよどんだ空気よ。そこは魂がおのれの高みにまで飛ぶことを――許されない場所だ。

この建物の天井が崩れて、晴れわたった空がふたたび顔をのぞかせ、くずれた塀のもとの草や赤いけしの花に光を投げるようになってからはじめて――この神の住むこういう場所に、わたしはふたたび心を向けようと思う。

「2-僧侶たち」

ああ、有徳者たちよ、こういう者たちが次のように叫ぶ声も、君たちの耳をおそった。「わたしがそれでないもの、それがわたしには神であり、徳である」

わたしの友人たちよ、君たちが、これらの道化や嘘つきたちから学んだ古いことばに飽き飽きしてくることを、ツァラトゥストラは願うからだ。

「報酬」、「報復」、「罰」、「正義による復讐」などのことばに飽き飽きしてくることを。

「おのれを空しくさせる行為が善なのだ」ということに、君たちが飽き飽きすることを、かれは願う。

ああ、わたしの友人たちよ。子の内部に母があるように、君たちの「本来のおのれ」が行為の内部にあること、これが徳についての君たちのことばであってくれ。

「2-有徳者たち」

おお、ツァラトゥストラよ。あなたは、そのように不信仰だが、あなた自身が思っているよりは敬虔なのだ。あなたの内部の何らかの神が、あなたをこの不信仰に改宗させたのだ。

あなたをして、もはやいかなる神をも信じさせないものは、あなたの敬虔さそのものではないか。また、あなたのあまりに大きい正直さは、あなたを善と悪の彼岸にまで連れ去るだろう。

「4-退職


と言い、イエスは、


たいていの祈りは分離という誤った考えをもって捧げられている。特にあなたたちの教会礼拝堂において著しい。神は遙かに遙かなる存在である――という信仰の仕方をしているからである。しかし神はあなたたちの手や足よりも猶近くにましますのである。

「3-85」

世とその中にある一切を創り給い、天と地との主であり給う神は、手もて造られた神殿などには住み給わず、人の手によって仕えられ給わず、又、何ものにも欠乏し給うことはない。なぜならばすべての人々に生命と息とを与え給うたのは神御自身であるからである。

「1-22」

わたしはあなたたちの魂の中に宿るみ霊である。わたしがあなたたちと共にあることをあなたたちは知らないのか。この事を認めればあなたたちはすぐにわたしの許に来ることができるのである。遙か離れた処にいる誰かに祈ることをやめよ、わたしが手や足よりも近くにいるからである。

「9-21」

偶像は人の手によって造られたただの金、銀にすぎない。

「11-25」

口はあるが語ることは絶えてなく、目はあっても視ることはできない。

「11-26」

耳はあっても聞くことはできない。その中には生命の息ひとつない。

「11-27」

無智なる者は生命なきものを崇め、賢明なる者は神の中に生きる

「11-28」

たとえ偶像が象微として維持されているにせよ、意識は象微の背後にあるものに気付かねばならない。何も知らずに偶像を拝むのは無益である。父の中に生きること、父は自分の中に生きてい給うことを知ることが本当の崇拝である。

「11-29」

故にわれわれ自体は自分たちが何を崇拝しているのかをよく知ってはいるが、一般大衆は自分の崇拝しているものが何なのかが分かっていない。故にわたしはあなたたちに云うが、み霊であり実在である神を崇拝せよ、神はみ霊であり、唯一無二の生ける実在であるからである。わたしと父とは一体である。

「11-30」

しかし又わたしはあなたたちに告げるが、地上の何人も礼拝してはならない、天にまします御方のみがあなたたちの父であるからである。

「11-31」

父はあなたたちの中にある生ける息、あなたたちの中において個別化した神のキリストである。

「11-32」


と言う。


この問題については両者共に、

偶像や観念上の神を崇拝することをせず、自分の内部の本質を第一義とせよ。」

と主張している。


15.柔和であることについて


ニーチェ


胸を高く張り、深く息を吸いこんださまで、この崇高な者は立っていた、黙々として。

狩猟によって獲たいくつかの醜い真理をぶらさげ、裂けた着物を幾重にも着ている。茨もおびただしくついていた。――だが、ばらの花は一つもない。

かれはまだ笑いを学んでいないのだ、そして美をも。

かれは、あいかわらず、とびかかろうとする虎に似た姿で立っている。しかしわたしはこういう張りつめた魂を好まない。

たしかにわたしは、かれのもつ牡牛の頸を愛しはする。しかしさらに、わたしはかれが天使の目をもつようになるのを見たいのだ。

まだかれの認識の行為は、ほほえむこと、対他的な意識の緊張を捨てることを、学んでいない。

威力がものやわらかになって、可視世界へ降りてくるとき、そういう下降をわたしは美と呼ぶ。

そしてわたしは、力強い者よ、だれにもまして、君からこそ、美を期待するのだ。やさしい心を獲得することが、君の最後の自己克服であるように!

「2-崇高な者たち」

「そう言うあなたはやさしいのだ、牝牛よりやさしいのだ。おお、ツァラトゥストラよ」

「4-進んでなった乞食


と言い、イエスは、


柔和な人たちは幸いである、その人たちは地を受け継ぐからである。

マタイ-5-5」

神は超大にして神秘であるとともに柔和で高ぶることをしない。

「2-4」

もしあなたたちが自分の中に深く求めるならば、柔和にしてしかもいと優れ、謙遜にしてしかもいと高き存在者について学ぶところがあろう。

「4-66」

最も柔和なる者が全宇宙を給源とし、吾がものとする。

「4-68」

愛は悪に酬いるに悪を以てすることなく、悪に対するに善を以て酬いる。愛は柔和のうちに、それら悪を正しく判断して導く。

「13-93」

愛はあらゆる力ではあるが、謙譲でもある。愛は空虚な誇示をすることなく、その業蹟を誇ることもない。

「13-94」


と言う。


この問題については両者共に、

「真に優れた者は、力があるだけではなく柔和でもある。」

と主張している。


16.過去現在未来、時間、永遠について


ニーチェ


すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないか、なされたことがあるのではないか。

「2-幻影と謎-2」

おお、わたしの魂よ。わたしはおまえに、「今日」を、「未来のいつか」と「過去のかつて」をいうのと同じように言うことを教えた。そして「ここ」と「そこ」と「かなた」の一切を踊りながら越えて行くことを教えた。

「3-大いなる憧れ」

それは、万物は永久に回帰し、われわれ自身もそれとともに回帰するということだ。また、われわれはすでに無限度数現存していたのであり、万物もわれわれとともに無限度数現存していたということだ。

「3-快癒しつつある者-2」

わたしはおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ。

「3-七つの封印-1」

すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

「4-酔歌-11」

――どうだ! 世界はいままさに完全になったのではないか。まろやかに熟れて、おお、金の円環よ、――どこへ飛んでゆくのだ。わたしはその後を追う、身もかるく。

静かに――――

「4-正午」


と言い、イエスは、


あらゆる者が克服しなければならぬ難問は時空感覚である。

「8-113」

この時間空間という感覚を克服するならば、一切が今であり、分離も距離も時間も存在しないこの悟境にあなたたちもまた入るようになるであろう。

「8-119」

時間と空間とは、常に無限なるものの完全体、完全性を理解する妨げとなっている。無限認知するには時間と空間はあってはいけないのである。

「11-8」

実在には始めがなく、終わりもない。実在は人間が造りうるものではなく、時間、空間は人間勝手に自分自身の意識の中で造りあげたものである。それは幻覚であり、時間、空間なき、始めなく、終わりなき渾一性(wholeness)への無理解である。渾一(Whole)があるのみであり、この渾一が今の今、自己自身を表現しつつあるのである。これが実在である。わたしは実在と一体である。実在とわたしは一つである。これが、あらゆることが可能であるキリスト意識の認識である。

「11-9」

それは観念ではない。それは口先だけの文句ではない、それは信仰ではない、それはあなたたちの想像の産物ではない、それは心の中で造り出せるようなものではない。それは既に完全であり、生きており、今の今、それ自身を表現しつつある。それはおよそ存在する力のすべてである。それは常在の生命であり、その中には過去未来もなく、ただ久遠の今があるのみである。

「10-14」

今こそが久遠であり、生命の一瞬々々が今でである。故に過去を思わず未来を憂うるな。未来は、今を生きることによっておのずから現成るのである。

「1-41」

一切の時間が現在であることを知り始めた時、いわゆる切願はしなくなる。アレコレの物事が実現するようにとの切願はしなくなるから、大きな緊張があなたたちから消える。今日というこの日でもあなたたちの中どんなに多くの者が心を張りつめていることか。それは、ましまさぬところなき『遍在者』の中に住まわぬからである。あなたたちは過去とか未来との中に住んで、今の今、神の生命が栄光に輝いて現れてい給うのを逸しているのである。

「1-43」

あなたたちは時間も空間もない状態に到達し、自分の魂の中に宿り給うあなたたちの主なる神の完全さの中に入ることができるのである。

「1-52」

「愛」は久遠、常在にして、栄光輝ける、今活在する生命である。それは安らぎであり悦びである。愛が常在するところの、しかも今の今活気凛々たる生命であることを知れば完きまでに満ち足り、もはや過去を顧み未来を案ずるの愚は犯さなくなる。このことを了解した魂は、過去に非ず、未来に非ず、現在の中にこそ常に活々として働き給う臨在者の欠くることなき豊穣の中で営為する。

「1-53」

現在のみが唯一の要因であって過去未来存在するものではないと、時間を完全に悟りきってしまえば、誤った考えや代々にわたって受け継がれてきた病患も消滅するであろう。

「1-70」

明日を思い煩うな。「今」のみが唯一の時間である。今を自分の実在とせよ。そうすれば明日のことは明日自身が処理するであろう。では、未来を思い煩うのあまり奇しき今を逸するなかれ。意識は今の中でのみ創造をなしうるのであって明日においてではないのである、また昨日においてでもないのである。昨日は記憶に過ぎず、明日は希望に過ぎない。今こそが唯一の創造をもたらす瞬間である。

「2-80」

キリストを以て考えることは久遠なるものの中において考えることである。久遠の今の中において考えよ、なぜならば『今』の中においてのみ創造はなしうるからである。ああ、あなたたちにもハッキリと解るようにやさしく解明することができたら――今即久遠である

「3-80」

渾然一体!真理は何と輝くばかりに美しくまた完全であることか、何と単純であることか。しかも又、時間と空間との中に住む者にとっては何と理解の困難なことか。

「8-123」


と言う。


この問題については両者共に、

無限なる永遠があるのみである。」

と主張している。


17.愛という動機


ニーチェ


わたしのおさえがたい愛は、あふれて川となって流れ、東へ西へと向かう。寡黙の山上から、苦痛の荒天から、わたしの魂は谷々へとどろき注ぐ。

たとえ、わたしの愛の奔流が、道のないところへ落ちこもうとも厭うまい。河流がどうしてついに大海へ注ぐ道を見いださないことがあろうか。

たしかにわたしの内部には一つの湖水がある。隠栖を愛し、自分に満ち足りている湖水が。しかしわたしの愛の奔流は、その湖水を連れ去るのだ、下へ、海へ。

「2-鏡をもった小児」

わたしはわたしの軽蔑とわたしの警告の鳥とを、ただ愛のなかから飛び立たせることにしている。沼のなかから飛び立たせるのではない。

人は、愛することができない場合には、そこを――通り過ぎるべきなのだ。

「3-通過」


と言い、イエスは、


愛は全宇宙の中心である。この中心より絶えざる愛の流れがすべての魂、生きとし生けるものを通じて流れている。花々を通じ、動物たちを通じ、人間天使たちとを通じて、この愛が中心の泉より絶え間もなく流れ、愛自身の真実の姿を永遠に現している。

「1-2」

愛について理論を立てるのは、愛の一側面にしか過ぎない知的面を論うにすぎない。愛とは何かと理論を捏ねることは愛の力を失わせることである。あなたたちは愛なる無限生命によって創られた者なのである。愛をこのように理解し、把握して始めて愛はその真性を現すのである。

「1-5」

地上における偉大なる魂たちは、処は異なり生き方は違っても、すべてこの愛を現しているのである。

「1-6」

たとえあなたたちがどれほど雄弁に語ろうと、ハートに愛がなければ、あなたたちはやかましいシンバルにすぎない。

「13-89」

たとえあらゆる知識を得、どんなことでもなしうる信仰を習得しようと、ハートに愛がなければ、あなたたちのなすことは何らあなたたちの為にはならない。

「13-90」

幸うすき人々に施しをし、貧しき人々に食を与えても、愛がなければ、何もしたことにはならない。

「13-91」

わたしは世にあるすべての人々を愛する。わたしはあなたたちと共に世にあり、天国を地上にもたらすために働く、この事をなすためにわたしは遣わされたのである。

「8-135」

あなたたちに対するわたしの愛は極大である。故にわたしの愛をあなたたちの中に生かすがよい。愛は天上と地上とにおける一切の力であるからである。

「7-116」

愛を求めるな!愛を与えよ!これこそが霊の真の栄養である。

「3-72」

あなたたちの愛に対して利得や報酬を求めてはならない。又あなたたちの愛を人々の前で見せびらかしてはならない。ひそかに愛を為せ。人を喜ばすためではなく、神の愛のために、手の届く限りのことをすべて為せ。

「13-105」

神とは人間の姿を取った愛であることを知れ、愛が敗れることは決してなく、愛はすべてのものを新たならしめる。

「5-85」

愛は神なるが故に、愛はあらゆるもののうちでも最大の力でなければならぬ。愛はすべてを調和ならしめる。愛が大自然の中にある何ものかより背離することはありえない。なぜならそれはすべての真実なる現象の背後にある動因であり、他のあらゆる状態がなくなっても愛のみは存続するからである。

「1-96」

すべてのものへの愛の思いの中に生きよ。

「3-93」

あなたたちが真に愛するならば敵は一人もいなくなる。このことが十分に認識されると、それがどんなに真実であるかが分かるようになる。利己心と無智とが融け去って始めて真理である愛が顕現するのである。

「14-60」

わたしの平安とわたしの愛とを以てわたしはすべてのものを祝福する。

「11-39」

あなたたちの中に宿っているわたしの沈黙の愛を求めよ。すべてのものを愛せよ、すべてのものを愛を以て祝福せよ。そうすればわたしはあなたたちをその百倍も祝福しよう。

「13-103」

愛によってわたしは癒し、愛によってわたしは生きる

「1-109」


と言う。


ニーチェイエスは共に、

「ただ愛のみを動機として行為せよ。」

と主張している。


終わりに


これまで見てきたように、ニーチェイエスは多くの点で同様の主張をしている。ニーチェは神の不在を前提とした立場であり、イエスは神の存在を前提とした立場にいる。これはつまり、両者が同様に主張した事柄は、神が居ようが居まいが関係なしに推奨される処世術であるといえるということではないだろうか。ある項目について正反対の立場からの意見が一致した場合、その意見の信憑性は高くなるのだから。

両者の主張の詳しい内容を知るにははそれぞれの出典を読む必要があると思うが、ここに引用した彼らの言葉の中にも、読者の方々が生きる上で参考になる知恵があれば幸いである。

*1:尚、この記事で私が「ニーチェ」と呼ぶ対象は、書籍ツァラトゥストラ」の主人公を通して表現されているように私に感じられるある人格のことである。従って、19世紀に実在したであろう人物ニーチェや、ニーチェ研究者が考えるニーチェ像や、あなたが考えるニーチェイメージとは直接の関係はなく、それらと大きく異なっている可能性もある。又、この記事で私が「イエス」と呼ぶ対象は、書籍心身の神癒」及び「新約聖書」の主人公を通して表現されているように私に感じられるある人格のことである。従って、1世紀に実在したであろう人物イエスや、ローマカトリック教会が考えるイエス像や、あなたが考えるイエスイメージとは直接の関係はなく、それらと大きく異なっている可能性もある。私にはそれらのイメージを統一しようという意思は無いのでその点はご了承頂きたいが、私の抱くイメージと読者の方が抱くイメージがそう遠くないことを期待している。両者の発言の出典の表記については、ニーチェの発言で「3-新旧の表-3」という表記は「ツァラトゥストラ第三部の新旧の表の3節」を意味する。イエスの発言で「12-10」という表記は「心身の神癒の第十二話の10節」を意味し、「マタイ-7-9」という表記は「新約聖書マタイ福音書の第7章の9節」を意味する。又、イエスの発言では一部、「心身の神癒」の原著Divine Healing of Mind & Body」から私が訳出した箇所もある。

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