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とらっくばっく

2007-06-06原因と結果はひとつである

bが存在するために必要な全ての要素がaであるとき、

「aはbの原因である」

と定義する。

aがbの原因であるとき、明らかに

「aが存在しなければbは存在しない」

また、aはbが存在するために必要な全ての要素であるので

「aが存在すればbも存在する」


ここで上の2つの対偶をとると

「bが存在すればaも存在する」

「bが存在しなければaは存在しない」

となる。

よって、aがbの原因であるとき、bもaの原因となっている。(aの存在はbの存在必要十分条件


これはどういうことであろうか。

宇宙存在しなければ私は存在しない。宇宙存在するなら私が存在する。」

これが正しいとき、

「私が存在しなければ宇宙存在しない。私が存在するなら宇宙存在する。」

というのが正しいということになる。


よく、「私が死んでも世界は何も変わらない。」や、「私が初めから存在していなかったとしても世界は今とまったく同じような様相を呈していただろう。」などと言われるが、一体どこがおかしいのだろうか。

これらは、「自分が存在しなかった場合には自動的にそれに変わるようなものがその空いた場所を埋めている」ことを無意識に想定している。また、これから死ぬことと、今存在していないことはまったく別の話だ。

例えば、「今」あなたがこの文章を読んでいるディスプレイ存在しなかった場合について考えてみる。ディスプレイ存在しない未来過去やの状態ではなく、「今」ディスプレイ存在していない状態だ。

この場合、ディスプレイ存在していないことに付随して、幾つかの事柄が存在していないことになる。例えばあなたがそのディスプレイでこの文章を読んでいるという行為が存在しなかったことになる。また、そのディスプレが今の場所に来るまでに運ばれてきた行程が存在しなかったことになる。そのディスプレイの原料があった産地にそのディスプレイ分の原料が存在しなかったことになる。その原料がそこにあるために辿ってきたすべての事柄のうち幾つかが存在しなかったことになる。そしてこの連鎖を辿っていくと、ついには宇宙存在しなかったことになる。

さて、「そんなことはあるはずがない、このディスプレイ存在しなかったとしても、他の同じようなものがその位置を占めていたはずだ」、というのは誤りである。これは、「万有引力の法則が存在しなかったとしても、私は同じように存在しているだろう。万有引力の法則が存在しなかったとしても、他の同じようなものがその位置を占めていたはずだからだ。」というようなものだ。

これに対し、

「その例えは同等ではなく、間違っている。なぜなら万有引力の法則は私が存在するより先に存在しているために私の存在する原因の一部であるが、ディスプレイ宇宙よりも後に出来たために宇宙原因にはなっていない。」

という反論が考えられる。

しかしこれは、時間は一定方向に流れるという勝手意味づけを採用している考え方だ。それはつまり「時間が一定方向に流れているように私が感じるから時間は一定方向に流れているのだ」、と主張するようなもので、それなら最初から、「aがbの原因のときでもbはaの原因ではないように私が感じるからbはaの原因ではない」と主張してこの文章を読むのをやめればよい。

物理的には時間に決まった方向などは無く、前後対称である。熱力学第二法則によって一方向に定まるという説もあるが、この法則は証明された訳ではない単なる経験則であり、宇宙が膨張から収縮に転じれば逆転するかもしれないような弱い経験則であり、時間の方向を決定するような力は無い。

したがって、過去未来の一方的な原因であるとはいえず、それと同等に未来過去原因である。存在には、「先」や「後」はないのである。

偶然という考え方があるが、「偶然」とはつまり「その事柄について私には規則性が見出せない」ということである。そもそも全知者しか「偶然」が存在することを示せないが、仮に「偶然」が存在する場合、無から有が無秩序に生まれることも肯定しなければならないため、存在しないと思われる。)

つまり、原因結果は同一であり、ひとつである。

そしてこのことから、次のようなことが分かる。

存在するものは全て相互依存関係にあり、どれかが欠ければ全てが存在できない」

この世界となんらの関係を持たない存在があれば、その部分とは因果関係を持たないが、そのような部分は決して観測されることは無い(観測できたら影響を受けるため)ので、気にする必要はない。

これはつまり

神の存在証明においては、E1=Eである」

ということである。

また、

「私が存在しなければ、宇宙存在しない」

「私の存在は、宇宙存在する原因である」

ということから、宇宙内の関係性において、又、宇宙と私の関係において、類似性が見られることが推察される。

(上にあるが如く下にもかくあり)(as above so below)

人間宇宙の縮図である)


「神が存在しなければ、私は存在しない」

「私が存在しなければ、神は存在しない」

「私が存在する為、神は存在する」

これらのことから、神の性質から私の性質が帰納的に導かれるように、私の性質から神の性質も演繹的(帰納的)に導かれる。

(父は子を知り、子は父を知る。)

(神を見た者は誰もいない。しかし私を見た者は父なる神を見たのである。)

(何者も神から離れては存在しない。)

(あなたたちは神の中に生き、神はあなたたちの中に生きてい給う。)

(私と父なる神とはひとつである。)


「私が存在しなければ、あなたは存在しない」

「あなたが存在しなければ、私は存在しない」

「私が存在する為、万物が存在する」

存在において、そして生命において、分離というものはどこにもないのである。

(私は生命である。)(I am the Life.)

(神の中に分離はない。多の中に自己自身を表現しているすべてなるものがあるだけであり、神の意識がその創造物のひとつひとつに顕れつつあるのであって、その創造物のひとつひとつは神の意識の中に生存している。)

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