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とらっくばっく

2007-06-01コメントまとめ2

ここは、神の存在証明 のコメント欄からの続きです。

IWAKEIWAKE2007/06/01 22:48>今はIWAKEさんの論理に従って議論しているので

私はずっとY.M.さんがゲーデルの論理を応用しようとしているのだと思っていました。属性についての私の発言はすべてそのためのものです。私の論理についての説明は、原因という単語をどう使うかという話だけですね。私の論理でなら、もちろん「存在する」と「原因である」という属性のみが問題になりますね。

>「原初に」秩序を備えた何者か

「物質それ自体が他の何者にもよらず他の物質の原因たり得ると考えています。」ということから、その何者かは物質であると考えられているのだろうと考えて発言しました。その「何者か」を物質に限定せず、例えば「様々な状態に変化する可能性を持った真空状態」というようなものを想定してよいのなら、
>「原初に」秩序を備えた何者かがあらかじめ実在し、「後に」それが現在の形に変化した。我々の周りの時空や物理法則はその秩序に従って生じている。
というのは正に私の考えている通りのことです。

なんだか少し話がかみ合っていないようです。
「論理を進める上で矛盾が生じ得るか得ないか」という点に関してでも、その他のことでも、Y.M.さんが取り上げたい話題がまだあれば再度示してくれませんか。

Y.M.Y.M.2007/06/01 23:52>Y.M.さんがゲーデルの論理を応用しようと
IWAKEさんの与えた条件とゲーデルの与えた条件を共に成り立たせて折り合いをつけれるかどうかを確認したかったのです。
ゲーデルの証明とIWAKEさんの証明で本質的に何が同じ部分で何が異なる部分かを詳しく確認したかったのです。

物質という言葉が語弊を生んでしまったと思います。反省しています。
私がそう呼んでいる物はより正確には量子論で言う状態ベクトルで表現される対象です。私の唯物論的な立場での存在物はそういったものになります。長々とご迷惑をお掛けしました。

>「論理を進める上で矛盾が生じ得るか得ないか」
についても、いろいろ考えていたのですが、
IWAKEさんの証明には「ツォルンの補題」と呼ばれる物が含まれていると思います。
「ツォルンの補題」とは、Wikipediaによると
「任意の空でない帰納的順序集合は極大元を持つ」
という定理なのですが、
「帰納的順序集合」は順序関係で作られていくような集合で、因果関係により存在物の間の順序を定めた場合、Eはまさに帰納的順序集合になると思います。この場合「極大元」は根源である神にあたります。この定理はIWAKEさんの証明の内容と同じですよね。
しかし、「ツォルンの補題」を無限集合に適用した場合には現実的に非常識な結果を招く可能性もあるそうです。
これについてはゲーデルの証明の方も含めて引き続き調べてみたいと思います。

IWAKEIWAKE2007/06/02 00:54なるほど、了解しました。

私の証明は、ゲーデルの証明における肯定的属性を、あらゆる属性についてではなく、「存在する」「原因である」という属性に限定した場合と言えるかもしれませんね。属性を限定しない場合、存在を証明しようとする神に様々な望ましい性質(例えば愛情深い、等)を想定することが出来ますが、同時に矛盾無き状態を保つためにはいびつな形を想定せざるを得なくなる危険があるように思います。私は安全の為と、証明を簡単にするために、属性を限定したと言えるかもしれません。

ツォルンの補題についてはお任せします。おそらく極大元が部分的創造主に対応し、創造主全体の集合=E1を一つの要素と見れば最大元にあたり、Eが全順序集合か部分的順序集合かは不明、ということになるでしょうか。
バナッハ=タルスキーのパラドックスについては、「Eを存在する全て」と定義していることにより問題にならないのではないかと楽観しておりますが、何か問題が見つかりましたらご連絡下さい。

Y.M.Y.M.2007/06/02 08:42対象が有限だったら何も問題ないと思うのですが、無限が絡むと論理の本質もがらっと変わってくるような感じがします。現実に対する問題が絡むだけに慎重に考えたいところです。

Y.M.Y.M.2007/06/02 08:56>ツォルンの補題について
Eが有限集合と決まっていれば極大元があるというのは自明で、IWAKEさんの証明自体に問題はまったく無いのですが、無限集合でもありうるという場合には選択公理を前程としない限り証明は成り立たなくなるということになると思います。

IWAKEIWAKE2007/06/02 11:10Eの定義が「存在する全て」であるため、例えばEの元から別の同じE’が作れても、それは最初のEが実は「存在する全て」ではなかったということになり、新たに「E+E’」をEとみなして、・・・、という操作を無限に繰り返した場合の全集合が真のEだと捉えればよい、ということになるのではないかと思います。
又、仮に極大元が無くとも、その場合極大元を持たない部分集合全体を一つの要素とみなしてE1に含める定義なので問題ないと思います。

Y.M.Y.M.2007/06/02 17:04「この証明が数学的にどう表現されうるか」という点で悩んでいます。
仮に数学で表現できるとすれば、それに含まれる公理は現実の真理の一つでなければならないはずです。(単純に選択公理を真理としてよいかどうか?)
仮に数学では表現できない証明だとしたら、その正当性をどう評価すればよいのかわかりません。(言葉遊びは常に矛盾を生じます)
細かいことに拘ってて申し訳ありません。

>仮に極大元が無くとも、その場合極大元を持たない部分集合全体を
ツォルンの補題の待遇を取ってみると、
「極大元を持たない集合は空でない帰納的順序集合でない」
ことを主張します。
これを仮定しないと元のEが「帰納的順序集合でない」かどうか分からないため、「極大元を持たない部分集合」が必ず取れるとはいえません。
言葉で書くと詭弁に見えるんですが、式で表現されてしまいます。

無限に関する純粋に論理的なパラドックスに、「全ての集合の集合」(カントールのパラドックス)や「自分自身を要素として持たない集合の集合」(ラッセルのパラドックス)があります。これらは所詮は机上のパラドックスにすぎないのですが、Eに何かパラドックスが生じたらそれは現実の物になってしまいます。
個人的には現実の事柄に対しては「無限」というものをばっさり切り捨ててしまえないかなあと思っています。

Y.M.Y.M.2007/06/02 17:20訂正です
待遇→対偶

IWAKEIWAKE2007/06/02 18:13私の証明では、Eは必ずしも帰納的順序集合でなくともよいのです。極大元を持たない集合があっても、そこは(独在物として)そのままE1に含めてしまうという定義なのです。
>またこのとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
で説明している部分にあたります。


カントールのパラドックスについてですが、これは「存在するすべてをEと置く」と、現代の数学では取り扱えなくなる、ということなのかもしれませんね。

Y.M.Y.M.2007/06/02 20:46証明に用いる論理体系がはっきりしないことは問題ではありませんか?

>Eは必ずしも帰納的順序集合でなくともよいのです。極大元を持たない集合があっても、そこは(独在物として)そのままE1に含めてしまうという定義

ともかくそういう改良を重ねて最後に集合Eが完成出来たとします。
そのEは帰納的順序集合ではないのですか?

帰納的順序集合は、
任意の全順序部分集合E’をとった場合に、
Eの要素でE’の全ての要素より大きな物が存在する
という性質を持っています。
言い換えれば、
因果関係で繋がった部分系列を任意にとった場合、それら全ての原因となる要素をいつでもEの中に見つけられる
という性質です。
問題はこの性質を根拠としても、Eの極大元を見つけられるかどうかは一般に自明ではないということです。

IWAKEIWAKE2007/06/02 21:23>そのEは帰納的順序集合ではないのですか?
帰納的順序集合であってもよいし、なくてもよいと考えています。

>帰納的順序集合は、任意の全順序部分集合E’をとった場合に、
Eの要素でE’の全ての要素より大きな物が存在する

E’の要素と大小の比較可能な要素がEの他の部分に無い(因果関係が無い)ようなE’がEの中に存在しても構いません。そのようなE’はE1の中へ含めてしまいます。そうしたとしても、結局E1とE2の関係には影響ありませんから。

Y.M.Y.M.2007/06/02 21:56あげられた根拠
>E’の要素と大小の比較可能な要素がEの他の部分に無い(因果関係が無い)ようなE’がEの中に存在しても構いません。
は帰納的順序集合であること
>>帰納的順序集合は、任意の全順序部分集合E’をとった場合に、Eの要素でE’の全ての要素より大きな物が存在する
の否定にはなっていないと思います。
Eの他の部分とは言っていません。E’の中でも外でもよいがE’のそれぞれの要素より大きなEの要素が必ずあるということです。

極大元が複数あるかどうかは問題にしていません。
極大元(=他の原因によらないもの)の存在が、この性質だけからは言えないということです。

Eに対し、
どんな因果系列を見てもその根源は存在する⇒他に因らない存在がある
という論理を使うならばそれには選択公理が含まれているのではないかと思います。

IWAKEIWAKE2007/06/02 22:26ということは
>それぞれの要素より大きなEの要素が必ずあるということです。
ここでいう「より大きな」は、「より大きいか等しい」と考えていいのですね?

つまり問題は、
1.私の証明は選択公理を前提としている。
2.選択公理はEが無限の場合バナッハ=タルスキーのパラドックスを抱えている。
3.Eは無限である可能性がある。

ということでいいでしょうか。

私としてはEは当然無限だろうと考えています。そして、2のパラドックスも特に問題だとは思っていません。それは、同じ初期条件から無数の異なる宇宙が生まれたという多世界解釈を示唆するものではないでしょうか。

Y.M.Y.M.2007/06/02 23:07>>それぞれの要素より大きなEの要素が必ずあるということです。
>ここでいう「より大きな」は、「より大きいか等しい」と考えていいのですね?
そうです。
つまり有限集合に関しては非常に当たり前の論理です。
しかしそれは無限集合に対しては当たり前でないということです。

私としては無限というものが人間の想像の産物に過ぎず、さらにはまともな概念ではないという気さえしているので、Eが有限に収まるような解釈も探しているのです。
多世界解釈についても起こりうることは非常に沢山あるが無限ではないという解釈も出来ます。
他には、例えば水が連続体に見えても有限個の水分子の集まりであるように、時空が連続体に見えてもそうでなく、ミクロには不連続で統計的にごちゃごちゃしたものなのではないかとも考えています。水分子はランダムな運動をしていても水は流体力学に従って秩序ある運動をしますから。

IWAKEIWAKE2007/06/02 23:32確かに、多世界解釈でもEが有限になり得ますね。私も今のところ、Eが無限である必然性は示せません。
ただ、Eの定義が「存在する全て」である以上、カントールのパラドックスと無限の問題は避けられない気もします。

IWAKEIWAKE2007/06/03 10:44これは、Eは集合ではなく(集合を超えた)クラスだ、ということになるでしょうか。

Y.M.Y.M.2007/06/03 12:33>ただ、Eの定義が「存在する全て」である以上、カントールのパラドックスと無限の問題は避けられない気もします。
>これは、Eは集合ではなく(集合を超えた)クラスだ、ということになるでしょうか。
なんにしてもそこに用いられる概念をはっきり定義しなければ論理は展開できないと思います。
クラスなる概念を用いてうまく定義できるかは分かりません。

少なくとも人間の立場からは「無限にあるもの全ての実体」など捉えようもない概念ではないかと思います。
例えば、可能性が無限にある以上、ある存在の原因をさかのぼってもいつまでも根源にたどりつかない可能性があります。そもそも確認が原理的に不可能な物をEと置いて扱うことに無理がないでしょうか?

Y.M.Y.M.2007/06/03 12:50>ある存在の原因をさかのぼってもいつまでも根源にたどりつかない可能性
もうちょっと正確にいうと、
「任意の数Nに対し、N回直接の原因をさかのぼるまでに根源E1にたどりつけない可能性がある」

IWAKEIWAKE2007/06/03 15:23>そこに用いられる概念をはっきり定義しなければ

私がEを定義するために用いている概念は「存在する」と「全て」の2つだけです。そしてこの2つの言葉はどちらも非常に基本的であり、その意味は自明だと考えます。非常に基本的な幾つかの言葉の意味は自明であると考えないと、何かを言語で表現することは出来ませんからね。そして、これらの言葉をよりシンプルな他の言葉を用いて定義するというのは不可能に思われます。ある意味、言語の限界ではないでしょうか。

>ある存在の原因をさかのぼってもいつまでも根源にたどりつかない可能性があります。

この場合は、
>無限に続くなら、とりあえずビッグバンから先全部をひとくくりにしてE1とすると規定しましょうか。
と言っている通りです。
念のために証明に付け加えておきましょうか。

神の存在証明(ver.4)初め

存在する全てをEと置く。

Eの内で、自らを原因として存在する部分をE1、自らを原因とはせずに存在する部分をE2と置く。

尚、何らの原因によらず存在しているものがEの内にあった場合、それは自らを原因として存在しているとみなしE1に含める。

またこのとき、Eの内のある部分EaとEbについて、EaはEbの原因であり、EbはEaの原因であるような相互依存の関係にある場合には、それらEaとEbを自らを原因として存在する一体の部分とみなしてE1に含める。
また、3つ以上の部分についても、それらが相互依存の関係にある場合には、それらを一体とみなしてE1に含める。(例えばEaはEbの原因であり、EbはEcの原因であり、EcはEaの原因である場合、その三者は一体とみなす。又、EaとEbがEcの原因であり、EcはEdの原因であり、EdはEaの原因である場合は、EbのみがE1に、他の3つはE2に含まれる。)

又、この宇宙はこの宇宙自身の原因となっておらず、かつその原因を辿る操作を無限に行うことが出来る時、この宇宙の外にありこの宇宙の原因となっている部分全てをE1に含める。又、この宇宙の外にありこの宇宙と因果関係のない部分のうち、その原因を辿る操作を無限に行うことが出来るものがあれば、その部分はE1に含める。

さて、E2が存在する原因はEの内に求めねばならず、しかもそれはE2内にはないので、必然的にE2の存在する原因はE1にある。

よってE1は、自分であるE1が存在する原因でもあり、E2が存在する原因でもある。

そこでE1を創造者・神と呼ぶ。E2を被造物と呼ぶ。

E1が存在しなければE2及びEは存在しない。

ところで、この世は完全な無ではない。

よってE=0でなく、Eは存在する。

ゆえにE1は存在する。

従って神は存在する。

神の存在証明(ver.4)終わり

Y.M.Y.M.2007/06/03 16:16集合という言葉も自明な物であると考えられたために矛盾が生じたのです。
私には「存在する」という言葉の意味が人の数ほどあると思います。
そしてそれが矛盾概念であれば論理はもはや成り立ちません。

>無限に続くなら、とりあえずビッグバンから先全部をひとくくりにしてE1とすると規定しましょうか。
「存在するものは無限に続く」場合は都合が悪いから
「存在する」という意味を作りかえて、「存在するものは無限には続かない」としたのですか?

IWAKEIWAKE2007/06/03 16:56「存在する」という言葉を、存在するという意味を持たない言葉の組み合わせで定義する方法は私には今のところ思いつきません。「在る」と「無い」は互いに依存しているでしょうから、「無くは無いこと」と定義しても仕方ないでしょうし。

>「存在するものは無限には続かない」としたのですか?
いいえ。単に原因を無限に辿れる場合について、E1とE2の線引きを定めただけです。これを付け足さないと、有限回原因と辿れば第一原因に行き着く場合についてしか述べていないことになりますからね。

Y.M.Y.M.2007/06/03 17:09全ての前程から推論を経て結論に至る過程を論理記号で表現するすることは原理的に不可能な種類の証明ということでしょうか?

IWAKEIWAKE2007/06/03 17:22「存在する」「全て」「原因である」「この宇宙」を論理記号で表現できるなら、証明全体も表現できるのではないでしょうか。それが可能なのか、現代の論理学では不可能なのか、原理的に不可能なのかは分かりませんが。

Y.M.Y.M.2007/06/03 17:43それなら少なくとも私には証明を否定する術も肯定する術も持ちません。お付き合いいただきありがとうございました。

IWAKEIWAKE2007/06/03 18:23「全ての集合の集合」が「集合」ではなく「クラス」になるといったあたりの話がまとめられていました。ご参考までに。
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_024.htm
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_028.htm
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_032.htm
http://www.sdi-net.co.jp/sdi_036.htm
貴重なご指摘を頂き、ありがとうございました。

IWAKEIWAKE2007/06/06 21:46「全ての集合を含む集合」は「集合」ではなく「クラス」になる。
「全てのクラスを含むクラス」は「クラス」ではなく「メタクラス」になる。
「全てのメタクラスを含むメタクラス」は「メタクラス」ではなく「メタメタクラス」になる。
・・・
と続いていくことから、存在する全てであるEはメタメタメタ・・・と無限に続く「無限メタクラス」と言えるかもしれません。或いは、有限回数メタをつければそれ以上続けずとも全てを内包するような最終最大の状態になり、それがEといえるのかもしれません。
いずれにせよ、現代の論理学で取り扱えるものではなさそうです。

Y.M.Y.M.2007/06/07 11:15無限は論理学と相性が悪いようです。
現代数学では無限に関する性質をいくつか仮定として定めていますが、
それらの仮定が正しいかどうか証明することは出来ないようです。

tmcatbirdtmcatbird2010/02/13 01:47神は存在するか。では神とは何でしょうか。その問いに答えるには、まず私とは誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱い悲しいとか感じている存在が私です。では、赤いとか熱いとかは物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。心の外の世界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている音はありません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭い感覚は外の世界にはありません。硬い柔らかいと言う事は、在るでしょうか。それもありません。次々に心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。仏教では色即是空と言います。貴方が見ているものは、心が作り出したもので、決して心の外にある存在ではありません。心が作り出したものは、消えたりもします。現れたり消えたりするので、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。物質は無から有は生じません。有か無かのどちらかです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空であると言っています。概念や意思も空なる存在です。ですから、赤いとか熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花瓶を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花瓶に対応する動きをします。私は、その花瓶に対応する物質の動きを感じて、花瓶を感じるのです。カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが自分です。決して、テレビが自分なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花瓶を感じているのが、自分なのです。脳と言う物質そのものが、花瓶を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。熱いとか悲しいと言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。同様にもし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
仏教ではこの事を、不生不滅・不増不減・不清不穢と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。清くなるものでも、穢れるものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りませんが。
私が感じている感じは感じ取る事が出来ます。しかし、それを感じている私自身を感じる事ができるでしょうか。達磨はインドから中国に来て、皇帝に「お前は誰か。」と尋ねられました。すると「そんな事は、私は知らない。」と答えました。私自身はどの様にしても感じ取ることは出来ません。
心の中の世界そのものが、私の一部なのです。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。仏教では、その1人を小さい私と呼びます。心の中の世界に居る敵も、私の一部なのです。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言ったのです。
人間より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は私の一部にしか過ぎないのです。限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。仏教では、仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えないと言いました。

IWAKEIWAKE2010/02/13 03:01コメントありがとうございます。
この記事ではとても限定的な神について論じていますが、このサイトの左上からリンクを貼っている他の幾つかの記事を読んでもらうと、もう少し広い意味での神についての私の考えなどを楽しんでいただけるかもしれません。

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