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とらっくばっく

2008-11-19

[]幻想時間を使いすぎると人生が消費される。人生根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書5冊を紹介



人間は、好きなことを思い描き、夢を見、信じることが出来る。


わたしは心地よく眠っている人を無理に起こそうとは思わない。目が覚めた後の彼の、今日という一日がどんなに素晴らしいものになるか分かっているとしても、彼は今すぐに起きる必要はないのだ。遅くに起きようと、今日の活動時間たっぷりとある。実際の所、時間無限にある。


この世には様々な思想、思考、情報が溢れている。それらは無数の多様性と複雑さを以てあなたの思考を刺激し、楽しませる。しかしそれらの殆ど全ては、どれほどの時間と労力をかけてそれらを理解し、組み合わせ、発展させていったところで

存在の究極の原因・意義は何か、私とは何か」

という問いに対する完全な回答には至らないものばかりである。


わたしはこの記事やこの記事で紹介する本を、多くの人が読むべきだとは思わない。人はその時が来れば自然に目覚めるのであるし、無理に起こそうとしたところで、頑なに今見ている夢にしがみついて目覚めるのを拒むだけだ。

多くの人にとってこれらの本の内容を理解することより、現在自分が信じている事、見ている夢を守ることのほうが大切だ。だからそういった人が仮にこれらの本を読むことになったとしても、その際に取るべき態度は無関心と否定である。具体的には、これらの本の内容を自分が理解出来ない理由、理解しなくてよい理由、理解すべきでない理由、そしてこれらの内容が間違いである理由を無数に準備して、自分に説いて聞かせながら読むのである。さらにまた、自分自身の理解力を意図的に低下させつつ読むのである。なぜならば、感情によって既に結論は出ているからである。すなわち

「これらの内容は間違いである。少なくとも今自分が理解する必要はない」

と。

なぜそのような結論が出ているのかといえば、これらの本の内容を理解してしまうと

自分存在を信じている世界は実際は存在しない。そればかりか、当然に存在しているはずであった自分自身さえも、実際は存在していない。」

ということを理解してしまうからである。

これらのことをただのアイデア、考えとして眺めている分には何の問題もない。しかし、実際にそれらが事実であるということを自分が本当に理解してしまうとなると話は別である。これは自我にとっての恐怖である。鏡を見たら自分だけが映っていなかったという場合の恐怖を、何倍にもしたような恐怖である。何しろ自己存在していないのだ。


自我が嫌うものは変化である。多くの人にとって、自分が信じていたものが誤りであったことを知ることは、死ぬ事以上の苦痛であり、恐怖である。従って自我は、あらゆる力を動員して、その状況を避けようとする。顕在意識に悟られぬよう、それでいて顕在意識自分の判断は誠実である」という自負を崩さぬよう。そのためにまずは

「これらの内容は間違いである。少なくとも今自分が理解する必要はない」

という感情的結論を準備し、その結論が導き出されるあらゆる正当な論理的理由を、その都度記憶の中の情報を組み合わせて構築してゆくのだ。

このようにして、

「私は誠実に慎重にこれらの本の内容を吟味し、その結果としてこれらの本の内容は誤りであるか、少なくとも今の自分にとっては無価値であるという結論を得た。」

という自覚を顕在意識に与えることに成功する。自我の恐怖は無自覚のまま潜在化しつつも、これまでの自己思想を守ることができ、又、先に結論を準備し、そのフィルターを通して内容を捉えたという自己の欺瞞にも顕在意識が気付かないでいることができる。この欺瞞とはつまり、まずAという理論採用し、次にBという理論を見た際に、それがAと矛盾するからという理由で否定することである。「先に見たから」という理由でAを真とし「後から見た」Bを偽とするのは、利便性には優れるが、真実への判断の態度としては不誠実である。しかしこの不誠実さの上に、感情によって先行した判断を補強する論理的理由は築かれていく。これが自我による自己防衛機構である。そしてまた、不安を永続させる機構である。


ではこのような防衛機構を乗り越えてまで、これらの本の内容を理解すると何が得られるのであろうか。それは

真理の理解、神の平安、完全な愛」

である。この一文を見た瞬間にあなたの自我はもう、

「これらの内容は間違いである。少なくとも今自分が理解する必要はない」

という感情的結論を出したのではないだろうか。そしてこの先の文章を読むこともなくブラウザを閉じるなり、他のページを見るなりするだろう。それを正当化するために後付けされた論理的理由の一つは、「時間無駄だから」である。そしてその根拠は「過去経験という記憶」を組み合わせて作られた、「先に見ていた理論」を通して導き出されたものだ。こうして自我は自らの夢と幻想を守ることに成功する。

このように自我自己防衛機構が働いていることは別に悪いことではない。そして、先ほど私が指摘したそこに潜む自己の欺瞞を恐れ、無理にこれから紹介する本を読んだところで、やはりその防衛機構が働き、本の内容を意図的に理解しないということになりかねない。それこそ時間無駄であろう。また、詐欺師に騙されないためにも、防衛機構は有用だ。新しいものは全て拒絶することにしておけば、今より良くなることは無いけれど、今より悪くなることもない。迂闊に検討するだけでも何か間違いが起きるかもしれないし、検討するにも時間はかかる。なにより、今より良いものなどそうそう無いのだ。現状に充分満足しているのなら、無駄にリスクを取る必要は無い。さあ、これであなたがこれ以降の記事や、紹介する本を読まなくて良い十分な合理的理由が出来た。安心してブラウザを閉じて頂こう。先ほど言った様に、まだ寝ていても大丈夫だ。




それでも私が紹介する本を読もうという人は、多くのものを得るかもしれない。先ほど紹介した

真理の理解、神の平安、完全な愛」

という報酬は絶大である。まさしく報酬として最大である。人生根底から豊かで納得のいくものにしてくれることは疑うべくもない。ただしこの報酬は、「本を読む」ことによってではなく、「本の内容を理解する」ことによって得られるものである。本には文字が印刷されており、文字は言葉を表している。しかし、言葉それ自体は何の意味も持ってはいない。従って、ただ文字を読んだだけでは何も得るものはなく、その言葉が表現しようとした内容を把握して始めて、何かを得ることができる。

言葉に込められる内容の密度は、ゼロから無限にまで変化する。そこで、文章の密度に応じて、それに適した読み方は異なってくる。殆ど意味の無い文章を読むにはただ目線を走らせればよいが、深遠な意味を持つ文章を理解するためには、相応の読み方をしなければならない。ここにそのような文章の読み方に関する、一冊目に紹介する本の中の一節を紹介しよう。


スリ・ユクテスワは、聖典の教え方に関する彼自身の体験談を語ってくれた。所は東ベンガルの森の中の僧院で、彼はそこで著名な教師ダブル・バラヴの教授法を見学した。それは一見単純ではあるがむずかしい方法で、古代インドではふつうに行われていた教授法である。

ダブル・バラヴは、生徒たちを森の静かな場所に集めてすわっていた。彼らの前には、聖典バガヴァッド・ギーターが開かれていた。彼らは三十分間、一つのページにじっと目を注いでいた。それから目を閉じた。こうしてまた三十分が過ぎた。すると先生は短い注釈をほどこした。彼らは身動きもせずに、また一時間瞑想した。そして最後に先生が言った。

「どうだ、この一節の意味がわかったかね?」

「はい、わかりました、先生」生徒の一人が答えた。

「いやいや、まだ十分にはわかっていない。これらの言葉の中には、幾世紀にもわたってインドをたえず若返らせてきた霊的活力が秘められている。それを探しなさい」

沈黙のうちにまた一時間が過ぎた。ダブル・バラヴは生徒たちを解散させると、スリ・ユクテスワに向かって尋ねた。

「あなたはバガヴァット・ギーターをご存知ですか?」

「いいえ、まだほんとうには・・・。目と心では何度も読んだことがありますが」

「この問いに対して、わたしは十人十色の答えを聞きました」

偉大な賢者は、スリ・ユクテスワを祝福しながらほほえんだ。

聖典の表面的な言葉をただ数多く覚え込むことにのみ熱中していると、内なる真の宝を瞑想静寂の中に探り出す余裕がなくなってしまいます」

密度が濃い文章を読む際の参考にしてほしい。


さて、まず紹介するこの一冊目は

あるヨギの自叙伝

あるヨギの自叙伝


である。

この本は読み物として書かれたあるインド人の自伝であり、写真と解説付きで著者の体験と出来事が書かれているだけであるので、先ほどの聖典の例のように手の込んだ読み方をする必要はまったくない。気軽にすらすら読んでいくことができる。内容の真偽などさほど気にせず、楽しい物語として読めばいい。それでも、2冊目以降を読んでいく際の助けとなる知識的心理的土壌が準備されるのではないだろうか。もちろん、この本自体からも多くを得られるだろうし、また、この後に2冊目を読まず、ここから関連する他の本を読んでいってもいい。これは、様々な意味での導入となる本である。


2冊目と3冊目は一続きの本で、

解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え

解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え

である。

これらの本の内容の半分は著者の体験談であり、もう半分が自我を理解するための説明となっている。すなわち、自我の正体は過去記憶とその反射応答であることを理解し、それを超えて永遠なる現在に至ることがこの本の目的である。これらの言葉には何の意味もないが、その内容を理解することには無限価値に繋がる。尚、こういった内容はどうしても翻訳による誤差が大きくなるため、原文を読めるに越したことはない。幸い原文は公開されているので合わせて紹介する。

BEYOND THE HIMALAYAS

解脱真理の原文

The Yoga of the Christ

解脱真理完結編の原文である。

尚、これらの本はアマゾンでは何故か頻繁に販売が中止になるが、出版自体は続いている。

セブンアンドワイでは取り扱っているなどという場合があるので、他の本も無い場合は確認してほしい。


4冊目は、いわゆる聖典のような内容の本である。

心身の神癒―主、再び語り給う

心身の神癒―主、再び語り給う

前書きの部分を除き、文章の内容密度は極大である。しかしそれだけに、普通に読んでもその内容を殆ど把握できない可能性もある。これもできれば原文で読むことを薦める。

Divine Healing of Mind & Body

Divine Healing of Mind & Body

もちろん日本語訳でも多くのものが得られるだろうが。

一旦通読してからも、音読する、一文読む毎に瞑想する、100回繰り返して読む、写本する、などあらゆる手段を使ってその深い内容を理解しようと努める価値がある。

私がこの本を読む場合も、その際の自分意識の状態によって得られるものが全く違ってくる。例えば普通の本を読む時のような意識でこの本を読むと

「ふーんなかなかいいこと書いてあるなー。確かにそうだよなー。へーそうなんだー。」

というような軽い感想を持つくらいである。しかし、非常に静かな集中力と、鋭敏な感受性を備えた状態で読むと、

「なんだこれは!」

と、一行読んだだけでそのあまりの内容に圧倒され、感動の涙と嗚咽で1ページを読み進めることも出来なくなることがある。しかし翌日落ち着いて同じ箇所を普通に読んでみると、

「昨日感動したこの文章の凄さをぜんぜん感じられないぞ?」

と、あっさり読み進んでしまったりする。

結局、聖典の文にせよ、日々昇り行く太陽にしても、今自分が生きているという奇跡についても、その深い意義や意味について常に把握できる意識状態でいることは難しいということだ。そこで内容をより深く理解するためには、そうしようと努めることが必要になってくる。この前に紹介した3冊を読むことは、その助けとなるだろう。そのようにして読んでいっても、1年後にまた読み返せば、そこに以前はまったく気付かなかった多くの内容があることに気付くだろう。これはそういう内容の本である。



最後に紹介する本は、3つの独立した部分に分かれている。その構成は本文、生徒用演習、教師用マニュアル、となっており、自学自習できるようにと意図されている。特に演習部は、易しい課題から順番にこなしていけば内容の理解が深まるように構成されている。英語に抵抗がなければ、これまで紹介した4冊を読まなくても、ひたすらこの一冊を理解しようと努めれば目的は達成できるだろう。日本語訳は現在のところ本文部分のみ刊行されている。

A Course in Miracles: Combined Volume

A Course in Miracles: Combined Volume

これは私が現在知る中で、最大の本である。

尚、この本の初版の著作権は開放されており、原文も公開されているので紹介する。

A Course In Miracles Online ~ Searchable Urtext Version

また、幸いこの本に関連する幾つかの本は日本語でも出ている。それも合わせて、下の紹介記事を参考にされてはどうだろうか。

ACIMという不思議なテキストについて アンカテ


幻想継続させる書籍」と「幻想を終了させる書籍」の落差は、一般的な書籍間の落差では表すことはできない。通常の本をたとえ100万冊読んだところで、A Course in Miracles: Combined Volume 一冊を理解することには遠く及ばない。何事についても、その本質を把握しないことを前提とした議論と、その本質を把握するための議論は、比較のしようがない。

究極の問いとしての

あなたはどこからきたのか?

に対して、人は論考によらず、直接に回答を把握しなければならない。なぜならそれは、論理も、言語も、思考をも超えたものだからである。


とはいえ、幻想探検もまた大変楽しいものである。また、一度目が覚めた後、それが夢だと分かっている安心感と共に再度夢を見るのも大変楽しいものである。今すぐ起きる必要もないのであるし、どうせ夢を見るのであれば、なるべく楽しく豊かな夢になるようにしていこうではなか。


ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる25冊を紹介 分裂勘違い君劇場

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2008-06-26僕の小鳥は青緑

僕の小鳥は青緑

何でそんなに変な色

青色毛虫食べたから

緑の木の実食べたから


僕の小鳥は青緑

とても可愛い声で鳴く

ぴーぴーきょろろぴーきょろろ

ぴーぴーきょろろぴーきょろろ


僕の小鳥は青緑

とても綺麗な青緑

空はとっても青いから

空があんまり好きじゃない


僕の小鳥は青緑

僕の心も青緑

君が飛んだら世界中

とても綺麗な青緑



小鳥

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2008-05-30空とは何か - 色即是空と般若心経

[]空とは何か - 色即是空般若心経


※ 例によって、これは私個人の勝手な解釈の紹介であり、一般的な解釈とは何の関係もないという点にご留意下さい。


般若心経と空

色即是空 空即是色」


これは、般若心経の中の有名な一節です。般若心経とは、仏教経典の一つです。詳しくはこちらのページを御参照下さい。

般若心経の内容を要約すると、

「すべての物事の本質が『空(くう)』であることを理解すると、あらゆる苦悩が無くなって完全な平安が得られます。だから皆さん『空』を理解しましょう。」

と、なっています。

ではこの『空』とは何でしょうか?


色とは何か

では先ほどの一節です。


色即是空 空即是色」

色すなわちこれ空なり 空すなわちこれ色なり


色は空で、空は色です。ということですね。さて、ここでいう『色』とは何かといいますと、一般的な物事全てです。石ころもそうですし、人間もそうですし、暑いという感覚もそうですし、資本主義という概念もそうですし、「私は今生きている」という思考もそうです。全部が『色』です。『色』とは色づけのことであり、色づけとは意味づけのことです。つまり、意識勝手意味づけている(色づけている)事柄を、『色』と表現している訳です。勝手意味づけているとは、例えば石ころについて説明しますと、あなたが「石」だと考えたそのある事柄は、絶対的な原理で「石」であるわけではありません。それを原子の集合と見てもいいですし、素粒子の波と見てもいいですし、道路の一部と見てもいいですし、地球細胞と見ても構いません。しかし実のところそれは、あなたが「石」という名前で表現されるある特定の見方で意味づけるまでは、何物でもなかったのです。そして、それが「何か」であるという風に考えてそれを見た瞬間に、その見られたものはあなたの意識によって特定の意味づけ(色づけ、名づけ)がなされたものになります。このようにあなたが認識する全ては何であれ、あなたによって特定の意味づけがなされているために、それらは『色』と呼ばれることになります。


空とは虚空であり、虚空は無限である

色即是空

とは、全ての物事の本質は『空』である、ということになります。『空』というのが空っぽで何も無い、という意味であるなら、この世の全ては無であり、何も存在しないということになります。しかしそういったことはありません。『空』とは何も無いことではないのです。

『空』とは虚空を意味します。虚空とは、一見何も無いように見えながら、実際は全ての事柄、無限の事柄を内包している状態を指します。全てを内包していながら何も無いように見えるのはなぜかといいますと、全てを全てのまま何の色づけもなしに眺めているためです。無色の光というものが、何の色もついていないように見えながら、その実あらゆる色相のスペクトルを内包しているのに似ています。無色の光からはどんな色でも取り出せますが、全ての光を含んだ光全体を見ると無色に見えますね。

そうしますと、

色即是空 空即是色」

という一節は、

「すべての物事の本質は虚空であって、虚空を特定の見方で眺めることによってあらゆる物事を見ることができる」

という意味であることが分かります。


空を見る

これまでの説明から、皆様は空すなわち虚空というものについて漠然としたイメージを持たれたかもしれません。しかし、そのイメージはまた意味づけであり、色であるのです。そして、ある特定の色と、別の特定の色が似ているかどうかについて、比較して考えるという色を眺めることになります。しかし虚空はイメージでもなく、思考でもなく、概念でもありません。もしかすると皆様の中には、虚空というものもまた物事の特定の見方に過ぎず、色の一つに過ぎないだろうとお考えになる方がいらっしゃるかもしれません。しかしそうではありません。もちろん「虚空」という言葉は色ですが、その言葉で表現しようとしているものは、色ではないのです。もちろん、虚空もまた見方の一つに過ぎないということは可能でしょう。しかし、その見方だけは、他の見方と決定的に異なっているのです。端的に言えば、見方には空と色の2種類しかないのです。そして、空でないならば、どれも色でしかありません。言い換えれば、空とはただひとつの、色づけられていない見方なのです。

さて、ではその唯一の見方であるところの、思考でも概念でもない空という見方をするにはどのようにすればよいのか、ということになります。実際の所これについての方法論は無数にあり、宗教なり集団なり個人なり、各人各様好みの方法を探して用いればよいのではないかと思います。例えば般若心経では、真言(マントラ)を唱えつつ瞑想することが推奨されています。いずれの方法にせよ、自我を含め色が色であることを理解することを通して色でないものを理解するということになるのではないでしょうか。

例えば覚醒の炎などではとても明瞭簡潔な説明がなされていますし、A Course in Miracles(これの解説書としては神の使者など)では少し異なる形のアプローチながら、段階的な学習が期待できます。


完全な平安をお望みの方は、よろしければお試し下さい。

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2007-12-17究極存在論と行動原理 - 究極に関する論理概説

はじめに

私が通常何かを表現する際には、なるべく他者の思考の文脈に沿った表現になるようにしている。そうしなければその内容が理解されないためだ。しかし、今回の記事は私が最も興味を持っているテーマなのだが、それは殆どの人にとってまったく馴染みのないものであるだろうし、私も自分の思考の文脈に沿った形でなければ書きにくいので、分かりやすさを犠牲にして書きやすいように書いた。その点をご理解頂きたい。


1.存在の究極に関する論理


1.1 完全無限

何事に関してもあらゆる見方が可能であるが、どの見方であってもそれが絶対的な見方だというものはなく、すべて相対的である。つまり、ある現象が他の現象よりも絶対的にリアルだということはなく、ある見方が他の見方よりも絶対的にリアルだということもない。例を挙げれば、あるゲーム内の仮想空間を現実だと考える見方と、自分の見ている夢を現実だと考える見方と、目を醒ましているときに見るいわゆる通常の世界現実だと考える見方は、どれも同等の正当性を持つ見方であり、絶対的には差異はない。(もちろん相対的には大いに差がある。地平線から月が昇るという見方と、月平線から地球が昇るという見方は、絶対的には差が無いが、地球に住んでいる人が利用するのに適しているかどうかという観点から見れば、前者の方が遙かに強い正当性を持っている。)

さて、実際に存在することと、存在する可能性はあるが存在していないことは、絶対的には等価である。それらは単に見方が異なるに過ぎない。(強引に例えれば、パラレルワールドの住人にとってはこの世界は可能性の上でしか存在していないが、それはお互い様であり、絶対的にはどちらの見方も同じ。)

では、存在する可能性のあるものはすべて存在するという見方で考えていくと、存在というものはどこまで広大になっていくだろうか。これは、あらゆる方向に、どこまでも無限に広がってゆく。我々が思い描きうる全ては存在し、我々が思い描きえない全てもまた、それを思い描きうるものが存在しうることによって存在する。このようにして存在というものを拡大して見ていくと、ついにはあらゆる方向に無限に広がる究極のものとしての、存在というものの在り方が見えてくる。これを私は完全無限と呼ぶ。(ここで、何者によっても思い描き得ないもの、完全無限体における穴とでも呼ばれるべきもの、いわゆる、無、が存在するのか、それらが存在する場合どの程度の分布になるのかという問題があるが、これは今は重要ではないので取り上げない。)

私が完全無限体と呼ぶものがどれほど広大であるかは分かってもらいにくいと思うが、あらゆる素粒子存在しうるパターン全て、あらゆる人が考えうる物事とその派生などについて、全ての可能性とその可能性の在り方のパターン全て、ありえる全てと考えうる全てとそれらでない全てが含まれたものであり、完全にあらゆる方向に対して無限である。(これに対し、他の無限は部分無限とでも呼べるだろう。部分無限なものは無限にあり、例えば自然数の数列は無限である。しかしそれは無限である範囲がある部分(自然数列の方向かつ整数)に限定された無限であり、整数の数列という無限の半分しかない。しかしどんな数列も数学体系という領域内における無限であり、数学体系といえど人間の考えうることという領域に収まっている。こうしてみていって、最終的にあらゆる方向に対しても無限である最終最大の無限を完全無限(体)と呼び、完全に(あらゆる方向に)無限なものはこれだけである。)


1.2 完全無限体の性質と時空間

完全無限体には全てが含まれ、それを完全無限体として眺めると全ては止まっている。そしてただ完全無限体のみが存在している。全ては分割されておらず一体である。(何かが動いたり変化したりしているように見えたら、それは完全無限体を見る見方ではなく、その他の特定の部分を見る相対的な見方である。)

完全無限体の中のある領域を眺める見方に、物質が存在する、という見方があり、その見方の中に、多元宇宙論という見方があり、その見方の中にこの宇宙存在する、という見方があり、その見方の中に、時空連続体、という見方があり、その見方の中に、一定方向に断面を動かして眺めるという見方があり、その見方を採用すると、時間というものが存在するように見える。

時間が存在するという見方は間違いでもないし悪いことでもないが、正しいということもない。絶対的には、単にそういった見方も可能であるというだけである。

過去は戻らないのか?未来は未知なのか?という問題についても、そういう見方も可能である、ということになる。完全無限体の中には、全てのパターン過去と、全てのパターン未来は、全てのパターン現在と同様に存在している。あなたの主観という見方では、そのどれか一つを体験することになるのかもしれない。しかし絶対的には、あなたが全てのパターンを体験した場合が同様に存在している。あなたは主観的には、右の箱か左の箱のどちらを開けるかを自分で選べると思うかもしれない。しかし絶対的にはあなたは何も選ばず、全ての場合があるだけだ。そしてあなたはあなた自身の意識や意志が存在すると思っているかもしれないが、絶対的には、そして多くの相対的な見方においてもそれらは存在しない。単にそれらが存在するという見方も可能であるというだけだ。その場合、あなたは自分に意志があるので、何をするかを自分で選択できるという見方を採用するだろう。それはもちろん悪いことでもないし、間違いでもない。しかしあなたは自分の意識がどこから来ているのかを自覚することは無い。そしてあなたの行ったことも行わなかったことも含め、全ては完全無限体の中に永遠に刻まれている。そしてまたそれらを参照するどんな見方でも存在しうるということにより、どのようにでも参照される。つまり、あなたのこれまでの、そしてこれからの全ての行動、すべての思考、すべての感情は洩れなく記録されており、無限の数の観察者によって観察される。


2.絶対行動原理


さてここで、行動というものが存在するという見方を採用しよう。すると、あらゆる意識を有する(かのように見える)存在は、主観的には自らの行動を選択している。そしてその選択は、ただ一つの基準に従ってなされている。その基準とは快、不快である。そしてこの、快を増やし、不快を減らそうとする(トータルでの快を最大にしようとする)一定方向の行動原理を絶対行動原理と呼ぶ。

全ての選択はこの絶対行動原理に従ってなされており、これを破ることは絶対に不可能である。(例えばあなあたがこの行動原理を破るために、わざと自分の不快感を増やすような選択をしようと試みたとしよう。例えば、今から包丁で自分の腕を切断するかしないかという選択において、苦痛が大きいであろう切断するという選択をしたとしよう。しかしこの選択をした場合、あなたにとって、腕の肉体的苦痛と、私が示した行動原理を破ってやったぞという自負からくる精神快楽を足し合わせた場合、腕を切断しない選択をした場合よりトータルでの快楽が大きくなると判断したためにその選択をしたのである。)

一見どれほど複雑な動機から行われているように見える行動でも、すべてこの行動原理に従っている。ではここに一人の大学受験生がいて、嫌々ながら勉強しているとしよう。彼は一見自分の快を追及していないように見えるかもしれないが、結局のところ勉強しない場合の将来への不安感という苦痛より、勉強の苦痛のほうが小さいから勉強しているのだ。

この原理は、道徳倫理、人道、正義、善悪、法律暴力、正誤、損得、愛憎、その他あらゆる形の判断基準のベールの背後で働いている。どんな動機も良く見れば、それは結局快不快に変換可能なものだということが分かるだろう。


さて、全ての人は幸福になろうとしている。全ての人は快を最大にしようとする行動原理に従って行動している。幸福とは、トータルでの快の多い状態のことである。

しかししばしば、自分の快を最大化しようと行動すると逆に快が減少するように見えることがある。そこである人々は、自分の快不快ではなく社会規範に従って行動することが、自分が幸福になるのに良い方法だと思っている。

かしこれは単に、その行動が自分の快不快にどのような影響を与えるかの予測が間違っていただけであり、予測の精度を上げればよいだけである。

何が自己の快不快になるかが正確に分かるのは、自分自身のみである。社会規範道徳は、あなたの快が最大になるように意図しては作られていない。社会規範は、社会規範の製作者の快が最大になるように作られている。絶対行動原理により、それ以外はありえないのである。

ここから様々な事柄が演繹的に導かれるのであるが、ここではあなたが幸福になるためにはどう行動すればよいかという点だけを紹介する。


あなたが幸福になるためには

自分の行動の結果がどのように自分の快不快に影響を与えるかが分かっていない場合や、自分以上に自分の快の最大化の方法を知っている人がそれを意図して作ったものである場合には、他者の作った行動規範に従う。

そうでない場合には、自分の快が最大化するように行動する。

行動の結果の予測精度を上げる。

ようにすればよい。

これを別の表現にすれば、

あなたが充分に賢い場合、

「やりたいことは全部やり、やりたくないことは何もやらない」

ようにすると、あなたは最も幸福になる。

となる。

この状態の具体的実現方法はこの記事のテーマではないのでここでは取り上げない。


おわりに


この記事では存在と行動の根本について示したが、これは具体的なハウツーではない。だからこそ多くの人にとっては興味の無いことだと思う。しかし私にとっては極めて重要なことだ。

私は皆が大きな底の深い桶にバケツで水を入れているのを見る。皆夢中に水を入れている。そしてどのようなポーズで水を入れるかや、バケツの持ち方や、どれだけ早く水を入れるかに興味を持ち、熱心に語り合っている。そしてこれまでどれだけ多くの水が桶に貯められたかを思って涙している。しかし桶は深いので実際に水が貯まっているのかどうかは誰にも分からない。そもそも底があるのかどうかも分からない。

私は皆と水を入れながらもずっと気になっていた。この桶には底があるのか、底があっても穴が開いていたりしないのか、側面から洩れたりはしていないのか。

皆は言うかもしれない。「そんなこと考えて手を止めてないで水を入れろよ。」「水を入れるのはとにかく楽しいぜー。」「手を止めて考えるにしてもせめて、どうすればもっと効率よく水を入れられるかを考えてくれよ。」

彼らは桶の底について考えたことはないのだろう。それどころか桶に底があるという概念すらないだろう。せいぜい、桶には深さというものがある、ということを考えることがあるくらいだ。何しろ彼らは桶の内側は殆ど覗こうとせず、稀に覗いてもせいぜい縁から10cmくらいの深さまでしか見ない。

多くの偉大な人々は桶の深い部分に関する色々な情報を教えてくれるが、私が最も気にしている点は話題にならなかった。彼らは知っているのかもしれないが。

皆は本当に底があるか気にならないのだろうか。穴が無いか不安ではないのだろうか。それを確認せずに本当に桶に水を入れることを楽しめるのだろうか。意識せずとも少しは不安があるのではないだろうか。底がどうなっているかは分からないとは限らないのではないか。

そこで私は一人で桶深くまで降りていった。桶の底を確認しようとすることは、底を知らずに水を貯めようとするよりもずっと楽しいことだった。

そして思ったよりも早く底に到達した。そして確認できた。私はすっかり安心した。

私はいずれこのことを桶の底を知らない皆に伝えようと思ったが、上手く伝えられるとも思えないし、皆興味もないだろうからしばらく黙っていた。そして水を入れる作業を一人で心から楽しんだ。

しかし今日は気が向いたのでちょっと話してみることにした。もしかしたら私と同じように底がちゃんとしているか心配している人がいるかもしれないし。

「みなさん、私は桶の底がしっかりと塞がっていることを確認しました。底からも側面からも水が洩れる心配はありません。どうぞご安心下さい。」


みなさん、あなた方の全ての行為は最大のものから最小のものまで全て永遠に失われず、滅びません。また、全ての行為は完全に肯定されます。私はこれらの事を確認しました。明日宇宙燃え尽きるとしても、特に不安はありません。みなさんもどうぞ安心して好きなように生きたり死んだり、幸福になったりして下さい。

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2007-12-01みんな仲良くすればいいと思う

法律の人達は神様でも裁いてればいいんだと思う ― レジデント初期研修用資料」 

について少し箇条書きっぽく書いてみます。


社会構造は道徳に基づいて構築され、道徳は人々の(何が善いと感じるかという)感情によって規定され、人々の感情は当人の生活する社会構造によって影響される。

これらは相互に影響し合いながら変化していく。

感情の変化に比べ、構造の変化には時間と労力がかかるため、社会構造はいつも人々の感情とは「ずれて」いる。

しかしそこに構造がある以上、その構造を肯定する感情が少なくとも過去にはあった。

「老親は、家で診るのが一番幸せです」という道徳を肯定する感情があった。

道徳は人々の感情が決めるので、「道徳のありかた」を議論して定義しても、絶対に不満は出る。

「ほとんどどんな条件のもとでも、一意的な均衡に誘導するメカニズム存在する」が、どのような意図に沿った均衡に誘導すればよいのかに関する人々の感情はばらばら。

もちろん現在の、国会議員国民投票で選ぶという方法以上に、人々の感情を欠損や遅滞が少ない形で吸い上げる機構の構築は可能。(ネット投票を駆使した国民による直接政治等)

しかしそれによって人々の感情と社会構造のずれが少なくなったとしても、不満は残る。最大多数が納得する正義を考えたとき、そういった新機構があれば最大多数である度合いが大きく増えるのかは疑問。

「急性期の大病院を一番高価にして、老健施設、在宅介護サービスの順番に、経済的な負担が少ない」構造がすぐに作れる状態であったとして、そういう社会構造に「すぐに」変化することを「善い」と「感じる」人がどれほど多数であるのか。多くの人にとって「急な変化」は恐ろしいものではないのか。

感情の重要性は延命治療を考えると分かりやすい。そもそも無理な延命を悪いと「感じ」ず、死を嫌だと「感じ」るからこそ、不経済な延命治療は行われている。


ではこれらの問題の根本の原因は何であるのか。

それは「理解の不足」ではないか。とりわけ人々の「相互理解の不足」ではないか。

1.法律家は「国民はなぜ、どのような感情を抱いているのか」を理解しようと努め、その感情が要求する社会構造を構築するために必要な経済学的制約を理解しようと努めた後に、仕様書を作成する。

2.経済学者は「法律家はなぜそのような仕様書を作成したのか」を理解しようと努め、その仕様書に沿った社会構造を考え出した後に、その意義を国民に広く伝えようと努める。

3.国民は「なぜこのような社会構造が作られたのか」を理解しようと努め、自分の感情を正確に法律家に伝えようと努める。

このように分業ではない、感情の相互理解に基づく協業こそが、真に問題を解決するのではないか。

国という組織の各細胞は、有機的に関連しあいながら全体を構成している。

プログラミングとは経営判断の集積である ― 分裂勘違い君劇場 」  

という記事はプログラミング経営判断は不可分な作業であることを示しているが、仕様書の作成作業と社会構造の構築作業も同様に不可分な領域を持っているだろう。

ネットの発達は技術進歩を加速させるが、同時に人々の相互理解をも加速させる。

学習の道具としてblog はあんまり役に立たない」のかもしれないが、基本的な相互理解の不足を埋めていくのには、大いに役立ってくれるのではないだろうか。

そうして、「法律家」「経済学者」などとカテゴライズして人間を分断せずに、みんなでみんなの社会を考えていくという見方はどうだろうか。(もちろん各人の適性を活かして、それぞれが最も深く考える分野は異なって当然だが)

多くの人がそのような意識を持っていくと、仮に社会構造が変わらずとも最大多数の幸福は実現に近付き、それに付随して社会構造も最適な状態に変化していくのだと思う。

付 言葉の定義の問題ですが、今回の場合なら、「法律の人・法律家とは、法律について考えている人の事である」とでも定義するとしっくりくるかもしれませんね。より厳密には、「ある人が法律について深く考えている程度に応じて、その人がどの程度法律家であるかが規定される」とでも表現するとよいかもしれません。記事のテーマとは関係のないことですが、言語というものの不完全さを文脈からの読解で補おうとするのが好きではない人もいますからね。(笑)

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2007-11-10ぼくばなの(妄想じゃない)レビュー

かつて発売が計画されたが実現しなかった幻の本、「ぼくばな」を読む機会があったので書評を書いてみる。

この本は極めて特殊な本である。何が特殊かというと、この本は「非直線的思考」に従って書かれている。

「直線的思考」とはつまり、時間・空間的に連続であり、論理的に整合性があり、物質世界に適応しており、1、2、3、とくれば次は4であるというような思考である。逆に「非直線的思考」とは、時間・空間は問題とせずむしろ親和性を重んじ、論理は通じず、物質世界よりはむしろ睡眠中の夢の世界の性質に近く、1、2、3、とくればそういえば昔ビー球の数をこうして指で数えていたなぁ、というような思考である。

こういった特徴を持つ本書は、通常の本と同じような読み方をしてもその内容を楽しむことは出来ない。支離滅裂で無意味でくだらない文章が並べられているだけに思えてしまうだろう。しかしそうではない。キュビズムを取り入れたピカソの絵が、一見荒唐無稽幼児落書きのようにも見えながら、見方が分かれば実は多くの価値を内包しているように、本書も読み方が分かれば多くの価値を内包していることに気付くだろう。

ではどのように読めばいいのかだが、作者は次のように書いている。

小説ストーリーもすすむわけですが、読む人も成長してしまうみたいな感じですね。

成長するコツとしては、

読み返したりしない

意識して覚えようとしない

解釈しようとしない

といった感じで、とにかく高速で読み流してください。

このように読んでいけば、字面を論理的に解釈しようという直線的思考が介在しにくくなり、読者の無意識の中に言葉の背後に作者が込めた感性からの印象を受けとりやすくなる。そしてその印象は、意味が一通りに限定された通常の小説の文章と異なり、読者の数だけの影響の受け方が出来る。それはそれぞれのシーンがその読者の記憶の中からそのシーンに象徴されるものを呼び起こし、それを体験するというようなものだ。しかもそれが意識的には無自覚に行われていく。(表層意識にとっては、無意味な文章を読み流しているだけに感じられる。)

意識的に解釈せずに読み流すということが難しい人は、これは自分が見ている夢なのだと想像しながらこの文章を読むとよいかもしれない。夢であればどんなに突飛なことが起こっても抵抗が少ないだろうし、気楽に眺めていけるだろう。

このように読んでいけば、目を醒ましていながらにして、通常は夢を見ている間しか出来ないような非直線的思考を体験出来る。これはとても珍しいことで、非常に特殊な娯楽だと言える。なにしろ目覚めながらにして夢を見られるようなものだ。

通常の小説においては、実は一部の特定のシーンなり台詞なりが作者が表現したかった感性を現しており、そのシーンが存在することが論理的に整合性を持つような付随的説明が文章の殆どを占めるという構造になっている場合が多い。これは物質世界と直線的思考に慣れた読者に対して、通常の文字では表現しにくいものをなんとか表現しようとした結果であるので仕方の無いことだ。詩や俳句といった短い文章で感性を表現することも可能ではあるが、それは表現するものを限定することにより成り立っている。その点「ぼくばな」は、論理的整合性を排除することにより、小説でありながら詩と同レベル感性密度を文章に持たせようとしている。そのために

本日ぼくばなの配信を始めましたのでお知らせ致します

というような、断片を切り出すという通常の小説では不可能な読ませ方も可能にしている。

これはまったく新しい文学形式だと言えるのかもしれない。

また、このような読み方をしている意識状態においては、人は暗示の影響を受けやすくなるが、幸い作者は平和幸福を愛する人である。

少し気分が悪くなる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぼくばなの中で死んだり不幸になったりする人は一人もいません。

最後には幸せっぽい感じになるように書いてありますので、御安心ください。

と書いているように、無意識恐怖感を植えつけられたりすることはなく、逆に精神は大いに癒される効果が期待される。


このように、「ぼくばな」は極めて特殊な本である。現在

本日ぼくばなをリリースしましたのでお知らせします

から読むことができるので、この新しいジャンル文芸作品を楽しんでみてはどうだろうか。


しかしこの作品は、無名の作家新ジャンルを創出してしまったために、それが凄いものだということが誰にも理解されないという状況にあると思う。キュビズムももしピカソが無名の時代に描いていたらだれも評価しなかっただろう。作者には一般的なジャンルの作品でも活躍してほしいと思う。


追記1

それにしても、この作品で表現されているような体験や思考をする人が、毎日普通会社で時間を守って仕事をするなどということが出来るということに驚く。この作品の元となる非直線的思考をするということは凄いが、その思考を小説として体を為す形にまとめるというのはそれよりはるかに凄い。しかしそれよりももっと難しいのは、そういったことをするような人が時間という直線的思考の代表のようなものを守って普通仕事をするということだ。それを可能にするためには膨大なエネルギーや工夫が要るように思う。感心するばかりだ。

追記2

そういえば誤字を発見した。

田中は前身紫色になって人形みたいな動きをしていた。

前身>全身

>もうだけ少し上手にしようと思ったそうです。

もうだけ少し>もう少しだけ

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